前世の知識を持つ大学生・永田淳は、科学や医療、格闘技まで自在にこなし、何不自由ない人生を送っていた。そんなある日、彼の前に謎の男ビーンが現れ、「継承者」と呼んで命を狙ってくる。襲撃をきっかけに、淳の中で知らない戦場や研究施設の記憶が次々と蘇り始める。自分が持つ記憶の正体を探る淳は衝撃の事実を知らされる。

人類は進化を続けてきた。知識や技術、遺伝子は次の世代へ受け継がれていく。だが、その人が経験した恐怖や喜び、後悔といった記憶だけは引き継ぐことができない。もし、記憶さえも受け継ぐことができたなら、人類は何を残し、何を忘れるのか。
これは、忘れてはならないものを未来へつなごうとした人類の物語である。

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 俺には前世の記憶がある。

 冗談じゃない。本当だ。以前の俺は科学者だった。

 白衣を着て、夜遅くまで研究室に残り、顕微鏡を覗いていた。数式も、薬品の扱いも、大学で習うよりずっと前から知っている。

 最後の記憶はあやふやだが、おかげで今の人生は超イージーだった。

 

 ただ、妙なこともある。

 俺は銃の分解方法を知っている。骨折した人間の応急処置もできる。

 初めて乗ったはずの大型バイクを、何年も乗り回してきたように扱える。

 初めて会った女の好きな飲み物を、本人から聞くより先に言い当てたことさえあった。

 

 前世の俺は、ずいぶん多才な科学者だったらしい。

 科学者で、医者で、兵士で、格闘家。

 まるでアメコミのヒーローだ。

 

「おはよう、りな」

 

 ベッドの隣で、金髪の女が目を覚ました。

 昨夜、クラブで知り合った女だ。名前はりな。漢字までは聞いていない。

 

「……ここ、淳君の家?」

「そう。朝飯、食うだろ」

 

 俺は先にベッドを出た。

 鮭をグリルへ入れ、味噌汁を温める。冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、二つ並べたコップの片方だけに注いだ。

 りなはオレンジジュースが好きだ。

 

 昨夜、本人から聞いたのだろう。

 そう思うのに、その会話がどうしても思い出せなかった。

 

「あれ、これ、私の好きなやつ」

「言ってただろ」

「言ったっけ?」

 

 寝癖のついた髪を押さえながら、里奈が首を傾げる。

 

「酔っ払いは、自分の話も覚えてないんだな」

「淳君が人のこと覚えすぎなんじゃない?」

 

 そうかもしれない。

 俺は、人の好みをよく覚えている。誕生日。口癖。利き手。好きな食べ物。別れ際の表情。

 忘れても困らないようなことほど、頭の奥に焼きついて離れない。

 そのくせ、誰かと長く付き合おうとは思えなかった。

 どうせ、いつかはいなくなる。誰が、と聞かれても分からない。

 ただ昔から、そう思っていた。

 

「悪いけど、俺、付き合うつもりはないから」

 

 味噌汁を飲みながら告げると、りなは頬を膨らませた。

 

「朝ご飯を作っておいて、それ言う?」

「何も出さずに帰すよりいいだろ」

「優しいのか最低なのか分かんない」

 

 りなの言葉を背中で聞きながら、俺はテレビをつけた。

 

『本日未明、東京都内の研究施設で火災が発生し――』

 

 画面に、焼け落ちた建物が映る。

 

『研究員の神倉香澄さん、二十七歳の死亡が確認されました』

 

 箸が止まった。

 神倉香澄。知らない名前だった。

 それなのに、胸の奥へ冷たいものが落ちた。

 

「どうしたの?」

「……いや」

 

 俺は無意識に、ズボンのポケットへ手を入れていた。

 中にあるのは、バイクの鍵と、くしゃくしゃになったレシートだけだった。

 

          ◆

 

 大学へ向かう途中、俺は何度も背後を振り返った。

 誰かに見られている気がした。

 だが通学路にいるのは、スマートフォンを眺める学生と、駅へ急ぐ会社員だけだ。

 

「よう、淳。今日は遅かったな」

 

 教室に入ると、ゼミ仲間の連が机に突っ伏していた。

 

「ちょっと遊んでてな」

「また女か。天下の淳様は人生が楽でいいねえ」

「お前だって、やればできるだろ」

「それをできる奴が言うと嫌味なんだよ」

 

 連が丸めたプリントを投げてくる。

 俺は振り返ることなく、片手で受け止めた。

 

「……お前、後ろにも目があんの?」

「気配で分かる」

「どこの達人だよ」

 

 笑って返そうとしたとき、窓ガラスに男の姿が映った。

 金髪を後ろへ撫でつけ、黒いスーツを着た男。

 サングラス越しに、こちらを見上げている。

 

 口元には煙草。

 朝に見た火災現場の映像が、頭をよぎった。

 俺が立ち上がったときには、男の姿は消えていた。

 

          ◆

 

「I see――」

 

 大学からの帰り道、俺は昔から知っているような、知らない曲を口ずさんでいた。

 どこで聞いたのかは思い出せない。

 だが、妙に懐かしい。

 

「ずいぶん隙だらけだな」

 

 背後から声をかけられた。

 振り返る。昼間、大学の外にいた男だった。

 金髪のオールバック。黒いスーツ。磨き上げられた革靴。サングラスの下にある顔立ちは、日本人には見えない。

 男は煙草を口から離し、ゆっくりと煙を吐き出した。

 

「あんたしかいないだろ、永田淳」

「なぜ俺の名前を知っている?」

「どうした。覚えてないのか?」

「何をだ」

「前の記憶を」

 

 心臓が強く鳴った。

 

「前世のことを言っているのか?」

「前世?」

 

 男は鼻で笑った。

 

「ずいぶん都合のいい解釈をしてるんだな」

「何が言いたい」

「ごまかすなよ、継承者」

「継承者?」

 

 聞き覚えのない言葉だった。

 

 だが、その響きだけが頭の奥に引っかかった。

 

「俺は、そんなものじゃない」

「前の記憶を持ってるのに、継承そのものは覚えてないのか」

 

 男は顎に手を当て、わずかに首を傾げた。

 

「まあいい。どこまで覚えていようと関係ない」

「何の話だ」

「必要な科学者は今朝殺した」

 

 男の口から出た言葉を理解するまでに、数秒かかった。

 今朝、研究施設の火災。神倉香澄。

 

「お前が……あの火事を?」

「残るのは最後の継承者である、お前だけだ」

 

 男はスーツの内側へ手を入れた。

 

「お前が死ねば、すべて終わる」

 

 取り出されたのは拳銃だった。

 

「冗談きついぜ。ドッキリなら、そう言ってくれよ」

「悪いが、死んでくれ」

 

 銃口を向けられた瞬間、現在の景色へ別の光景が重なった。

 ここではない戦場。火薬の臭い。耳をつんざく銃声。

 記憶の中でも、俺は同じように銃を向けられていた。

 

『お前が死ねば、この戦争は終わる』

『悪いが、引き継がなければならないのだよ』

『そうか。なら、死ね』

 

 場面が切り替わる。

 今度は、記憶の中の俺が銃を向ける側だった。

 

『戦争を終わらせる! 突撃――!』

 

 銃弾が飛び交う戦場へ、仲間とともに駆け出す。

 破裂音が鳴り響いた。

 迫りくる鉛の塊が脳天を打ち抜く寸前、俺は顔をそらした。

 弾丸が額の端をかすめ、熱い血が流れる。

 その痛みとともに戦場が消え、俺の意識は現在へ引き戻された。

 目の前には、拳銃を構えた男がいる。

 

「やはり覚えてるじゃねえか」

 

 額を熱いものが流れていた。

 撃たれた。いや、直前で避けた。

 考えるより先に、身体が動いていた。

 

 男が二発目を撃つ。

 俺は横の路地へ飛び込み、地面を転がった。

 銃弾が背後の壁を砕く。

 

「待ちやがれ!」

 

 革靴の音が近づいてくる。

 逃げ場はない。それなのに、俺には次に何をすればよいのか分かっていた。

 壁へ足をかける。配管を掴み、身体を引き上げる。

 男が路地を覗き込んだとき、そこに俺の姿はなかった。

 

「ちっ、逃げたか」

 

 俺は建物の上から、その姿を見下ろしていた。

 

「完成品を逃がすわけにはいかねえ」

 

 男が走り去る。

 緊張が切れた瞬間、俺は屋上へ座り込んだ。

 額から血が流れ、今になって鋭い痛みが襲ってきた。

 

「痛ってえ……」

 

 自分でも信じられない。

 俺は壁を駆け上がり、銃弾を避けた。

 習ったこともない動きだった。

 

「継承者って、何なんだよ」

 

 俺は科学者だったはずだ。なのに戦場を知っている。

 銃を知っている。人を殺す動きまで、身体が覚えている。

 

「俺は……何者なんだ」

 

          ◆

 

 家へ戻った俺は、ソファーへ倒れ込んだ。

 警察に連絡するべきか。

 だが、前世の記憶を持つ男に拳銃で襲われましたなどと説明して、信じてもらえるはずがない。

 つけっぱなしにしたテレビから、朝と同じニュースが流れていた。

 

『研究施設の火災は、煙草の不始末が原因と見られ――』

 

 煙草。

 あの男の顔が浮かぶ。

 

『死亡した神倉香澄さんは――』

 

「香澄……」

 

 名前を口にした瞬間、頭の奥に沈んでいた光景が浮かび上がった。

 白い研究室。鳴り続ける警報。

 一枚のガラスを挟んだ向こう側に、白衣姿の香澄が立っている。

 

『あなたは私たちの希望よ』

『外では戦いが始まってる。もう時間がない』

『どうして俺だけなんだ。香澄は俺を忘れるのかよ』

『仕方がないの。完成した装置は一つしか残っていない』

『俺だけに全部背負えっていうのか』

『あなたしか耐えられないの』

 

 香澄の手が俺の頬へ触れる。

 冷たい手だった。

 

『私たちは、誰にも知られない歴史になる』

『このまま世界がリセットされれば、私たちがここにいたことさえ消えてしまう』

『もう失われるのは嫌』

『必ず覚えていて』

 

 香澄の指が、俺の胸元へ触れる。

 

『カギはいつもポケットにある』

 

 記憶の中で、俺を覆うポッドが閉じていく。

 ガラスが、香澄と俺を隔てる。

 もう触れられない。

 次に会えるかも分からない。

 それでも、俺は覚えていなければならなかった。

 

「何なんだよ、今の記憶……」

 

 俺はポケットをまさぐった。

 鍵はない。

 出てきたのは、ポケットティッシュと、くしゃくしゃのレシートだけだった。

 

「カギはポケットにある……」

 

 ポケットティッシュを裏返す。

 広告欄に、小さく会社名が印刷されていた。

 ブレイン社。初めて見る名前だった。

 だが俺は、その場所を知っているような気がした。

 

          ◆

 

 ブレイン社の跡地は、廃墟になっていた。

 錆びついた立入禁止の看板。敷地を囲む高い柵。

 門には鎖も南京錠もなく、片方の扉がわずかに開いている。

 まるで、俺が来るのを待っていたようだった。

 

 風が吹く。

 枯れ草が擦れ、金網が低く軋んだ。それ以外に音はない。

 地面に転がっていた鉄パイプを拾い、俺は敷地内へ入った。

 研究所の窓は黒く汚れ、外壁には蔦が絡みついていた。

 入口の自動扉は砕けている。

 

 スマートフォンのライトを頼りに、暗い廊下を進む。

 湿った空気。埃と黴、わずかに残る薬品の臭い。

 初めて来た場所のはずなのに、懐かしさが胸の奥で渦巻いていた。

 

「何の場所だったんだ、ここは」

 

 受付には黄ばんだ書類が散乱している。

 床に落ちた白衣。倒れた椅子。

 廊下の奥へ続く、黒ずんだ足跡。

 人々が、ある瞬間にすべてを放り出して逃げたような跡だった。

 どの部屋も荒らされ、資料は残っていなかった。

 

 ただ一つ、施錠された部屋があった。

 扉の横には生体認証装置が設置されている。

 電気が通っているようには見えない。

 それでも俺は、無意識に手を置いていた。

 短い電子音が鳴る。

 

『生体情報を確認します』

 

「動くのかよ……」

 

『確認完了。ようこそ、永田淳様』

 

 扉が開いた。

 

「何で俺が登録されてるんだ」

 

 部屋の中には、一台のパソコンと、巨大なカプセル状の装置が置かれていた。

 俺が入った瞬間、天井の照明が点灯する。

 パソコンの前に立つと、また視界が揺れた。

 荒れ果てる前の研究室。

 同じ端末の前で、俺と香澄が並んでいる。

 

『ここのパスワードは、一九八九〇二〇三』

『何だ、その数字』

『所長の誕生日』

『セキュリティーがずさんすぎないか』

『だから潰れたんでしょ』

『なるほど。一理ある』

『カギは覚えてる?』

『ポケットだろ』

『上出来』

 

 記憶が途切れたとき、俺の指はすでに数字を入力し終えていた。

 画面に、古い資料が表示される。

 

 ブレイン・リンク・プロジェクト。

 

 人間の記憶を保存し、別の人間へ転送する研究。

 しかし、継承する記憶が増えるほど、完全に定着する確率は低下する。

 記憶が欠落し、人格が混ざり、使命だけが残る場合もある。

 

「使命……」

 

 画面を見つめていると、過去の声が蘇った。

 

『この装置を守れ』

『人類の希望だ』

『アムネシアが来る。奴らは継承を終わらせるつもりだ』

『ここは俺たちが守る』

『また次の世界で会おう』

 

 俺は、記憶を託された。

 だが、なぜ託す必要があった。

 

 荒廃した世界。近未来の都市。戦場。病院。研究所。

 同じ地球とは思えない光景が、俺の中にいくつも存在している。

 

「お目覚めかな、継承者」

 

 背後から声がした。

 振り返る。あの男が、部屋の隅に置かれたソファーへ座っていた。

 

「なぜここに」

 

 男はスマートフォンを掲げた。

 

「バイクに発信器をつけた」

「いつの間に……」

「お前はまだ、継承が完了していない。気づけなくて当然だ」

 

 男は立ち上がり、煙草へ火をつけた。

 

「俺の名前はビーン」

「お前は何を知っている?」

「何も」

「何?」

「俺に残ってるのは、標的の顔と名前。それから、継承者を殺せという命令だけだ」

「それだけのために、香澄を殺したのか」

「それが俺に与えられた使命だからな」

「理由も知らずに?」

 

 ビーンは答えなかった。

 煙草を吸い込み、ゆっくりと煙を吐く。

 

「使命を失えば、俺には何も残らない」

 

 その言葉だけが、わずかに掠れていた。

 ビーンは煙草を床へ落とし、拳銃を取り出した。

 

「だから、お前を殺す」

「俺の使命は……」

 

 ポケットへ手を入れる。

 指先に、くしゃくしゃの紙が触れた。

 取り出したのは、映画館のレシートだった。

 作品名は『リセット』。

 その瞬間、断片がつながった。

 

「この世界は、リセットされている」

「何?」

「誰かが世界の仕組みに気づくたび、すべてが消される」

「俺には関係ない」

「また全員消えるんだぞ」

「俺の使命は、お前を殺すことだ」

 

 ビーンが拳銃を構える。

 

「理由なんて必要ない」

 

 引き金が引かれる。

 だが、銃声は鳴らなかった。

 

「くそっ、ジャムりやがった!」

 

 俺は床を蹴った。

 鉄パイプを振り抜く。

 ビーンは左腕で受け止めたが、衝撃で拳銃が床を滑った。

 この光景を知っている。

 何度も見た。

 何人もの人間が、同じ男と戦ってきた。

 

「いつもお前はそうだった」

「知ったような口を利くな!」

 

 ビーンが拳を振るう。

 俺はそれを外へ流し、懐へ踏み込んだ。

 みぞおちへ肘を突き刺す。

 

「がはっ……!」

 

 俺自身は格闘技など習っていない。

 それでも身体は知っていた。

 土埃の舞う道場。何千回も繰り返した踏み込み。

 戦場で学んだ急所。病院で覚えた人体の構造。

 ビーンもまた、継承された戦闘経験を使っていた。

 

 ボクシングの拳。軍隊格闘術の踏み込み。関節を狙う組み技。

 一つの技を使えば、相手はその対処法を知っている。

 構えを変えれば、次の瞬間には見破られる。

 俺たちの中で、何人もの人生がぶつかり合っていた。

 

「面白え」

 

 ビーンが血の混じった唾を吐く。

 

「どっちの記憶が強いと思う?」

「数の問題じゃない」

 

 俺は鉄パイプを捨てた。

 

「お前に負けた全員が、次はどうすればいいかを知っている」

 

 ビーンの笑みが消えた。

 奴は低く構える。

 いくつもの技術を捨て、最も身体に馴染んだ軍隊格闘術へ戻った。

 

「今度こそ、本気で殺してやる」

 

 床を蹴る音が響いた。ビーンの左肩が沈む。

 この動きを、俺は知っている。

 本気になればなるほど、こいつは右足で踏み込む直前に左肩を下げる。

 顔を狙うように見せかけ、腹を打ち抜く。過去にビーンへ敗れた者たちが、その癖を俺へ残していた。

 俺は退かなかった。

 拳が放たれるより早く、こちらから懐へ入る。

 

「なにっ――」

 

 右腕を外へ流す。空いた顎へ掌底を突き上げた。

 ビーンの頭が跳ね上がる。

 さらに腕を引き寄せ、こめかみへ肘を叩き込んだ。

 

「がっ……」

 

 ビーンの身体から力が抜けた。

 膝が折れ、そのまま床へ崩れ落ちる。

 

「本気になるほど、動きが単純になる」

 

 返事はない。

 ビーンは意識を失っていた。

 倒れたビーンを見下ろした瞬間、新たな記憶が開いた。

 

          ◆

 

 薄暗い会議室。長机を囲む、黒い制服の男女。

 記憶の持ち主は、扉の隙間から会話を盗み聞いていた。

 これはビーンの記憶ではない。

 かつて敵組織へ潜入した、別の誰かの記憶だ。

 

『次の追跡者への継承準備は?』

『完了しています。戦闘経験、標的の顔と名前、抹殺命令。それ以外は削除しました』

『リセットやリンクの真実は?』

『継承させません。余計な情報を持たせれば、使命へ疑問を抱く可能性があります』

 

 一人の女が資料を机へ置いた。

 

『今回、人類が真実へ到達するまでにかかった時間は?』

『前回より十二年短縮されています』

『さらに短くなったか』

『リンクによって過去の知識を引き継ぐほど、人類は早く世界の真実へ近づきます』

『つまり、継承者を残すほど、次の世界で人類が生きられる時間は減る』

『はい』

 

 室内に沈黙が落ちた。

 

『継承を止めなければならない』

 

 一人の男が言った。

 

『死者の記憶を残すために、次の世界の生者から未来を奪うわけにはいかない』

『だが、追跡者本人がそれを知れば、迷うかもしれない』

『だから思想は必要ない』

 

 男は冷たく言い切った。

 

『ビーンに必要なのは、標的を殺す技術と命令だけだ』

『人類を守るために、人間である必要はない』

 

 そこで記憶は途切れた。

 

          ◆

 

 俺は現在の研究室へ引き戻された。

 床に倒れたビーンを見る。こいつは何も知らなかった。

 なぜ殺すのか。殺した先に何があるのか。

 自分が人類を守るために作られたのか、それとも組織の道具にされたのか。

 

 何一つ知らない。

 それでも、命令だけを自分の使命だと信じて生きてきた。

 だが、敵組織の主張は間違いではなかった。

 継承を重ねれば、人類はより早く世界の真実へたどり着く。

 そして世界は、より早く消される。

 俺たちは死者を忘れないために、まだ生きている人間の未来を削っている。

 

 その理解とともに、最後の記憶が蘇った。

 

          ◆

 

『この世界はリセットされている』

 

 ブレイン社の研究室で、香澄が言った。

 

『人類が世界の正体を完全に理解した瞬間、世界そのものが削除される』

『時間が巻き戻るのか?』

『違う。同じ条件から、ほとんど同じ地球が再生成されるの』

『じゃあ、俺たちもまた生まれるのか』

『同じ歴史をたどればね。でも、真実に気づいてからリセットまでに生まれた人間や出来事は、次の世界には存在しない』

『だから、誰もリセットに気づけない』

『そういうこと』

 

 香澄は、研究室の中央にあるポッドへ目を向けた。

 

『人類は世界を保存できなかった。だから、記憶を保存することにした』

『リンク装置……』

『装置を起動した年月日と時刻。その瞬間と同じ時間に、次の世界で生まれた子供へ記憶を転送する』

『誰に届くんだ』

『分からない。同じ時刻に生まれ、記憶へ耐えられる適性を持った誰か。どの国の子供かも、男か女かも選べない』

『全部思い出せるのか?』

『保証はないわ。知識だけが残るかもしれない。感情だけかもしれない。使命しか残らないこともある』

 

 ビーンの顔が浮かぶ。

 

『それでも、記憶を受け継いだ身体は、本人が覚えていなくても手掛かりへ向かう』

『それが使命か』

『ええ』

『俺の使命は、次へ継承すること』

『正解よ』

 

          ◆

 

 記憶が途切れ、俺は現在へ戻った。

 目の前にあるのは、あのときと同じリンク装置だった。

 すべてを思い出した。

 俺が装置を使えば、記憶は次の世界へ残る。

 だが、次の継承者は俺たちの知識を使い、さらに早く世界の真実へ近づくだろう。

 今度の人類に残された時間は、さらに短くなる。

 装置を使わなければいい。ここで終わらせればいい。

 そうすれば、次の世界の人類は、少なくとも二一六八年まで何も知らずに生きられる。

 子供が生まれる。恋をする。家族を作る。

 世界が偽物だと知らないまま、一生を終えられる。

 俺一人が記憶を捨てれば、それで済む。

 アムネシアの選択は、間違っていない。

 

「忘れることが、救いなのか」

 

 装置へ手を伸ばしかけ、止める。

 そのとき、さらに古い記憶が浮かんだ。

 

          ◆

 

 世界の終わりを待つ地下室。

 若い男女が、生まれたばかりの赤ん坊を抱いている。

 記憶の中の腕に、小さな重みがあった。

 呼吸のたびに上下する胸。俺の指を握る、小さな手。

 

『ねえ、この子はリセットされたら、どうなるの』

『次の世界には生まれない』

『そんなの嫌よ』

『分かっている、リリー』

『この子は生まれたのよ』

『ああ』

『泣いて、笑って、私たちの指を握った』

『ああ』

『世界が消えたら、それも全部なかったことになるの?』

 

 男は答えられなかった。

 赤ん坊が小さな声を漏らした。

 

『せめて、覚えておきましょう』

『何を?』

『この子のことを』

 

 女は涙を流しながら、赤ん坊を抱きしめた。

 

『次の世界に連れていけなくても、私たちの記憶が残るなら、この子は完全には消えない』

『そうだな』

『名前を呼んで』

『ルークス』

 

 男が、赤ん坊の額へ口づけた。

 

『僕たちの子、ルークス』

 

          ◆

 

 記憶が静かに消えた。

 ルークスは人類を救うための英雄ではない。

 世界の秘密を知る研究者でもない。

 ただ、世界が消えるまでの短い時間に生まれた、一人の子供だった。

 次の世界には生まれない。

 記録にも残らない。俺たちが継承をやめれば、その名前を知る者もいなくなる。

 

 香澄。戦場で死んだ兵士。装置を守った研究者。

 ビーンに殺された人々。

 リセットとリセットの間で生きた、名も知らない無数の人間。

 俺の中にいる彼らは、救いを求めているのだろうか。

 

 分からない。

 未来の人間へ記憶を押しつけることが正しいのかも分からない。

 それでも、一度存在した命を、存在しなかったことにはしたくなかった。

 

「俺たちは、人類を進化させるために継承してきたんじゃない」

 

 装置へ手を触れる。

 

「忘れないために、始めたんだ」

 

 研究所が激しく揺れた。天井に亀裂が走る。

 窓の外で、空が白く崩れ始めていた。

 世界が、俺の理解を認識した。

 

 リセットが始まったのだ。

 端末に残り時間が表示される。

 五十九分。

 以前は数日あった。その前は数年。

 継承するたびに、人類へ残された時間は短くなっている。

 次の継承者には、一時間さえ残されないかもしれない。

 それでも俺は、ポッドの中へ入った。

 

「香澄」

 

 もう会うことはない。

 次の世界に同じ香澄が生まれたとしても、俺の知っている彼女ではない。

 

「覚えているよ」

 

 ポッドの蓋が閉じ始める。

 

「お前も、ルークスも、ビーンも」

 

 倒れたビーンへ目を向けた。

 こいつも間もなく世界とともに消える。

 命令しか与えられず、それを自分の人生だと信じるしかなかった男。

 

「全部、次へ持っていく」

 

 装置が起動する。

 

『リンクを開始します』

 

 白い光が視界を満たした。

 次に誰が受け取るのかは分からない。

 どこに生まれるのかも分からない。

 俺の名前を思い出せるかも分からない。

 

 それでいい。

 すべてを覚えていなくても、身体はきっと手掛かりへ向かう。

 ポケットへ手を入れる。

 知らない名前に胸を痛める。

 初めて訪れた場所を懐かしく思う。

 いつか、また思い出す。それが、俺たちの使命なのだから。

 俺は目を閉じた。

 

          ◆

 

 そこまで思い出したところで、誰かが目を開いた。

 見慣れたはずの、自分の部屋の天井。

 荒い呼吸を整えながら、ゆっくりと上半身を起こす。

 永田淳という大学生。神倉香澄という研究者。ビーンという追跡者。

 ルークスという、世界から消えた子供。

 

 すべてを夢のように見ていた。

 だが、夢ではない。

 壁のカレンダーを見る。

 

 自分が生まれた年月日。

 母から何度も聞かされた、生まれた時刻。

 永田淳がリンク装置を起動した時間と、同じだった。

 

 誰に届くかは、淳にも分からなかった。

 装置を作った研究者たちにも分からなかった。

 そして今、記憶を受け取った本人にも、なぜ自分だったのかは分からない。

 

 鏡を見る。

 そこに映る顔は、永田淳とは似ても似つかない。

 生まれた国も、名前も、歩んできた人生も違う。

 それでも、その人物は無意識に淳と同じ仕草で前髪をかき上げた。

 ポケットへ手を入れる。

 中には何も入っていない。

 それなのに、知らないはずの言葉が自然と口からこぼれた。

 

「カギは、いつもポケットにある」

 


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