# 04 父との再会
裏山の斜面をしばらく登った。
シューニャは慣れた足取りで茂みと岩のあいだを縫っていく。やがて崩れかけた岩屋の口が暗く開いた。古い祭壇のすぐ近くだった。
薄暗がりの奥に人の気配がある。
筵の上に男がひとり横たわっていた。
「父さま。連れてきたよ」
シューニャが駆け寄って、抱えていた布包みを傍らに下ろす。畑から運んできたあの蓄えだ。
「約束、守ったでしょ。……オシュトルを見つけたの」
オシュトルは岩屋の口で足を止めた。
動けなかった。
横たわる男のその顔。年を経て痩せ、面変わりして。それでも記憶の底に灼きついた顔と寸分も違わない。
ガキの頃に喪ったはずの、父の顔だった。
男が薄く目を開けた。
落ち窪んだ眼がオシュトルを捉えてかすかに揺れる。
「……ああ」
掠れて、それでも芯の残る声だった。
「大きくなったな。オシュトル」
「……親父」
喉の奥からやっと声が出た。
「親父なのか。死んだはずだ。遺髪が届いた。俺はこの手で墓に――」
「済まなかった」
パシュパクルは静かに遮った。
「話せば長くなる。だが偽って死んだふりをしたわけではない。あの時の私は本当に還れぬ身になったのだ」
身を起こそうとして脇腹を押さえ、低く呻く。筵には黒く滲んだ痕が広がっていた。
「父さま、動いちゃダメ!」
シューニャが慌てて肩を支える。
パシュパクルは娘の手に身を預けて、荒い息をひとつ吐いた。
「この様だ。……遠くまで逃げ延びるだけの傷ではなかったらしい」
ようやく岩屋へ踏み入った。
膝をついて父の傷を検める。深い。手負いのまま無理を重ねた傷だった。
「……いつからだ、これは」
「幾日か前だ。この子が水と食い物を運んでくれてな。どうにか生き永らえている」
パシュパクルの目が傍らのシューニャへ和らいだ。
「シューニャ。……私が向こうで拾い、育てた娘だ。血は繋がっておらん。だが私の娘だ」
あの蓄えは傷ついた父のためだったのだ。
この子は異郷の里でたったひとり、手負いの父に食い物を運んでいた。
「……そうか」
それだけ言うのが精一杯だった。
「オシュトル」
パシュパクルが名を呼んだ。
「お前に頼みたいことがある」
「なんだ」
身を寄せると、父は続けようとしてしかし苦しげに息を継いだ。
「……いや。それはもう少し息を整えてからにさせてくれ。今の私では話の途中で気を失いかねん」
詰めていた息をゆっくりと吐いた。
問いたいことは山ほどある。何故還らなかった。この娘は。あの傷は誰に。
だが、いま優先すべきはそれではない。
「――判った。まずは手当てだ」
父の脇腹にあらためて布を当てる。
「話はそれからでいい。……もう、どこへも行かせやしない」
パシュパクルは答える代わりに、ふっと目を細めた。
その笑みだけは記憶のなかの父と何ひとつ変わっていなかった。
# 05 家族の再生
日が傾いていた。
オシュトルは父を背負い、山道を下っていた。応急の手当てを終えた脇腹には固く布を巻いてある。それでも、伝わってくる息は浅い。時折、くぐもった呻きが耳をかすめた。
「オシュトル。……下ろしてくれ」
背の上で父が言った。
「今さら、どんな顔で……母さんに会えるというのだ」
「駄目だ」
短く答え、父を軽く背に揺すり上げる。
「碌に手当てもできん岩屋に、親父を置いてはおけない」
パシュパクルは小さく息をつき、それきり黙った。
シューニャが半歩後ろから付いてくる。何度もその顔を覗き込んでは、また前へ向き直った。
夕闇が里に降りていた。
生家の戸を肩で押し開けた。
「あら。お帰りなさい、オシュトル」
奥からトリコリが出てくる。前掛けで手を拭きながら、いつもの声で。
「ずいぶん遅かったのね。夕餉は――」
その手が止まった。
オシュトルの背に負われた男から、目が動かない。
言葉はなかった。
トリコリはゆっくりと近づき、痩せて面変わりした夫の顔を見上げる。息をひとつ、ふたつ。
「……ただいま、トリコリ」
パシュパクルが掠れた声で言った。
「永く、留守にした。……すまない」
「……ええ」
母の返事はそれだけだった。
夫の頬へ伸ばした指先がかすかに震えている。すぐにその手を脇腹の布へ移した。
「――傷を、見せて」
声から震えは消えていた。
床を延べ、父を横たえる。
トリコリは竈の湯を取り、手際よく傷を検めていく。黙って晒を差し出すと、母は目も上げずに受け取った。その手つきに迷いはない。ただ時折、指が止まる。生きた夫の熱を確かめるように。
「……こってり絞られるかと、覚悟していたのだがな」
パシュパクルがぽつりと言った。
「そんなことは、後でいくらでも」
布を巻きながら答える。
「今は、じっとしていてちょうだい」
されるがままに目を閉じた。その口元がわずかに緩んでいた。
オシュトルはシューニャを振り返った。
少女は土間の隅で身の置き所なさそうに立っている。
「トリコリ」
枕の上から声が続いた。
「この子は、シューニャという。向こうで、私が引き取って育てた」
「……お、お邪魔、してます」
シューニャがぎこちなく頭を下げた。
トリコリはしばらく少女を見つめていた。それから、ふっと目元をやわらげる。
「まあ。こんなに遅くまで、よく歩いたのね。……お腹が空いたでしょう」
「え……」
黙って、もうひとり分の膳を支度しはじめた。
「そこにお座りなさいな。今、あたたかいものをよそってあげるわね」
その何気なさに、シューニャはかえって戸惑ったようだった。それでも、おずおずと板の間へ上がった。
いつの間にか、奥の間からネコネが顔を覗かせていた。
小声で父だと告げても、ネコネは戸口の柱を握ったまま動かない。物心つく前に別れた父の顔を覚えているはずもなかった。
やがて、おずおずと枕元へ寄る。細い呼び声がひとつこぼれた。パシュパクルは手を伸ばさず、ただ目を細めた。
硬さをほどいたのは、シューニャだった。年の近い二人は汁椀を挟んで並び、いつしか小声で何か言い交わしている。ネコネの背伸びした一言に、シューニャが小さく吹き出した。
夜が更けていく。
浅い眠りに落ちた父の枕元をトリコリが離れない。
板の間に腰を下ろし、炉の火を眺めた。喪ったと思っていた父がいま同じ屋根の下で息をしている。
「……オシュトル」
眠ったはずの父が薄く目を開けていた。
「明日、話しておかねばならんことがある。お前に、な」
「ああ」
それ以上を問わず、ただ頷いた。
「だが、今夜は。……ゆっくり休んでくれ、親父」
答える代わりに、そっと目を伏せた。
炉に薪を足し、寝顔を照らす火を静かに掻き立てた。
# 06 託命と荷
母と妹は朝のうちに里へ下りていた。父の薬と、幾日か分の食い物を求めに。
オシュトルは父の枕元に座した。傍らにシューニャがいる。膝の上で、父から貰った腕輪をそっと握っていた。
「オシュトル」
パシュパクルが口を開いた。昨夜より、声に張りが戻っている。
「昨日、話しておかねばならんと言った。……聞いてくれるか」
「ああ」
父はしばらく、天井の一点を見ていた。それから、ゆっくりと口を開く。
「私は、帝直属の隠密——鴉だった」
帝直属。その響きがオシュトルの中でうまく像を結ばなかった。同心として果てたはずの父。それがじかに帝の命を受ける身だったというのか。
「ヤマトを守るため、禁忌の地アーヴァ=シュランに渡り、その中枢に潜んで見張る。それが、鴉の務めだ」
「……鴉」
その一語をなぞるのがやっとだった。
「お前が信じた"殉職"は、そのための偽りにすぎん。……本来は、生涯明かせぬことだ」
問いたいことはいくらでもあった。何故、生きていて。何故、家族にすら。……だが、口を挟まなかった。父の声には遮ることを許さぬ静けさがあった。
「その地で、私はこの子と出会った」
父の目が傍らのシューニャへ向いた。
「ネコネと変わらぬ、ただの幼子だった。その命ごと、誰かに使い潰されようとしていた。何のために、誰の手でかは——鴉の私にも、判じきれなんだ」
シューニャの指が腕輪の上で止まった。
「だが、見過ごせなかった」
父の声が低くなった。
「あの地の最も深いところから、この子ひとりを攫い出す。鴉として積み上げた全てを、その一事に賭けた。二度と戻れぬと、判っていてな」
言葉はそこで途切れた。
痩せて傷ついた父の姿をあらためて見た。何も、言えなかった。
「……シューニャ」
父が娘の名を呼んだ。
「済まぬ。お前の前で、話すことではなかったかもしれん」
シューニャはちいさく首を振った。それだけだった。
「オシュトル」
父があらためて呼んだ。
「シューニャの持つ、その腕輪。……鴉印という。あれを、聖上に届けてほしい」
「聖上に、腕輪を」
問い返すと、父は頷いた。
「中に、あるものが収められている。……だが、その全ては、私にも判らぬ。判じられるのは、聖上だけだ。だから、届けるのだ」
「その情報は、腕輪にある」
父は続けた。
「見ての通り、私は動けぬ。鴉の生き死には表に出せぬゆえ、誰かの手で密かに運ぶしかない」
「傷が癒えるのを待ってからじゃ、駄目なのか」
父はちいさく首を振った。
「ゆかぬ。刻を待てるものかどうか、私にも判らぬ。……託せるうちに、託しておきたいのだ」
黙って頷いた。
「道中、ひとつだけ守ってくれ」
「ああ」
父の目がまっすぐにオシュトルを捉えた。
「鴉のこと。この腕輪のこと。私が生きていることを——決して、明るみに出してはならぬ」
「……判った」
その掟が父を"死者"にしていた。それ以上は問わなかった。
「本来は、私が果たすべき務めだ」
父が言った。
「だが、この体だ。……オシュトル、お前に、託す」
居住まいを正した。
「確かに、承った。……親父」
父が静かに笑んだ。
「すまぬな。……そして、ありがとう」
シューニャが腕輪を胸に抱いた。
「わたしも行く。この腕輪は、わたしが持っていくから」
「シューニャ」
名を呼ぶと、シューニャは抱いた手に力を込めた。
「父さまが、くれたものだもん。ちゃんと、届ける」
その横顔を父はまぶしそうに見ていた。
「オシュトル。……それと、もうひとつ」
腰を浮かせかけたオシュトルを父の声が引き止めた。
「あの門で、私とシューニャを逃がしてくれた者がいる」
「……あのコ」
シューニャがぽつりと零した。腕輪を抱く手に力がこもる。
「喋る人形さん。……あのコ、どうなったのかな」
「判らぬ」
父は静かに首を振った。
「だが、あれは別れ際、私に言伝を残した。この地の底に、囚われた
すぐには言葉を返せなかった。
「その約束を、私はもう果たせぬ」
父の目がオシュトルを捉えた。
「鴉印とともに——この願いも、聖上に届けてはくれぬか」
シューニャが腕輪をきつく抱いた。
「あのコに、助けてもらったの。……今度は、わたしたちの番。ね、オシュトル」
父を見、それからシューニャを見た。
「……ああ。確かに、承った」
喪ったはずの父から、荷がひとつと、願いがひとつ。
まだ見ぬ都の——そのさらに先、顔も知らぬ誰かのいる地の底へ、静かに思いを馳せた。