白春の目覚め   作:ライム酒

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第二話 夕焼けの鴉 # 04-06

# 04 父との再会

 

 

 裏山の斜面をしばらく登った。

 シューニャは慣れた足取りで茂みと岩のあいだを縫っていく。やがて崩れかけた岩屋の口が暗く開いた。古い祭壇のすぐ近くだった。

 薄暗がりの奥に人の気配がある。

 筵の上に男がひとり横たわっていた。

 

「父さま。連れてきたよ」

 シューニャが駆け寄って、抱えていた布包みを傍らに下ろす。畑から運んできたあの蓄えだ。

「約束、守ったでしょ。……オシュトルを見つけたの」

 

 オシュトルは岩屋の口で足を止めた。

 動けなかった。

 横たわる男のその顔。年を経て痩せ、面変わりして。それでも記憶の底に灼きついた顔と寸分も違わない。

 ガキの頃に喪ったはずの、父の顔だった。

 

 男が薄く目を開けた。

 落ち窪んだ眼がオシュトルを捉えてかすかに揺れる。

「……ああ」

 掠れて、それでも芯の残る声だった。

「大きくなったな。オシュトル」

 

「……親父」

 喉の奥からやっと声が出た。

「親父なのか。死んだはずだ。遺髪が届いた。俺はこの手で墓に――」

「済まなかった」

 パシュパクルは静かに遮った。

「話せば長くなる。だが偽って死んだふりをしたわけではない。あの時の私は本当に還れぬ身になったのだ」

 

 身を起こそうとして脇腹を押さえ、低く呻く。筵には黒く滲んだ痕が広がっていた。

「父さま、動いちゃダメ!」

 シューニャが慌てて肩を支える。

 パシュパクルは娘の手に身を預けて、荒い息をひとつ吐いた。

「この様だ。……遠くまで逃げ延びるだけの傷ではなかったらしい」

 

 ようやく岩屋へ踏み入った。

 膝をついて父の傷を検める。深い。手負いのまま無理を重ねた傷だった。

「……いつからだ、これは」

「幾日か前だ。この子が水と食い物を運んでくれてな。どうにか生き永らえている」

 パシュパクルの目が傍らのシューニャへ和らいだ。

「シューニャ。……私が向こうで拾い、育てた娘だ。血は繋がっておらん。だが私の娘だ」

 

 あの蓄えは傷ついた父のためだったのだ。

 この子は異郷の里でたったひとり、手負いの父に食い物を運んでいた。

「……そうか」

 それだけ言うのが精一杯だった。

 

「オシュトル」

 パシュパクルが名を呼んだ。

「お前に頼みたいことがある」

「なんだ」

 身を寄せると、父は続けようとしてしかし苦しげに息を継いだ。

「……いや。それはもう少し息を整えてからにさせてくれ。今の私では話の途中で気を失いかねん」

 

 詰めていた息をゆっくりと吐いた。

 問いたいことは山ほどある。何故還らなかった。この娘は。あの傷は誰に。

 だが、いま優先すべきはそれではない。

「――判った。まずは手当てだ」

 父の脇腹にあらためて布を当てる。

「話はそれからでいい。……もう、どこへも行かせやしない」

 パシュパクルは答える代わりに、ふっと目を細めた。

 その笑みだけは記憶のなかの父と何ひとつ変わっていなかった。

 

 

# 05 家族の再生

 

 

 日が傾いていた。

 オシュトルは父を背負い、山道を下っていた。応急の手当てを終えた脇腹には固く布を巻いてある。それでも、伝わってくる息は浅い。時折、くぐもった呻きが耳をかすめた。

 

「オシュトル。……下ろしてくれ」

 背の上で父が言った。

「今さら、どんな顔で……母さんに会えるというのだ」

「駄目だ」

 短く答え、父を軽く背に揺すり上げる。

「碌に手当てもできん岩屋に、親父を置いてはおけない」

 パシュパクルは小さく息をつき、それきり黙った。

 シューニャが半歩後ろから付いてくる。何度もその顔を覗き込んでは、また前へ向き直った。

 

 夕闇が里に降りていた。

 生家の戸を肩で押し開けた。

 

「あら。お帰りなさい、オシュトル」

 奥からトリコリが出てくる。前掛けで手を拭きながら、いつもの声で。

「ずいぶん遅かったのね。夕餉は――」

 その手が止まった。

 オシュトルの背に負われた男から、目が動かない。

 

 言葉はなかった。

 トリコリはゆっくりと近づき、痩せて面変わりした夫の顔を見上げる。息をひとつ、ふたつ。

 

「……ただいま、トリコリ」

 パシュパクルが掠れた声で言った。

「永く、留守にした。……すまない」

「……ええ」

 母の返事はそれだけだった。

 夫の頬へ伸ばした指先がかすかに震えている。すぐにその手を脇腹の布へ移した。

「――傷を、見せて」

 声から震えは消えていた。

 

 床を延べ、父を横たえる。

 トリコリは竈の湯を取り、手際よく傷を検めていく。黙って晒を差し出すと、母は目も上げずに受け取った。その手つきに迷いはない。ただ時折、指が止まる。生きた夫の熱を確かめるように。

 

「……こってり絞られるかと、覚悟していたのだがな」

 パシュパクルがぽつりと言った。

「そんなことは、後でいくらでも」

 布を巻きながら答える。

「今は、じっとしていてちょうだい」

 されるがままに目を閉じた。その口元がわずかに緩んでいた。

 

 オシュトルはシューニャを振り返った。

 少女は土間の隅で身の置き所なさそうに立っている。

「トリコリ」

 枕の上から声が続いた。

「この子は、シューニャという。向こうで、私が引き取って育てた」

「……お、お邪魔、してます」

 シューニャがぎこちなく頭を下げた。

 

 トリコリはしばらく少女を見つめていた。それから、ふっと目元をやわらげる。

「まあ。こんなに遅くまで、よく歩いたのね。……お腹が空いたでしょう」

「え……」

 黙って、もうひとり分の膳を支度しはじめた。

「そこにお座りなさいな。今、あたたかいものをよそってあげるわね」

 その何気なさに、シューニャはかえって戸惑ったようだった。それでも、おずおずと板の間へ上がった。

 

 いつの間にか、奥の間からネコネが顔を覗かせていた。

 小声で父だと告げても、ネコネは戸口の柱を握ったまま動かない。物心つく前に別れた父の顔を覚えているはずもなかった。

 やがて、おずおずと枕元へ寄る。細い呼び声がひとつこぼれた。パシュパクルは手を伸ばさず、ただ目を細めた。

 

 硬さをほどいたのは、シューニャだった。年の近い二人は汁椀を挟んで並び、いつしか小声で何か言い交わしている。ネコネの背伸びした一言に、シューニャが小さく吹き出した。

 

 夜が更けていく。

 浅い眠りに落ちた父の枕元をトリコリが離れない。

 板の間に腰を下ろし、炉の火を眺めた。喪ったと思っていた父がいま同じ屋根の下で息をしている。

 

「……オシュトル」

 眠ったはずの父が薄く目を開けていた。

「明日、話しておかねばならんことがある。お前に、な」

「ああ」

 それ以上を問わず、ただ頷いた。

「だが、今夜は。……ゆっくり休んでくれ、親父」

 答える代わりに、そっと目を伏せた。

 炉に薪を足し、寝顔を照らす火を静かに掻き立てた。

 

 

# 06 託命と荷

 

 

 母と妹は朝のうちに里へ下りていた。父の薬と、幾日か分の食い物を求めに。

 オシュトルは父の枕元に座した。傍らにシューニャがいる。膝の上で、父から貰った腕輪をそっと握っていた。

 

「オシュトル」

 パシュパクルが口を開いた。昨夜より、声に張りが戻っている。

「昨日、話しておかねばならんと言った。……聞いてくれるか」

「ああ」

 

 父はしばらく、天井の一点を見ていた。それから、ゆっくりと口を開く。

「私は、帝直属の隠密——鴉だった」

 帝直属。その響きがオシュトルの中でうまく像を結ばなかった。同心として果てたはずの父。それがじかに帝の命を受ける身だったというのか。

「ヤマトを守るため、禁忌の地アーヴァ=シュランに渡り、その中枢に潜んで見張る。それが、鴉の務めだ」

「……鴉」

 その一語をなぞるのがやっとだった。

「お前が信じた"殉職"は、そのための偽りにすぎん。……本来は、生涯明かせぬことだ」

 

 問いたいことはいくらでもあった。何故、生きていて。何故、家族にすら。……だが、口を挟まなかった。父の声には遮ることを許さぬ静けさがあった。

 

「その地で、私はこの子と出会った」

 父の目が傍らのシューニャへ向いた。

「ネコネと変わらぬ、ただの幼子だった。その命ごと、誰かに使い潰されようとしていた。何のために、誰の手でかは——鴉の私にも、判じきれなんだ」

 シューニャの指が腕輪の上で止まった。

 

「だが、見過ごせなかった」

 父の声が低くなった。

「あの地の最も深いところから、この子ひとりを攫い出す。鴉として積み上げた全てを、その一事に賭けた。二度と戻れぬと、判っていてな」

 言葉はそこで途切れた。

 痩せて傷ついた父の姿をあらためて見た。何も、言えなかった。

 

「……シューニャ」

 父が娘の名を呼んだ。

「済まぬ。お前の前で、話すことではなかったかもしれん」

 シューニャはちいさく首を振った。それだけだった。

 

「オシュトル」

 父があらためて呼んだ。

「シューニャの持つ、その腕輪。……鴉印という。あれを、聖上に届けてほしい」

「聖上に、腕輪を」

 問い返すと、父は頷いた。

「中に、あるものが収められている。……だが、その全ては、私にも判らぬ。判じられるのは、聖上だけだ。だから、届けるのだ」

 

「その情報は、腕輪にある」

 父は続けた。

「見ての通り、私は動けぬ。鴉の生き死には表に出せぬゆえ、誰かの手で密かに運ぶしかない」

「傷が癒えるのを待ってからじゃ、駄目なのか」

 父はちいさく首を振った。

「ゆかぬ。刻を待てるものかどうか、私にも判らぬ。……託せるうちに、託しておきたいのだ」

 黙って頷いた。

 

「道中、ひとつだけ守ってくれ」

「ああ」

 父の目がまっすぐにオシュトルを捉えた。

「鴉のこと。この腕輪のこと。私が生きていることを——決して、明るみに出してはならぬ」

「……判った」

 その掟が父を"死者"にしていた。それ以上は問わなかった。

 

「本来は、私が果たすべき務めだ」

 父が言った。

「だが、この体だ。……オシュトル、お前に、託す」

 居住まいを正した。

「確かに、承った。……親父」

 父が静かに笑んだ。

「すまぬな。……そして、ありがとう」

 

 シューニャが腕輪を胸に抱いた。

「わたしも行く。この腕輪は、わたしが持っていくから」

「シューニャ」

 名を呼ぶと、シューニャは抱いた手に力を込めた。

「父さまが、くれたものだもん。ちゃんと、届ける」

 その横顔を父はまぶしそうに見ていた。

 

「オシュトル。……それと、もうひとつ」

 腰を浮かせかけたオシュトルを父の声が引き止めた。

「あの門で、私とシューニャを逃がしてくれた者がいる」

「……あのコ」

 シューニャがぽつりと零した。腕輪を抱く手に力がこもる。

「喋る人形さん。……あのコ、どうなったのかな」

「判らぬ」

 父は静かに首を振った。

「だが、あれは別れ際、私に言伝を残した。この地の底に、囚われた造物主様(マスター)がいる。生きて渡れたら、力ある手を回してやってくれ、と」

 すぐには言葉を返せなかった。

「その約束を、私はもう果たせぬ」

 父の目がオシュトルを捉えた。

「鴉印とともに——この願いも、聖上に届けてはくれぬか」

 

 シューニャが腕輪をきつく抱いた。

「あのコに、助けてもらったの。……今度は、わたしたちの番。ね、オシュトル」

 父を見、それからシューニャを見た。

「……ああ。確かに、承った」

 

 喪ったはずの父から、荷がひとつと、願いがひとつ。

 まだ見ぬ都の——そのさらに先、顔も知らぬ誰かのいる地の底へ、静かに思いを馳せた。

 

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