# 01 道行き
朝靄はいつしか晴れていた。
サクゥル街道は東へ、山あいを縫ってゆるやかに下っていく。道の脇には蒲公英が点々と咲き、往来はまばらだった。薪を負った里の者と一度すれ違ったきり、あとは鳥の声ばかりが高い。
歩幅をゆるめ、隣の様子を窺った。
シューニャは足取りも軽い。道端の花に目を留め、岩の形に目を留め、頭上を横切る鳥の影を目で追う。見るものすべてが初めてらしい。
「ねえ、オシュトル」
シューニャが顔を上げた。
「帝都って、どんなとこ?」
問いの大きさに、思わず足が半歩遅れた。
「どんな、とはまた大雑把だな」
「父さまが言ってたんだ。帝都には人が星の数ほどいるって」
誇らしげに胸を張る。
「家がどこまでも続いてて、市場には見たことない食べ物がいっぱいあるんだって。ね、ホントに星の数ほどいるの?」
「さてな。数えたことはないが——」
言いかけて、言葉が途切れた。
親父がそんな話をしていたのか。
家では口数の少ない男だった。膳の前でも稽古のあとでも、要る言葉しか使わない。その父が遠い異郷の夜に、幼い娘へ都の話を語って聞かせていた。
「嘘じゃないぞ。父さまが言ってたもん」
「疑っちゃいない」
苦笑して、前を向いた。
「本当だ。俺も昔、帝都に住んでいた」
「え……オシュトルが?」
目を丸くして、こちらを見上げてくる。
「ガキの頃にな。親父が都勤めだったんだ」
母の握った弁当を提げ、勤めに出た父を追いかけた朝があった。人の波に呑まれかけ、大きな手に襟首をつかまれた。雑踏のざわめきはいまも耳の奥に残っている。
「そっか。それでかぁ」
シューニャはひとりで頷いている。
「父さまの都の話、すっごく細かかったんだ。道の数とか、お菓子の名前とか」
「菓子の名前まで、か」
それきり、しばらく言葉が途切れた。
寡黙な父の、知らない横顔がまたひとつ増えた。悪い気はしなかった。
道が沢に沿って折れる。シューニャは時折、思い出したように懐の上を押さえる。布に包んだ輪は今朝からそこにある。押さえる手つきはもう習いになっていた。
胸元では青い石のかけらが揺れている。千切れた紐を結わえ直し、砕けたままの首飾りを提げていた。はなから捨てる気は無いらしい。
ふと、隣の気配が変わった。
シューニャが立ち止まり、空の彼方を見ていた。視線の先を辿っても、流れる雲のほかに何もない。何かを数えるでも、探すでもない、遠い目だった。
「シューニャ?」
「……ん。なんでもない」
瞬きひとつで、いつもの顔が戻ってくる。
「行こっ、オシュトル」
日が高くなる頃、道の先の山あいに、小さく櫓の影が見えた。
ルモイの関だ。エンナカムイを出て東、帝都へ向かう者がまず最初に通る関所だった。
「シューニャ、いいか」
歩きながら声を低くした。
「関では俺が話す。お前はなるべく黙っていてくれ」
「むぅ。わかった」
頬をふくらませ、それでも神妙に頷いてみせる。
関の櫓が少しずつ大きくなる。
# 02 関と予告
道は山あいをゆるやかに登り、やがて開けた鞍部に出た。
木柵と櫓が道を跨いで据えられている。ルモイの関だった。古くからエンナカムイの民が守りを任されてきた、東への出口である。柵の向こうでは山肌がせり上がり、行く手に渓谷の口が暗く覗いていた。
柵の脇では兵がひとり、握り飯を頬張っていた。その向こうから、よく通る声が飛んでくる。
「おお、オシュトル殿ではないか」
櫓の下から隊長が出てきた。郷の寄り合いで幾度も顔を合わせた男だった。
「この先に行くのか、オシュトル殿。ここいらとは違い、化物もかなり凶悪だが、大丈夫か?」
「ご心配なく。今日は物見遊山ではないもので」
懐から証書を出し、関宛の文を添えて差し出した。
「御前のお使いで、都へ上ることになった」
「ほう、都へ」
隊長の顔つきが変わった。文を開き、印を検め、姿勢を正して押し頂く。
「……うむ、確かに御前の証書だ。エンナカムイの使者殿、とあらば手厚くお通ししよう」
言ってから、にやりと笑う。
「なに、堅苦しいのはここまでだ。して——」
その目が後ろに控えた小さな連れへ移った。
「その娘さんは?」
「亡くなった縁者の、娘でな。都の親類を頼ることになった。その、送り届ける道中だ」
シューニャは口を結んだまま、ぺこりと頭を下げた。言い付けをよく守っている。守られると、今度はこちらの舌の据わりが悪かった。
「そうか、いや感心なことだ」
隊長は深くも問わず、うんうんと頷いた。
「うちの若いのにも見習わせたい。まったく、すぐ気の抜けた顔をしているのでな。オシュトル殿の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいところだ」
隊長は愉快そうに笑い、それからふと声を落とした。
「ただな、オシュトル殿。ひとつ言っておく」
「何か」
声の低さに、つられて足元へ置いた荷を引き寄せた。
「近頃、妙な連中を見かけるという話があってな」
物言いは軽い。だが、隊長の目は笑っていなかった。
「妙な、とは」
「見慣れぬ装束の数人連れだ。関は通っていない。崖伝いに東へ抜けるところを猟師が見たと言っていた」
隊長は顎で東を指した。
「それとこの先のヌエキッカ街道は道が狭いのでな。うっかり賊や化物に遭遇すれば、逃げるのはとても難しい。気を付けてくれ」
「肝に銘じておこう」
隊長は東の空へ目をやった。
「ここから先は長いのでな。今から入れば、抜ける前に日が暮れる。手前の沢で夜を越して、朝いちばんに抜けるのが利口だ」
「ありがたい。そうさせてもらう」
隊長に礼を言い、開け放たれたままの関をくぐった。
道は下りながら山あいへ吸い込まれていく。行く手の崖の口から、冷たい風が吹き上げてきた。
しばらく歩いてから、シューニャが大きく息を吐いた。
「……ね、しゃべらなかったぞ」
「ああ、上出来だ」
得意げな顔がすぐに前へ向く。その足取りに合わせて、胸元のかけらが小さく揺れた。
日はわずかに傾き始めていた。隊長の言い分はもっともだった。今日の宿りは難所の手前の沢までとなる。
# 03 夜営の絆
沢は難所の手前、道から少し外れた窪地にあった。
水は浅く、流れの音がやわらかい。枯れ枝を集めて火を起こし、簡単な夕餉を済ませた。崖の口はここからは見えない。それでも風向きが変わるたび、冷えた岩の匂いが下りてきた。
日が落ちると、山の夜は早かった。
「くしゅっ」
シューニャが小さくくしゃみをして、膝を抱えた。
「冷えるな。もう少し火に寄れ」
羽織を取り、細い肩に掛けてやる。シューニャは襟元を両手でつかんで、ふ、と鼻を鳴らした。
「……父さまと同じ匂いだ」
袖口に鼻先を埋めている。
「そうか?」
「うん。まちがいない」
得意げに言って、羽織の中に埋まる。
「なあ、シューニャ。向こうでの親父は——父さまはどんなだった」
訊くと、シューニャは火を見たまま少し考えた。
「あったかかった」
迷いのない即答だった。
「あったかい、か」
「寒い時はギュッてしてくれて、頭をナデナデしてくれて。それで、いろんなお話をしてくれた。家族のこと、オシュトルのことも」
薪が爆ぜて、火の粉が上がった。
「お話をしてる時の父さま、すごく嬉しそうだった」
ああ、そうだった。あの大きく無骨な手で、よく撫でてくれた。稽古では鬼のようだったくせに、撫でる時だけは加減を知らなかった。頭が揺れるほど乱暴で——それが嫌いではなかった。
「シューニャはどんなところで育ったんだ」
「んっとね、大きな木がよく見える、小さな村」
シューニャの声が弾む。
「村のみんな、すごく優しかった。父さまは時々しか帰ってこなかったな。どこで何をしてるのかは教えてくれなかった。でも帰ってくる日は朝からずっと、村の入口で待ってた」
語る口ぶりまで、どこか父に似ている。
「目に浮かぶな」
「えへへ」
沢の音の合間に、火の爆ぜる音だけが続いた。
「ね、オシュトル」
シューニャがこちらを向いた。火明かりが赤い瞳に揺れている。
「わたしたちって、きょうだいみたいだね」
「みたい、じゃないだろう」
短く答えて、薪を一本くべた。
「同じ人に、同じ手で育てられたんだ」
シューニャはしばらく黙って、それから羽織の中でもぞりと小さくなった。耳の先が火明かりでも判るほど赤い。
火が落ち着くと、頭上の星が濃くなった。山あいの夜空は里で見るより底が深い。
「うわ、すごいぞオシュトル。星がいっぱい」
シューニャが空を仰いだ。
「『星空は同じだな……』って、父さまはよく言ってた。ほんとだね」
「ああ」
郷の空にも、いまごろ同じ星が出ている。臥せった父があの家の窓から、これを見上げているだろうか。
「父さまも、見てるかな」
白い息と一緒に、声が空へのぼっていく。
「見ているだろうさ。星の話が好きな親父だからな」
「ふふ。そうだね」
やがて、羽織にくるまった寝息が聞こえはじめた。
火を小さくし、太刀を引き寄せる。沢の音の向こう、崖の口のある方角の闇はただ黒く静かだった。
夜番の座を組み直し、燠の赤を見つめた。
# 04 シューニャと追手
夜明けとともに沢を発った。
ヌエキッカ街道は聞きしにまさる難所だった。切り立った崖の中腹を人ひとり半の幅の道が縫っていく。左は岩壁、右は底の見えない谷。風を遮るものがなく、吹き上げる風が絶えず袖を鳴らした。
「足元、気をつけて」
「シューニャこそな」
半刻も行った頃だった。
風の合間に、石を踏む音が混じった。
振り返る。来た道の先に、影が三つ。朝日を背にこちらへ登ってくる。旅装ではない。見慣れない異国の装束が風にばたついていた。
関の隊長の言葉が胸をよぎった。前へ走っても、この道では振り切れない。
「シューニャ、あそこまで」
道が岩棚に広がる場所まで駆け、荷を下ろした。振り向くと、影はもう目前だった。
「ク……ゥ、やっと……追い詰めたぞ」
先頭の男が言った。息が荒い。言葉の途中で、ひどく咳き込んだ。
「何者だ。俺たちに何の用がある」
「大人しく、その娘を渡せ」
三対の目がまっすぐシューニャに注がれていた。
シューニャが一歩下がり、懐の上を強く押さえた。それから唇を結び、朱塗りの槍を構えた。
「断る」
抜刀し、シューニャの前に立った。
「俺から離れるな」
「問答無用。構わん、コイツを殺して奪うまでだ」
先頭の男が斬りかかってきた。
受けた瞬間、腕が痺れた。太刀筋が見事なのだ。基礎から鍛え抜かれた、乱れのない斬撃——だが、続かない。二の太刀が目に見えて鈍り、肩が大きく上下する。まるで病人が形だけをなぞっているようだった。
受け流して、返す。父の太刀の返しが思うよりわずかに遅れた。切っ先は男の肩をかすめるに留まる。
横合いからもう一人。
そちらはシューニャが迎え撃った。朱の穂先が突きに突きを重ね、型のない獣の間合いで男を押し返す。追い込みに放った火の粒は唸りをあげて飛び、しかし大きく逸れて岩を焦がした。
「もうっ、当たらない!」
乱戦になった。
狭い岩棚で背中合わせに回る。踏み込んだシューニャの足元で、浮石が鳴った。体勢が流れる。そこへ刃が伸びた。
「——シューニャ!」
割って入る。一拍、届かない。受け損ねた刃がシューニャの二の腕を裂いた。
「うっ」
血が袖に滲む。頭の芯が冷えた。
次の瞬間、青い光が弾けた。
淡い光がシューニャの腕を包み、引いていく。裂けた袖は元に戻り、血の痕ひとつ残っていない。光の名残の中で、胸元の砕けた石が形を取り戻し、小さく青く灯った。
シューニャは止まらなかった。何事もなかったように槍を旋回させ、目の前の敵を薙ぎ払う。
見間違いではない。だが、考えるのは後だ。
シューニャの掲げた穂先に、ふたたび火が集まる。今度の火は暴れなかった。まっすぐに飛んで、先頭の男を呑んだ。
残るひとりへは遅れの分だけ深く踏み込んだ。刃が今度は届いた。
最後の一人は刃を交えることさえなかった。二歩、三歩とよろめき、激しく咳き込んで崖際に崩れ落ちた。そのまま、動かなくなった。
岩棚に風の音だけが戻ってきた。
「オシュトル、怪我してない?」
振り向いたシューニャはいつもの顔だった。裂かれたはずの袖が朝日の中で白い。
「……ああ。俺は何ともない」
鞘に刃を納める。その手が少しだけ遅れた。
谷を吹き上げる風が火の匂いを流していった。