光が退いた。
面越しに磨かれた石の冷たさが頬へ伝わってくる。継ぎ目に霜が乗っていた。パシュパクルは躰を起こしかけた。脇腹から力が抜け、肘が石の上で滑る。面の内で息を吸うと、冷えた土と朽ち葉の匂いが鼻の奥へ入ってきた。
光を立てていたのは環ではない。膝ほどの高さに組まれた石の台である。縁を
「父さま」
袖が引かれた。引く指が震えている。シューニャの右の手首で腕輪が鈍く光った。左の手には朱色の槍を握りしめている。太刀は手の届くところに転がっている。パシュパクルは柄を引き寄せた。
台がもう一度白く満ちた。
パシュパクルはシューニャの腕を掴んで台を下り、藪へ伏せた。娘の頭を押さえ、穂先が藪から覗かないよう槍を寝かせる。自分も面を土へつけた。霜を踏んで兵が出てくる。赤い羽根飾りの兜が暗い中に順に浮いた。兜の列の後ろで石を掻く重い音がする。毛の長い大きな獣が鞍の上に兵を乗せて台を下りた。
四人が出きったところで台の光が消えた。細っていくのではない。断ち切られたように一息に途絶えた。兵は誰も振り返らなかった。
「探せ。手負いだ、遠くへは行けぬ」
兵の穂先が藪の上を薙いだ。切られた葉が伏せた背に落ちてくる。獣が鼻を鳴らし、首を里の方へ振った。鞍の上の兵が手綱を絞っても、獣は前脚で霜を掻いてそちらへ向きたがる。鞍の上の兵は獣を御すのに追われ、藪へは目を向けなかった。
兵の足音は藪の外を回り、斜面を横へ抜けていく。獣の荒い息がその後に続いた。どちらもやがて山の奥へ散り、聞こえなくなる。
パシュパクルは台を見たまま低く言った。
「……向こうの
「ハルは……」
「判らぬ」
あの門に仕掛けた手を、パシュパクルは使っていない。
シューニャはそれきり黙った。台は二度と鳴らない。それでもパシュパクルは目を離さなかった。来られまいと判っていて、見張るのをやめられない。
空の端が白んでいく。石組みの影が短くなり、霜が端から融けて石を黒く濡らした。台の上には何も来なかった。
日が高くなっても躰は起き上がらなかった。脇腹に当てた布は乾く間もなく重くなる。兵が近くにいるうちは娘を連れて山を下りることもできない。シューニャは膝を抱え、パシュパクルの顔ばかり見ている。
「シューニャ」
「なに?」
「なぁに、すぐに良くなる」
シューニャはパシュパクルの袖の端を握り直した。
その日が暮れ、次の日も暮れた。藪の外で鳥が鳴き、また黙る。兵の声は戻ってこない。木の間の遠くに里の灯りが小さく並んでいた。シューニャが立ち上がった。
「食べる物、取ってくる」
パシュパクルは止めなかった。小さな背が槍を担いで藪を抜け、灯りの方へ下りていく。霜を踏む音はすぐに聞こえなくなった。太刀の柄を握ったまま、パシュパクルは灯りの方を見ている。
空が白む前に藪が鳴った。シューニャが土の付いた白い根を抱えて戻ってくる。頬に泥が跳ねている。
パシュパクルは面をずらして食べられるだけ食べ、残りを娘の手へ戻した。シューニャは黙ってそれを齧った。どうして追われたのかを二人とも口にしなかった。
葉が鳴り、オシュトルは柄に手を掛けた。下草の間を白い根が二本の足で跳ねていく。斜面を三歩で詰めて押さえ、土を払った。根の先がまだ手の中で動いている。
「何かと思えばダイコンか。
何処から逃げ出してきたのかは知らない。丁度いいので母への手土産にする。
斜面の上から声が降りてきた。
「
駆け下りてくるネコネの後をキウルが息を切らして追ってきた。
「御前が兄さまを探していたのです」
「そうか、わざわざありがとな」
頭に手を載せると、ネコネは耳まで赤くして顎を引いた。
「い、妹として、とうぜんなのです……」
「よし判った。御前の頼みとあれば、すぐにでもお
三人で里へ下りると朝の市場はもう人で詰まっていた。並んだ値札はどれも一度書いた字を消して書き直してある。店先では客が二人、主人に詰め寄っていた。
「ちょっとぉ。ここのところ、ずいぶんとお野菜が高いじゃないのさ」
「お肉もだよ。これじゃあろくに選べやしない」
「すんません。不作ってえのか、ここんとこ色々あって仕方ねえんすよ」
店の主人が頭を掻いている。ネコネがオシュトルの袖を引いた。
「御前のお話とは、きっとお肉やお野菜のことなのです。ははさまも困っているのです」
「確かに最近、野菜がどうとかぼやいてたな。しかし、だとして俺に何の用が……」
人混みを抜け、三人は屋敷へ上がった。謁見の大広間は板張りで天井が高い。左右の窓から光が斜めに差し、床の上で細く伸びていた。奥の一段高い座にイラワジが座っている。オシュトルは段の手前で膝を折り、ネコネとキウルがその後ろに控えた。
「来てくれたかオシュトル。早々であるが、近頃作物が高騰しているという話は聞いておるか?」
「はい、市場を通りかかったおりに。母も同じようなことを
「うむ。例年と比べ
イラワジが袖の中で腕を組んだ。白い髭の先が胸の上でわずかに揺れる。
「先日、郷の畑や牧所に被害が出たと報せがあってなあ。いやはや、参った参った」
「もしや、それを自分に何とかしろと
「いやいや、問題を解決しろなどと無茶は言わぬ。原因を調べてもらいたいのだ」
オシュトルは肩の力を抜いた。
「そう言うことでしたら判りました」
「ボクも兄上を手伝います!」
キウルが拳を握り、爪先を半歩前へ出した。
「すまん、キウル。これはただの狩りとは違うんだ。判ってくれ」
「キウルの気持ちはわかるですが、兄さまの邪魔になってしまうです。それに、まだ宿題が終わってないのですよ」
「うぅ……そ、そうですね……」
キウルの肩が落ちた。
牧所の柵は喰い破られ、羽が散っていた。土の上に黒い染みが点々と残っている。ホロロン鳥は半分も残っていない。
「ホント、参っちまうよ。オレ達が大切に育ててきたホロロン鳥をおおかたやられちまった。きっと
飼い手が柵の折れ口を指した。オシュトルは板の痕へ指を当てた。牙と爪の溝が思っていたより深い。
「……いや待て。この牙と爪の痕……オルケにしては大きすぎないか?」
飼い手は散った羽を足で寄せている。
オシュトルは谷を一つ越えて畑へ回った。畝が掘り返され、根の抜けた穴がいくつも開いていた。畑の主が畝の間を指した。そこに牧所で見たのと同じ足跡が残っている。
「牧所のと同じか。やはりオルケよりも大きい」
「こりゃあ、オルケなんかなぁ? んでもなぁ、オルケに畑が荒らされたなんて、聞いたことねえしなぁ……」
「言われてみれば妙だな。オルケが家畜を襲うのは判るが、畑を荒らしたりするか?」
しゃがんで土を見る。獣の足跡の上にもう一つ重なっていた。小さい。爪先の方だけが深い。
「……ヒトの足跡?」
畝の陰から何かを噛む音がした。
「んああ、コラァ、ドロボー!」
その声で影が跳ねた。速い。
「ま、待てっ!」
影は畝を飛び越え、林へ駆け込んでいく。影の手元で何か長い物が赤く光った。オシュトルは木の間を縫って追い、根の張った斜面で先へ回り込んだ。行く手を塞がれて影が足を止める。
「うあっ」
小柄な娘だった。白い髪に赤い髪飾りを挿し、頬にはまだ何か詰めている。手には身の丈ほどの槍を提げていた。朱色の穂先は角ばって長く、結晶のように透けている。オシュトルは手を下ろしたまま間合いの外で止まった。
「動くな! 手荒な真似をするつもりはない」
娘は肩で息をしたままこちらを見上げている。
「見たところ、このエンナカムイの民ではないが、畑を荒らしたのはお前か?」
「とう……さま?」
赤い目が大きく開いてオシュトルの顔の上で止まった。
「……何?」
「オシュトル……そっか、オシュトルなんだ」
娘が地を蹴った。穂先が真っ直ぐに胸元へ来る。
「何を——やめろ、事情を聴きたいだけだ」
「ダメだよ。キミがオシュトルだってこと、証明してもらわないとね」
鞘ごと刀を上げて穂先を逸らす。娘は柄を返し、石突で脇を払いに来た。それも鞘で受ける。腕が痺れた。細い腕から出ている力ではない。見た目に惑わされるなという、いい見本だった。
「どうして本気で戦おうとしないの。モノノフとは真摯であるべし。相手を
二の腕が粟立った。
「父さまは、そう言っていたぞ」
「その口調……」
「オシュトルは違うのか? 父さまの、パシュパクルのムスコじゃないのか? 良いかオシュトル。
幼い頃に父の口から聞いた言葉だった。
「何故、
「どうして知りたいの? 父さまのムスコでないのなら、知らなくてもいいことだぞ」
娘は槍を引き、穂先を下げてこちらの答えを待っている。
「父さま……か。それにその物言い……更に聞きたいことが増えたな。ああ、いいだろう——パシュパクルが長子、オシュトル。推して参る!」
娘が声を立てて笑った。
「そうそう。それでこそ父さまのムスコだね。ならば、パシュパクルがムスメ、シューニャ。推して参るぞ」
シューニャが腰を落とし、槍を低く構えた。今度はオシュトルも足を据え、鞘ごとの刀を正面に構えた。
「これなら、手加減しなくてもよさそうかな」
「……手加減? ちょっと待て、手加減するなってそっちが言ったことだろうに」
「……わたしはモノノフじゃないから、いいんだぞ?」
シューニャが片手を槍から離し、胸元の首飾りに触れた。青い珠が光る。その光が掌へ移り、赤い玉が一つ生まれた。
「ッ、呪法使い!」
玉が弾けて炎の塊になり、唸りを上げて飛んでくる。身を投げて躱すと、背後の幹が焦げる匂いがした。シューニャの指がもう一度珠に触れた。掌に次の玉が生まれ、白く爆ぜて細い雷になった。雷が地を這い、足元の土が裂ける。跳んで越えた。シューニャの手がまた胸元へ上がる。
着地の勢いのまま踏み込んで間合いを潰した。突き出された槍の柄を鞘で押さえ、首飾りへ伸びた手首を払う。握り込まれた青い珠が鐺に当たって鳴った。シューニャは尻餅をついた。
「勝負あり、だ」
「まだ……まだだもん! まだ負けてなんかないもん!」
跳ね起きた肩をもう一度押さえた。シューニャは胸元を見下ろしている。
「こわれ……ちゃった……父さまがくれた……首飾り……」
青い珠が真ん中から割れていた。シューニャの顔が崩れ、しゃくり上げる声が林に響く。オシュトルは落ちた欠けらを拾い、割れ目に合わせた。
「お、おい、泣くな。そ、そうだ、こうしてくっつければ……ほら、これで元通り……」
指を離すと欠けらはまた落ちた。
「ああああ、判った、俺が悪かったから泣き止んでくれ、頼むから」
シューニャは洟を啜り、袖で目を拭う。落ちた欠けらを拾って懐へ押し込んだ。
「……認めたげる。キミは父さまの……パシュパクルの息子だって……」
声はまだ湿っていた。
「だがな、人違いって事はないのか?」
「人違いとかはありえないよ。オシュトルは父さまと同じ色をしているもん」
同じ色。オシュトルは自分の手を見下ろした。
「……親父は、俺がガキの頃に死んだと聞いている」
シューニャは首を振って立ち上がった。槍を拾い、空いた手でオシュトルの袖を引く。
「父さまが山で動けないの。早く来て」
袖を掴んだ指が細かく震えていた。
獣道ですらない斜面をシューニャは迷わず登っていく。槍は背に負っていた。張り出した根に手を掛け、岩の角に爪先を乗せる。何度も通った足取りだった。オシュトルは刀を背へ回し、その後を追った。裏山のこの辺りまで上がったことは無い。
「悪いヒト達に追いかけられたの。父さま、そのとき怪我しちゃって」
誰に追われたのかは言わない。オシュトルは問いを呑み込み、次の根を掴んだ。
日が傾き、木の幹が片側だけ赤く染まっていく。木々が途切れたところに低い石組みがあった。輪になって沈んだ石の中で台だけが平らに据えられている。
「まさか、奥地にこんな所が……」
台の縁を蔦が這い、継ぎ目には苔が厚い。
祭壇か何かだろうか。何のために据えたものか、見当がつかない。
シューニャは台を回り込み、藪の奥へ屈んだ。
「父さま。オシュトルを連れてきたよ」
覆面の男が石に背を預けて座っていた。白い面に頭巾をかぶり、冠を戴いている。くすんだ緑の長い
オシュトルは膝をつき、面の留めへ手を掛けた。覆面の男の手が上がり、手首を押さえる。指に力が入ったのは一瞬だった。その手は膝の上へ落ちた。オシュトルは留めを解き、面を外した。
西の空が焼けている。赤い光が外した面の下の顔に当たる。頬がこけて髭が伸びていたが、父の顔だった。
「……オシュトル」
声も覚えているままだった。
「母上は、貴方の遺髪を……」
その先が続かない。
帝都から使者が来た日のことは覚えている。差し出された包みを母は両手で受けた。「そうですか……あのヒトは……」と言ったきり、母は取り乱さなかった。嘘だと叫んだのは自分の方だった。亡骸はとうとう見ていない。
目の前の父は答えなかった。目だけがオシュトルの顔の上をゆっくり動いている。
「家へお連れします」
「ならぬ。私は最早、
「ここで夜を越せば保ちません。母上は待っております」
シューニャが父の袖を握った。父はオシュトルを見て、それからシューニャの手を見た。長い間、何も言わない。風が藪を鳴らし、台の上の霜の跡が赤く光った。
拒む言葉はそれきり出なかった。オシュトルは外した面を父の懐へ入れ、背を向けて屈んで父の腕を肩へ回した。担ぎ上げた躰は思っていたより軽い。シューニャが槍を脇に挟み、太刀を拾って胸に抱えた。
斜面を下りるうちに空の赤が藍に沈んでいく。耳のすぐ後ろで父の息が浅く続いている。足を滑らせないように、オシュトルは一歩ずつ根を探った。先を行くシューニャが何度も振り返った。
トリコリは油皿の芯を切った。切るたびに手元が明るくなり、戸が閉まったままであることが判る。朝に出たきり、息子は戻らない。
夜になって外で足音が止まった。戸が引かれる。
「母上。ただいま戻りました」
息子が敷居の外に立っている。背に人を負い、その後ろに小柄な娘がいた。片手に穂先の赤い槍を提げ、もう一方の腕で鞘に収まった太刀を抱えている。
灯りを近づける前に、トリコリには判っていた。息子の肩に掛かった腕の形。垂れた頭の傾げ方。油皿を持つ手が一度だけ揺れて、すぐに止まった。戸を大きく引いて支える。
トリコリは奥から布団を引き出し、炉の脇に床を延べた。息子が夫を下ろす。脇腹の布は黒く、剥がすと傷の口はまだ開いていた。
「オシュトル、湯を沸かして。布も裂いてちょうだい」
息子が土間へ下りる。入れ違いに奥の襖が開いた。ネコネが寝間着のまま立っている。
「ははさま……?」
「親父だ」
土間から息子が短く告げた。ネコネの目が床の上へ向き、そこから動かない。敷居の際に立ったまま一歩も寄らなかった。
やがて火の起こる音がした。トリコリは血を拭い、棚の壺から薬草を出して練った。練ったものを傷へ置き、上から布を当てる。夫の息は浅く、額に触れた掌がすぐに熱くなった。
娘は戸口のすぐ内に立っていた。上がり口から先へは来ない。槍と太刀を柱に立て掛け、両手を下ろしている。目は床の夫から離れなかった。
傷を押さえていた手を離し、トリコリは娘の顔を一度だけ見た。土間へ下りて娘の手を取る。冷えた指を掌で包むと、娘の肩がぴくりと跳ねた。そのまま手を引く。娘は柱の槍を振り返り、引かれるまま上がり口を上がった。
夫の床の傍ら、炉の脇に座らせる。奥から薄い布団をもう一枚出して肩に掛けてやると、娘はその端を握った。口を開いてトリコリを見上げ、また閉じる。その頭に手を置いて、トリコリは夫の枕元へ戻った。
ネコネが娘を見て、それからオシュトルへ目を向けた。ネコネの口が開くより先に、トリコリは声を掛けた。
「ネコネ、湯を運んでちょうだい」
ネコネは湯の桶と布を運んだ。言われた物を言われたところへ置き、また次を取りに行く。手は止めないが、夫の顔は見ない。桶の湯を椀に汲んで、トリコリは娘の手に持たせた。娘は両手で受け取った。椀から立つ湯気が娘の顎の下で揺れている。
床の上で夫の唇が動いた。
「トリコリ……私は……」
トリコリは布を絞る手を止め、夫の顔を見た。続きを待つ。夫の目がこちらを見て、天井へ逸れた。唇が閉じる。絞った布をその額へ載せた。
夜が更けて血が止まった。熱も少し下がる。布を替えるたびに湯の色が薄くなっていった。傷が閉じるところまでは手が届かない。
息子は土間の框に腰を下ろし、黙っている。ネコネは桶を抱えて敷居の際に座り込み、そのうち舟を漕ぎ始めた。
炉の火が低くなっていく。娘の頭が少しずつ傾ぎ、やがて布団にくるまったまま夫の床の脇で動かなくなった。浅い寝息が続いている。
トリコリは夫の手を取り、掌の中に入れて握った。夫は握り返さない。返す力が無いだけだと、握った側には判る。