夜のうちに熱が下がった。
額に載せた布がもう温まらない。ネコネは布を桶に浸して絞り、額へ戻した。指先に触れる肌は昨夜ほど熱くない。水を替えに立って戻ると、父が目を開けていた。
母が粥を匙に掬い、口元へ運ぶ。父は三口だけ啜って首を横に振った。起き上がろうとして肘が崩れる。母が背に手を添え、そっと寝かせ直した。
「まだ起きてはいけません」
床の脇で布団の塊が動いた。昨夜、母が娘の肩へ掛けてやったものである。娘は炉の脇で丸くなったまま眠っていた。白銀の三つ編みが布団の端からこぼれている。
娘は身を起こし、目を開けた父を見た。手が床の縁へ伸びる。父の袖に届く前に止まり、布団の中へ戻った。
ネコネは匙を洗う手を止めた。誰なのか。兄とどこで会ったのか。なぜ父と一緒に来たのか。兄は昨夜「後だ」とだけ言った。訊きたいことは喉の奥に溜まっていて、どれも出ていかない。
「トリコリ」
父の声は掠れていた。母が顔を寄せる。父は母を見て、それから家の中の顔を一つずつ見た。兄とネコネと、それから娘を。
「皆、聞いてくれ。……シューニャは、私の娘だ」
家の中が静まった。竈の火が小さく爆ぜる。
兄を見上げた。兄は父を見たまま動かない。息を止めているように見えた。
「娘……?」
声に出してから、ネコネは指を折りかけた。父が家を出たのは自分がまだ乳飲み子の頃だと聞いている。シューニャはどう見ても自分より年が上である。どこから数えても合わない。
父は口を閉じ、母の方を見ている。どこで生まれ、どこで育った子なのか。
母は父の顔を見て、シューニャを見た。目が二人の間を二度行き来する。それからふっと笑った。
「ふふ。仕草がそっくりだもの」
「は、母上?」
兄の声が裏返っていた。母はそれには答えず、シューニャへ手招きをする。
「シューニャ、朝ご飯を運ぶのを手伝ってちょうだい」
シューニャが顔を上げた。父を見る。父が小さく頷いた。
「……うんっ」
シューニャは布団を畳むのもそこそこに立ち、母の脇へ行った。椀を受け取る手つきに迷いが無い。ネコネが瞬きをする間に床の脇は空いていた。
「御前の調べが残っている。行ってくる」
兄は聞き込みに出ていった。戸を閉める前に一度だけ振り返る。母とシューニャを見る顔がまだ少し呆けていた。
膳を並べ終えると、ネコネはシューニャの前へ回って座った。背筋を伸ばし、膝の上で手を揃える。
「シューニャさん。先に言っておくのです」
シューニャが匙を持ったまま顔を上げた。
「
シューニャは目を瞬いた。それからぱっと頬をほころばせる。
「オシュトルの妹ってことは、わたしの妹だね」
「……誰が妹ですか」
言ったことは一つも届いていないらしい。自分の椀を膳の向こうへ押しやった。
昼を過ぎて父の息が浅くなった。吸っても胸の途中で止まる。止まってから、もう一度吸い直す。母が胸に耳を当て、それから傷の布をめくって見た。
「傷のせいではないわね……」
母は布を元に戻した。傷は昨日より乾いている。それなのに息だけが細い。
シューニャは枕元を離れなかった。父の額の布を取って桶に浸している。絞りが緩く、布から滴が垂れた。
汲んできた水を置くと、ネコネは横から布を取り上げた。
「シューニャさんは座っていてください。看病はわたしがするのです」
「わたしがやる」
シューニャが布の端を掴んだ。
「布はもっと固く絞るのです。それでは寝床が濡れるです」
「わたしがお姉ちゃんなんだから」
「認めてないのです」
布が二人の間で引っ張られ、桶の縁から水がこぼれた。
「あらあら」
母の声にネコネは布から手を離した。シューニャも離していた。布は桶の縁に掛かったまま、しばらくどちらのものでもなかった。
ネコネは奥へ行き、書物を何冊も抱えてくる。息の浅くなる病の頁を探し、行を指でなぞる。胸を患う者のこと。高い山で息の苦しくなる者のこと。どれも父の様子とは少しずつ違う。
「物知りだね」
覗き込んだシューニャが感心しきった顔をしている。からかう色はどこにも無い。ネコネは頁に目を据えたまま訊いた。
「……どうして、そんなにお姉ちゃんになりたがるのです」
「父さまがね、言ってたの。虹の向こうに、兄妹がいるって」
シューニャは床の父を見た。
「ずっと、会いたかったんだ」
返す言葉を探して、見つけられなかった。指が行の上を同じところばかり行き来した。
父が眠ったのは日の傾く頃である。ネコネとシューニャは井戸端に並んで桶を洗った。シューニャは鼻歌を歌っている。調子の外れた、聞いたことのない節だった。
桶の底のぬめりはこすってもなかなか落ちない。ネコネは手を動かしながら小さく言った。
「……お姉ちゃんかどうかはともかく、認めてあげてもいいのです」
鼻歌が止まった。シューニャがこちらを向く気配がする。ネコネは桶から顔を上げなかった。
「え? いまなんて?」
ネコネは二度は言わなかった。
牧所の柵は破れたままだった。板の割れ目は外から内へ押し込まれている。地面には鳥の羽がまだ散らばっていた。
「あん時はオルケの仕業だって言っちまったがね」
飼い手は破れ目の板を撫でた。
「ほんとは見てたんだ。柵の外に影がいた。オルケにしちゃ、でかすぎる影だったよ」
オシュトルは板に残る爪の痕へ掌を当てた。指を開いても痕の幅の方が広い。オルケの爪なら指の間に収まる。
飼い手に礼を言い、山裾の家々を回った。三軒目で薪を割っていた年寄りが斧を下ろした。
「見かけん者が山におりますよ。赤い羽根飾りの兜で、四、五人。一人はでかい獣に跨っとりました」
「どんな様子だった」
「動きが鈍うございましたな。病みでもしとるような」
年寄りは咳を真似てみせた。赤い羽根飾りの兜。この里の者でも、ヤマトの兵の装いでもない。
「爺ちゃん、沢のあれ」
年寄りの孫が袖を引いた。孫の案内で沢筋へ下りる。水音の手前、岩の間に獣が倒れていた。
骸である。毛は硬く逆立ち、爪は鎌のように曲がっている。背に鞍が載り、首から千切れた手綱が垂れていた。鞍の革の鞣し方はこの辺りのものと違う。
オシュトルは屈み、前足の爪の幅を掌で測った。柵の板に残った痕と同じである。牧所を荒らしたのはこの獣で、乗ってきたのは父とシューニャを追ってきた者たちだ。
オシュトルは骸から目を上げた。孫が岩の陰からこわごわと覗いている。
「このことは御前に申し上げておく。お前たちは近づくな」
孫は頷いた。父のことは誰にも訊かれなかった。
翌朝、年寄りが里の家まで来た。
「あの者ら、尾根を回って東の谷へ下りましたよ。谷を渡っていくのを、うちの倅が見ております」
オシュトルは礼を述べ、東の空を見た。谷の向こうは関の方角である。朝の光の中で尾根の線ははっきりと見えた。追う気は起きなかった。
山はもう空いた。
「追っ手は東の谷を渡ったそうです」
オシュトルの報せにパシュパクルは東の窓へ目をやった。
窓の外には朝の尾根が連なっている。しばらくそのまま動かずにいて、やがて目を戻した。
「タバリ山の窟の奥に、行けば息のつける所がある」
オシュトルの顔が動いた。
「……昔、一度だけ連れて行ってもらった所ですか」
「そうだ」
トリコリは止めなかった。少し間を置いてから静かに言った。
「私は山道を行けません。運ぶのは、ネコネとキウルさんにお願いしましょう」
呼ばれてきたキウルは床の上のパシュパクルを見て立ち尽くした。口が開いたまま閉じない。
「親父だ。他言はするな」
「……はい」
キウルはオシュトルの言葉に頷き、それきり床から目を逸らした。
オシュトルが背を貸し、パシュパクルを負った。シューニャが朱色の槍を手に先を行く。ネコネとキウルが寝具と食べ物を背に括りつけて続いた。パシュパクルの太刀はキウルが胸に抱えている。振り返ると、トリコリが戸口に立って見送っていた。
ネコネは一度もこちらを見ない。曲がり角に来るたびに足を緩め、岩の形を目で拾っているらしかった。
山道は険しい。根が段を作り、崩れた石が足を取る。オシュトルは何度も足を止め、パシュパクルを岩に下ろして息を整えた。下ろされるたびにパシュパクルの胸は途中で詰まる。吸い込む空が薄い。里を出てから、それが一息ごとに増していく。
封じられた表の入口とは尾根を一つ隔てている。岩の割れ目に草が被さっていた。くぐると坑道が延びている。壁一面に掘り残しの
道は幾度も枝に分かれている。分かれ目に来るたび、パシュパクルは息子の肩越しに顎で行く方を示した。考えるまでもなく、躰が道を覚えていた。
坑道の口が白んで、外へ出た。日の差す谷が足もとで深く切れ落ちている。丸太を縄で束ねた橋が、向こうの台まで架かっていた。オシュトルは一歩ずつ確かめて渡った。丸太が足の下で鈍く鳴る。
台の木の門をくぐると、円い広間に出た。土の壁を太い柱と梁が囲み、正面に石垣が高く積まれている。石垣の上に、小さな社の屋根が二つ覗いていた。その足もとに円い泉が水を湛えている。水の匂いが冷たい。
泉の際に石の台が一つ立っていた。上に拳ほどの窪みが二つ穿たれている。
「シューニャ。そこの光石を窪みへ」
パシュパクルは懐を探り、石を一つ取り出した。掌の上で石の奥に七つの色が揺れる。
「手を、前へ」
シューニャが右腕を差し出す。袖がまくれ、手首の腕輪に光が当たった。割れた光が色を帯びて泉の上へ流れ、宙で留まった。初めからそこに架かっている透き通った板の橋に、七つの色が射したのである。色に縁取られた板と手すりが弧を描き、泉の縁から石垣の上へ登っている。
オシュトルの背が強張った。息を止めたのが、負われている胸に伝わる。
「……思い違いじゃなかったんだな。本当に虹の橋を渡ったんだ」
「わっ、わっ、わっ」
シューニャが槍を抱えたまま橋の袂へ駆け寄った。
「父さまのお話の、虹の橋だ!」
パシュパクルは笑おうとして、息が途中で詰まった。吸い直してから言った。
「ふふ……そうだろう。苦労したんだぞ」
オシュトルの肩が小さく揺れた。
「色のあるうちに、縄を手すりの高さに張れ」
シューニャが先に登る。オシュトルがパシュパクルを負ったまま続いた。足の下で色が揺れても、踏む板は硬い。キウルが袂の灯籠の脚に縄を結び、手すりに沿わせて延べながら登ってくる。オシュトルが上の石灯籠に結び留めた。最後にネコネが縄を掴み、目を前に据えて登り切った。
石垣の上は石畳で、両脇に石灯籠が立っていた。壁の口から水が細く落ちている。正面の木の門の奥に扉があった。
扉を抜けると、見たことのない草の茂る箱庭が開けた。板張りの壁が高く、格子に組んだ天井から籠の灯が下がっている。壁の口から落ちる水が、一段高い植え床へ注いでいた。黄の花が咲いている。湿った土の匂いがした。
「幼い頃は、こんな草は無かったような……」
オシュトルが辺りを見回した。鉢を並べた棚の一つで、小さなものが緑に光っている。息子の肩越しに覗くと、植え床の草は前に来た時より背を伸ばしていた。
箱庭の際に下ろされて、パシュパクルは息を吸った。
胸の途中で止まらない。吸って、吐いた。もう一度吸っても、止まらない。手をついて上体を起こし、背を板壁へ預けて座った。
日の傾く前に、ネコネが立ち上がった。
「日のあるうちに里へ戻るのです」
キウルも慌てて荷を纏める。シューニャが二人を送って扉を出ていった。三つの背が扉の向こうへ消えていく。
やがてシューニャが槍を脇に抱えて戻ってきた。扉の隙間に差していた色は、いつの間にか消えていた。
その夜シューニャが棚の鉢を覗き込んだ。鉢の土から尖った結晶のようなものが一枚立ち、蛍のように緑に光っている。根もとから黒い蔓が輪を描いて伸び、蔓の筋を青緑の光が流れていた。
「これ……すごくちっちゃいけど
「私が移植した。……いずれ枯れるであろうな」
父はオシュトルとシューニャを前に座らせた。背を壁に預けたまま、二人の顔を順に見る。家にいた時より顔の色が戻っていた。
「私は聖上直属の隠密、
オシュトルは息を呑んだ。聖上。隠密。どれも自分の知る父の姿には繋がらない。役目の最中に死んだと聞かされて育った。その役目が何なのか、誰も教えてはくれなかった。
シューニャは膝の上で手を重ね、黙って聞いている。
「任の中身は言えぬ。だが、聖上に伝えねばならぬことがある」
父は一度目を閉じ、開けた。
「
オシュトルは口の中で同じ言葉をなぞった。人形のような者。ハル。造物主様。閉じ込められている。
「これを聖上へ。それと、もう一つ」
父の声が低くなる。
「渡った後、台の光が途絶えた。断ち切られたようにな。向こうの門が壊されたのかもしれぬ」
「ハルという者は……」
「判らぬ。あれが何であったのかも、今どうしているのかも」
そう答える父の声に迷いは無かった。父はシューニャの右の手首へ目をやった。
「シューニャ。その腕輪は鴉印だ。聖上から賜った物である。聖上へ渡せ」
「……うん」
「道中は外すな」
シューニャは頷き、腕輪を通した手首をもう一方の手で包んだ。
「上る前に、御前に伝えよ。鴉が来た、と。それで通じる」
父はそこで言葉を切り、少し間を置いた。
「東の道は、気をつけて行け」
オシュトルは訳を訊かずに頷いた。
夜明けにシューニャが父の手首を握った。
「すぐ戻る」
「待っているとも」
オシュトルが外套を整えて立つと、父が壁際を顎で示した。キウルが抱えてきた太刀が鞘のまま立て掛けてある。
オシュトルは柄を握り、腰を落として抜いた。構える。切っ先を上げて戻すところで、一拍遅れた。もう一度やって、同じところで遅れる。自分の刀よりわずかに先が重い。
「……重いか」
「いえ」
「ならば良い」
父はそれきり太刀のことは何も言わなかった。
山を下りたその足で、オシュトルはシューニャを連れてイラワジの屋敷へ上がった。
謁見の大広間には高い窓から昼の光が落ちている。段の下に膝を折ると、板の冷たさが膝頭に通った。オシュトルはまず調べの結果を述べた。
「牧所を荒らしたのは、山に潜んでいた見知らぬ者の連れた獣でした。獣は沢で死んでおります。その者らは東の谷を渡り、去りました」
「ふうむ。オルケの仕業ではなかったのか……」
イラワジは顎鬚を撫でた。オシュトルは床に手をついたまま続けた。
「もう一つ、申し上げねばならぬことがございます。……父が、生きておりました」
イラワジの手が止まった。顎鬚を摘まんだまま、しばらく黙っている。
「すまぬがにわかには信じられぬ話である」
「父から言伝がございます。鴉が来た、と伝えよと」
イラワジの顔が改まった。目の色が領主のそれに変わる。
「御前。鴉とは、何なのですか」
「……
イラワジは膝の上で指を組んだ。
「鴉は、勅命の権限を持つ。それだけ覚えておけばよい」
組んだ指の形で、それ以上を語る気が無いと判った。オシュトルは問いを重ねず、父の居所も口にしなかった。
「オシュトル。長い旅路になるのだな?」
「……はい」
「そうか、ならば何も言うまい」
イラワジは脇の箱から紙を抜き、印を押した。控えの者がそれを段の下へ置く。
「通行手形じゃ。エンナカムイからの使いとして書いておいた。関はこれで通れる」
「かたじけのうございます」
シューニャが手形を覗き込み、顔を上げた。
「おじいちゃん、ありがとう」
「こら、シューニャ」
「ほっほっほ、構わぬよ」
イラワジは目を細めた。オシュトルは手形を懐に収めた。紙の角が胸に当たる。
翌朝、家の前でキウルが剣を振っていた。掛け声ばかりが威勢よく響く。腰が入っておらず、剣先が揺れている。オシュトルは黙ってしばらく眺めた。筋が悪いわけではない。振るたびに、相手のいない宙へ遠慮している。刃を向け合う場に立たせるには、気の優しすぎる性分だ。
「兄上……ボク、剣士には向いていないんでしょうか」
「いや、そうは言っていない。ただ、ヒトには適材適所というものがある」
オシュトルは少し考えた。
「何も刀ばかりが
「弓……ですか……」
「弓は大切だと思うのです。狩りでは重宝されるし、
戸口から出てきたネコネが口を挟んだ。キウルの顔がぱっと明るくなる。
「ネコネさんがカッコいいって言うなら、ボク、弓を始めてみようかな……」
「別にカッコいいとは言ってないです」
「あうぅ……」
キウルがしょげた顔でオシュトルを見る。
「格好いいかは、これから先のお前の行いが決めることだ。お前が一人前の弓取りになって、俺を助けてくれる。そんな日が来るといいな」
「は、はいぃっ」
「それとな、キウル」
オシュトルは山の方へ目をやった。尾根の上に朝の雲が薄くかかっている。
「山道を行くネコネを守るのは、お前だ」
キウルは背筋を伸ばし、大きく頷いた。
オシュトルは家に入り、母の前に膝をついた。
「イラワジ様の使いとして、帝都へ上ります」
母は仔細を問わなかった。襟を直す指が少しだけ長く留まった。
「躰には気をつけてね。恩あるイラワジ様の使いなのです。無事にお務めを果たすのですよ」
「はい。母上の方こそ、あまり無理はなさらぬように」
ネコネが母の後ろから進み出た。
「兄さま、わたしも……」
「ネコネはお留守番だ。母上と、山のことを頼んだぞ」
ネコネは唇を結んだ。それからシューニャの方を向く。
「……シューニャさん。兄さまを、お願いしますです」
「うん。まかせて」
シューニャが槍の石突で地を一つ突いた。
里の口で道が二つに分かれていた。オシュトルとシューニャは東へ折れた。
腰の太刀が歩くたびに腿へ当たる。当たる場所がまだ落ち着かなかった。