# 03 我等が友
闇が退いた。
足の裏に固いものが触れる。乾いた土に細かい石が混じっていた。空は白く濁っている。雲でも霞でもない。ただ白い。
前方に、山があった。
初めは岩だと思った。臥せた躰だと判るまでに間が要った。肩にあたるところが見上げる高さにある。胸から腹にかけて、人の筋によく似た隆起が並んでいた。腕の付く数も、地に着いているものの数も、人のそれではない。
首の先にあるのは頭ではなかった。細く尖ったものが前へ伸び、その付け根に赤い光が一つ点いている。背からは幾筋も、青白い光が糸のように流れ出ていた。胸の真ん中に嵌まったものが息をするように明滅している。
仮面の力の姿だった。
「……これは、何の記憶だ」
始祖たちの膳を見た。四つの面が布の上に並ぶところも見た。焼けた野も見た。ならばこれも遠い昔の誰かの記憶なのだろう。誰かの終わりを見せられるのだとしても、見るだけのことだ。
倒れた躰の指が動いた。
『扉ヨ……根源ヘノ扉ヨ……』
声が地の底から出てくるように響いた。乞う声だった。これまで、武人がそういう声を出すのを聞いたことがない。
『我ヲ……チカラノ深淵ヘト導キタマエ━━』
青白い躰の裂け目が閉じていく。傷が塞がるのではない。無かったことになっていく。
山が起き上がった。
その先に、もう一つ立っていた。
こちらは黒い。首が長く、鱗に覆われ、先の裂けた顎が空へ向いている。指の一本が人の胴ほどもあり、その先に橙の火が灯っていた。
二つが交わった。一度きりだった。
残って立っていたのは青白いほうだった。
『……オシュ……トル……』
黒いほうが崩れた。顎が閉じ、指の先の火が消え、輪郭が地に沈んでいく。土は音を立てなかった。
自分の名だった。呼ばれたのは自分ではない。
青白い躰が揺らいだ。
背から出ていた光の糸が切れる。胸の光が沈む。腕の数が減り、肩が下がり、山だったものが人の丈へ落ちていく。
最後に、首の先の細く尖ったものが剥がれた。
剥がれたそれは砕けずに、男の手の中へ落ちた。面だった。
その下から出てきたのは、自分の顔だった。
「これは俺の……未来。最期なのか」
声が喉から出ていったあとで、それが自分の声だったと判った。
男が膝をついた。
傷は無い。血も出ていない。代わりに袖の先から白いものが落ちていた。粉のように細かく、風の無い場所をまっすぐ下へ落ちていく。
膝から下が無かった。
男はそれに触れなかった。顔を上げて、その先を見ている。
その先に、人の形をした何かが立っていた。輪郭が定まらない。目も口も判らない。白い霞のようだった。
男のほうへ足が出た。土を踏んだ感触はある。歩いたぶんがどこにも減らない。膝をついた男の背も、その先の霞も、初めに見たときと同じ遠さにあった。
「覚えているか。我等が初めて出会った時のことを」
霞は答えない。掠れた低い声だけが白い中へ吸われていった。
誰に言っている。
「其方と初めて肩を並べたのも、こんな場所だったな」
白いものの落ちる速さが増した。
肩を並べた覚えなど無い。あの霞が誰なのかも判らない。判らないのに、その語の並びには聞き覚えがあった。
「其方と供にあった刻は、楽しかったぞ」
膝の上に置かれた男の手がそこで一度だけ動いた。
「これは仮面の者の定め……悔いは無い」
男が手の中の面を持ち上げた。肘の高さで止まった。
霞が動いた。初めてだった。
白い手が伸びて、面を受け取る。
「頼んだぜ、アンちゃん」
武家の言葉が落ちた。
その崩し方を知っている気がした。使う相手がいない。
霞が薄くなる。形が崩れ、白の中へ紛れて、消えた。
膝をついた男の顔がこちらを向いた。
「これはあなたの記憶」
男の口から出たのは、さっきまでの掠れも低さも無い声だった。幼い娘の声だった。若い女の声でもあり、老いた女の声でもあった。
「俺の」
「そう。大いなる意志により白き者への道標となるあなたの」
自分の手が勝手に握って、開いた。
「白き者。大いなる意志とは何のことだ」
答えは間を置かずに来た。
「大いなる意志とは大きな河。山から海へと流れる、根源の理」
河なら知っている。上から下へ行くだけのものだ。そのどこが理なのか。
「根源……根源への、扉」
その語だけはさっき聞いた。この男が唱えていた言葉だ。扉を呼び、深淵へ導けと乞うていた。その先に何があるのかは言わなかった。知らずに乞うたのか、知っていて黙ったのか。
「ねえ。あなたの望みは何?」
崩れかけた者の口から出るには、あまりに軽い調子だった。何を訊かれているのかを掴む前に、船葬墓で聞いた言葉が戻ってくる。試練。まだ続きがある。
厨子の前で視界が沈み、伸ばした手が誰の袖にも届かなかった。その続きに、いま自分は立っている。どれも順に見せられてきたものだ。ならば問いにも順序があるのだろう。
「強くなることだ」
無駄死にするだけだ、と言われたことがある。足りぬものが多すぎる、とも言われた。それでも引かずに、額を床へ擦りつけて、ならば鍛えてくれと願った。必ずや無双の武人となり、聖上のお役に立ちますと言い切った。
返ってきたのは頷きではない。若いのう、と言われた。父と同じ道を選ぶか、と。
「強くなってどうするの?」
ここでも頷かれなかった。
強くなることの先に、まだ何かが要るのか。
「俺の義を果たしたい」
義。自分で拵えた語ではない。
一つ、モノノフとは真摯であるべし。相手を侮るなかれ。それ即ち傲りであり、恥ずべきことと心得よ。
幼い頃、一つ、二つと数え上げる形で叩き込まれた。武士の義とは、己がためにあらず、弱き者を護るためにあるのだぞ、とも言われた。
いつからか、武士とは義の生き様なり、と自分でも口にするようになった。口にするようになってから、中身を確かめたことがない。
名も知らぬ娘が同じ節を槍の合間に唱えてみせたことがある。父さまはそう言っていた、と。あの人は谷の向こうでも同じ順で説いていた。
その当人が一度だけ、そこから外れている。見過ごせなかった、と言った。理由はそれだけだった。外れた先にいたのが、槍を握っていたあの子だ。
構えたところへ刃が来ない。立ち合いのつもりで来て、これほど落ち着かないものか。
「それが死ぬことであっても?」
膝をついたままの顔は動かない。あの躰はもう変わらない。問いだけが外へ出てくる。
「先の記憶のようにか?」
「そう」
あの男は膝から下を失って、それでも悔いは無いと言った。楽しかったぞ、とも言った。強がりを重ねた者の声は聞き慣れているが、あれは違う。
あれが自分だというなら、答えは決まっている。決まっているのに、口を開くまでに一拍要った。
「それで守るべきものが守れたのであれば、構わないのだろう」
言い終えたところで、こちらの指の先が遠くなった。男は変わらない。崩れているのは自分のほうだった。
握ったつもりの手に、握った手応えが返ってこない。掌の縁がどこで終わっているのか判らない。
「そのものがあなたに生きて戻ってきて欲しいと思っていても?」
答えようとして、口の中に別の言葉があった。
待っていてくれ。
言った覚えはない。それなのに続きがある。あそこはいい國だ、きっとお前も気に入る。この埋め合わせは何れさせてもらう。
どれも自分の声だった。まだ喋っていない言葉を喉のほうが先に憶えている。三つとも帰る者の言い方だ。
言われた覚えのある言葉も、続いて出てきた。
躰に気をつけて。すぐ、帰ってくるのです。どうかご無事で。
袖を握られ、負い袋の口を結わえ直された。こちらからは、留守を頼む相手の肩へ手を置いた。あのとき自分は、すぐ済ませて戻ってくるさ、と答えている。
誰ひとり、死んでもいいから果たせとは言わなかった。
守るべきもの。守られる側。刃の届く先までは数えてきた。その先に立つ者が何を望むかは、一度も勘定に入っていない。聞いていなかったのではない。聞いたうえで、外していた。
穴が開いた、という言い方は当たらない。初めからそこに何も置いていなかっただけだ。
「当然、望んで死ぬのではない。為すべきことを為すだけだ」
言いながら、手を伸ばそうとしていた。膝をついた男へ。誰の袖にも届かなかったときと同じ動きだった。
腕が上がらない。目を落とす。指の輪郭が薄い。爪の際から粉のようなものが落ちていた。
「変わらないんだね」
責める声ではなかった。落胆でもない。試したのではなく、確かめただけなのだと判る。
試されたなら、削られるものがあったはずだ。答えはひとつも動いていない。動かずに済んだ。そのことの据わりが悪い。
肘から先が無い。膝が地についているのかも判らない。それでも口は動いた。
「それを託せる友と出会えたのなら悪くない」
言ってからその言葉の出所を探した。友。誰のことだ。会ったこともない者をそう呼んだ。
面を差し出したときの、あの腕の高さが浮かんだ。
「またね。オシュトル」
聞き覚えのある別れ方だった。
どこで聞いたのかを探して、探す端から手掛かりが薄れていく。声も、顔も、場所も無い。残っているのは、そう言われたあとに続いた何かの気配だけだった。
その気配に、悪いものがない。またと言われれば、また会うのだろうと躰のほうが受け取っている。
いつ、誰に。
問い返そうとして、口が形になる前に止まった。足元から黒いものが上がってきている。白く濁っていた空も、粉になって落ちていた指も、その底へ順に沈んでいく。
深淵へ導きたまえ、と乞うた声を思い出した。導かれる先とは、こういうものだったのか。
最後まで残っていたのは、面を差し出したときの腕の高さと、まだ会っていない者を友と呼んだ自分の声だった。
闇が来た。
# 04 教皇の記憶
シューニャは立っていた。
足の下は乾いた土で、細かい石が混じっている。同じ色の地面がどこまでも続いていた。草が無い。風も無い。
「オシュトル」
返事が来なかった。ムネチカの名も、ミカヅチの名も呼んでみた。
歩いてみた。地面が同じだけ続いた。
「シューニャ」
振り返ると、女がいた。
袖を下ろし、手には何も持っていない。
「わたしのこと、知ってるの?」
女が頷いた。
「はい。知っていますよ」
「あ。思い出した」
シューニャが一歩下がった。「
「はい。私も、そう呼ばれておりました」
「父さまが、近づいちゃダメって言ってた。ゼッタイだよって」
言いながら、もう半歩下がっていた。
女は下がった分だけ待って、それから歩き出した。
シューニャは半歩ぶん置いて、横に並んだ。
「ここ、どこ」
「貴方の郷が始まった土地です」
「ここが?」
石ばかりで、畑も家も無い。
足元の石が、ひとりでに少し先へ寄った。
地面に人が現れた。点々と、遠くまで。荷を負った者、子を抱いた者。皆こちらへ背を向けている。
「どこ行くの、あのヒト達」
「行くところがありません」
女は列のほうを見ている。
列の中ほどで、二人がかりで何かを運んでいた。布に包まれた根と、そこから出た細い幹。背丈より低い。
「なにあれ」
女も同じものを見ている。「持たされました。追われるとき、あれだけは」
シューニャが幹の細さを見た。
「あれが、おっきくなるの?」
「はい」
列が止まった。石をどけ、穴を掘り、根を下ろす。土をかけた者が手を打ち払って立ち上がる。
枝が横へ広がった。幹が太くなる。葉の間から、光が漏れた。
「
シューニャは光から目を離さない。「うちのはちっちゃいけど、おんなじ形。あの光のとこには、悪いものが入って来られないんだって」
「よくご存知です」
光の届くところだけ、地面の色が変わっていた。石の間から細いものが伸びている。
人が屈んだ。日が傾いていく。畝が一筋、また一筋と伸びた。
家が建った。煙が上がり、子供の声がした。
「郷になった」
「はい」
「
「私と、一緒に追われた者です」
「どうして追われたの」
「
「してはならないことをした、ってこと?」
「そうです」
「なにをしたの」
女の歩みが少し遅くなった。
「そのお話は、またいずれ」
「えー。そこが一番聞きたいのに」
「あらあら」
女が木のほうへ向いて、手を合わせた。
「お祈り?」
「はい」
女は手を合わせたままだった。「朝と晩に。一日も欠かしておりません」
シューニャも並んで手を合わせた。
女の唇が動く。「
「……それ、聞いたことある」
「はい。貴方の郷でも唱えます」
「ここ、いいところだよね」
女の手が下りた。
「……ここが何であった土地かを知ったのは、後のことです」
「なんの土地だったの」
「
女は歩みを変えない。「罪を犯した者を、連れて来て置いていく場所でした」
シューニャが女の前へ回った。「ひどいよ、そんなの。置いていくって、迎えに来ないってことでしょ」
「いいえ」
女の声が低くなった。「ここは、私に相応しい土地でした」
「……でも」
「追われた者が辿り着いた先が、追われた者を置いていく土地だったのです。知ったときは、震えました」
女がまた歩き出した。「それからは
遠くの山の上が赤かった。黒いものが空へ立ち上って、上りきったところで横へ広がり、日を隠した。
「山が燃えてる」
畑が焼けていた。人が口を押さえて走っている。痩せた子が、動かない大人の脇を抜けていく。倒れた者を抱え起こす者がいて、そのまま二人とも動かなくなった。
シューニャがそちらへ駆け出した。
「下がっていなさい」
女は動かない。「もう終わったことです」
「でも、まだ動いてるヒトがいるもん」
シューニャの足が止まった。止まってから女のところまで戻った。戻る間に、走っていた者たちが同じ場所をもう一度走った。
葉の間から漏れていた光が細くなった。細くなって、消えた。
光の消えた地面を、
「光が消えたから、入ってこられたんだ」
「はい」
「でも、あの木、まだあるよ」
「残っております」
「じゃあ、また光らせたんでしょ」
女が足を止めた。
「そうです。私は
シューニャのほうを見ていない。「民に寄り添い、苦楽を共にする者です」
女の声が変わっていた。初めに名を呼ばれたときとは、別の低さだった。
「
「あの木を? もらったものなんでしょ」
「あれを授けて下さった御方が、禁じておられたことです」
「じゃあ、なんで」
「別の方に、教わりました」
女が木を見上げた。「二度目の
「もう一回、しなきゃいけなかったの」
「民を助けるためには、他に道はありませんでした」
枝が伸びた。幹が太くなる。葉の間から漏れるものが戻って、焼けた畑の上を渡っていった。渡っていく先から、
口を押さえていた者が手を離した。倒れていた者が身を起こし、子供が走り出す。
「よかった。みんな起きた」
動かなくなった二人は、そのままだった。
「あのヒト達は」
「戻りません」
起き上がった者たちはそこを避けて通っていく。
「……みんな助かったのに、なんで怒られるの」
「
女がまた木のほうへ向いて、手を合わせた。「人が手を伸ばしてよいものではありませんでした」
「まだお祈りするの。もう助かったのに」
「助かったからこそ、でしょう」
手が下りない。
「後悔は、しておりません。同じことがまた起これば、私はまた同じことをいたしましょう」
シューニャが女を見た。
女は木のほうを向いたままだった。「民は知らずにいたことです」
女が空を仰いだ。仰いだ先には何も無かった。
「赦してもらえた?」
「いえ。まだです」
「ずっと待ってるの」
「ずっとです」
シューニャが口を開いた。開いたまま、何も出てこない。
女が笑った。
「シューニャ」
女が膝を折り、目の高さを合わせた。「ここが、貴方の帰るところです」
「わたし、帰っていいの?」
「はい。もう、どこへも行かずにすむのです」
女は目を合わせたままだった。「ここに、残ってくれますね?」
返事を待つ間が無かった。
「貴方が在るべきは、この土地です。民が、貴方を必要としております」
シューニャが顔を上げた。
女の目は動かない。「貴方の命をいただきます」
「わたしの、いのち」
「貴方の命があれば、あの郷は助かります」
「……なんで、わたしの」
女は答えなかった。
手が伸びてきた。
「やだ」
シューニャが後ろへ体を引いた。「わたし、まだ帰ってないもん。父さまが待ってるの」
返事は無かった。
女の指が肩に触れた。触れた指に力が入る。
「いやっ」
女の手が肩から離れた。シューニャは押していない。腕が肩の付け根から後ろへ引かれていった。
女の躰が傾いだ。傾いだまま戻らない。
石の間の細いものが消えた。畑も、人も、光も無くなった。
最後まで残ったのは木だった。それも、根方から崩れた。
シューニャは自分の手を見た。何も持っていない。押しのけた覚えもない。
またね、と遠くで聞こえたような気がした。
さっきまでの女の声ではなかった。幼い娘の声だった。若い女の声でもあり、老いた女の声でもあった。
暗いものが下から上がってきて、足元から順に見えなくなった。