ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 六章 八節
『古い印泥は乾き、新しい封蝋はまだ指に温い。』
ヘルドランテ朝の朝は、荷札の音から始まる。
内戦の影響で、街道の至る所に私設の検問所ができ、物資の滞留は日常茶飯事になっていた。
リワウヒ港からノエホ地方へ抜ける幹線は、地図上ではまだ生きている。
かつての正規巡回ルートには、支援部隊の旗を掲げた帝国軍の装甲車が増えていた。僕らのような民間クラン「みちしるべ」は、泥に沈んだ旧道や細い獣道を使い、間隙を縫うように荷を運ぶしかない。
「三番から六番までの荷車、停車。検問による滞留予測時間、四十分。各員、馬の『
僕の声に、背後の数十名が規律正しく動く。
かつてはニコと二人きりだった雑用組も、今では五十名を抱える中堅クランになっていた。
この混沌の中で、人間を飢えさせず、荷を止めず、できるだけ戻らせること。
派手さはない。でも、荷が動き、人が戻る。今の僕の仕事はそこにある。
彼らが戦場で大魔法や剣技を振るっている間。
僕はここ。沈む路面と、釘の数と、疲労の蓄積を見ている。
一本の数式として、ひたすらに管理し続ける。
✶
昼前、合流したばかりの井上希望が、僕の横で静かに目を閉じていた。
彼女の友好性非同期千里眼を使い、散り散りになったクラスメイトたちの「最後に見えた位置」と「確認できず」を、一人ずつ名簿に書き込んでいく。
井上が一人を思い浮かべるたび、僕の視界にも少し前の景色が重なった。遠い道。崩れた壁。荷車の陰。その像に人影が入れば、頭上の数字も一緒に見える。井上の千里眼を通しても、僕の数字は働いた。
ただし、見えるのは過去だ。数字も、その時点の値だった。
「飯田……田中……小泉……」
名前を言うたびに、彼女の指が震え、僕の胸の奥に冷たい石が溜まっていく。
軍籍も階級もない、ただの非公式な集団の責任者でしかない今の僕は、鉛筆の先を削り、位置と時刻を名簿へ写していた。
井上が「見えない」と言っても、死亡とは書けない。友好性、距離、乱れ。能力が拾えない理由は一つではない。だから欄には、未確認、とだけ書いた。
それでも、最後の位置すら出ない名前が増えるたび、指の先が少しずつ冷えた。
名前を刻むたび、僕の喉も一緒に絞られていく気がした。
井上が目を閉じたまま、横から手を伸ばし、僕の手の甲に一瞬だけ触れた。
「先輩も、手が冷たいです」
「……そうか」
「その手で書き続けるの、しんどくないですか」
「しんどい、のとは少し違う。止まるわけにはいかない」
「止まらなくていいので、たまにこうして、確認させてください」
それだけ言うと、彼女はまた目を閉じ、次の名前を探し始めた。
触れられた手の甲だけが、少しの間、他より温かかった。
名前を書くたび、数字の隣で何かがうっすら滲んで、すぐ消えた。
精神。そう読めた気がしただけで、確かめる勇気はなかった。
見えてしまえば、名簿の空欄がもっと重くなる。そんな気がした。
✶
午後、荷置き場の空気が一変した。
戦闘音が止んでいた。
昨日の夜から、じわじわと小さくなっていた音が、夜明けには完全に消えていた。
静かになったことで、何かが終わったと分かる。
何かが終わったことで、この国が「戻れない場所」まで踏み出したのだと分かる。
澄人が台の前に立っていた。その視線は、安否板ではなく窓の外、王城の白壁に向けられている。
「先輩、昨夜の『確保』で、クーデターは事実上成功しました。第二王子派の再編に力を貸していたのは、帝国です。あの支援があったからこその作戦だったんですが、同時に、内戦支援という名目で駐留していたその帝国軍との交渉は、完全に決裂しています」
「決裂」
「『天撃』が投入されたそうです。第一勇者、シパルネ様ご本人の部隊が」
その名前だけで、澄人の声が一段低くなった。
「天撃は一部隊じゃありません。勇者ごとに別々の天撃があって、今回、王城側についていた別の天撃部隊と、シパルネ様側の天撃がかち合ったそうです」
鉛筆を持つ手が止まった。「かち合った、というのは」
「軽く撃ち合ったと聞いています。同じ幾代勇者の枠にいる者同士で」
澄人はそこで一度言葉を切った。
「赤石は、シパルネ様側の天撃の航空強襲に同乗する形で亜空間連続転移を使い、障壁の内側からランドマール殿下と第二夫人を確保しました。シパルネ様が結界中枢を短時間だけ割り、赤石が中へ入る隙を作った、と」
支援という名目で、すでに城の深奥まで入り込んでいたその帝国軍にも、今回の『確保』の一部始終は明かされていなかったという。味方であるはずの帝国軍の目すら盗む形になった、それほど際どい作戦だったらしい。
「三十分と保たない露出時間だったそうです。英雄たちが城下の駐留キャンプを囮に引き付けている間に、天撃は目的だけ果たして引き上げました」
澄人の声には、熱があった。喜んでいる声ではなかった。
「ノエホ要塞への攻撃は、たぶんその報復です。第二夫人側に残っていた戦力が、殿下たちを取り返す代わりに、囮を務めた勇者班を狙った」
「勇者」という呼び名が、三郷たちの通称でしかないことを、僕はその時初めてはっきり意識した。
本物の勇者は、三十分だけ現れて消える。三郷たちは、その三十分のために的にされた側だった。
支援者という紙の札が、そこで剥がれた。
「帝国軍の正規部隊が、国境線の向こうで南下を始めています。装甲車だけではありません。歩兵戦車を含む部隊が確認されました。ヘルドランテ朝は、正式に帝国への宣戦布告を準備しています」
印章が、王家の双剣から、ヘルドランテ朝の鉄十字に変わった。
紙の質も、事務的なものではなく、総動員令のための極薄の戦時用紙へと変わっている。
僕は名簿をめくる指が、震えるのを止められなかった。
荷を運ぶための手が、別の計算に組み込まれていく。喉の奥に、鉄の味がした。
✶
夕方、詰所に一人の女性が訪れた。
「図書館の方が、羽黒殿に面会を希望しているそうです。……いえ、今はヘルドランテ朝の代表、緊急動員委員会の委員長を務めておられる方です」
司書、という平和な肩書きは、もう表の名札に残っていなかった。
森田ロハン。
ヘルドランテ朝の代表として、彼女は仕立てのいい紺のスーツを纏い、面会室に座っていた。机の上には、薄い紙の束と、印章が置かれている。
「お久しぶりですね、羽黒くん。……いえ、今は羽黒准尉と呼ぶべきかしら」
「お忙しそうですね。代表まで務められているとは」
「ええ。支援を装って私たちの白壁の中にまで入り込んでいた帝国軍が、もう支援者の顔をしなくなったわ。今の私たちは、国民のすべてを兵士と弾薬に変えなければ、あの列に押し潰される」
「兵は、あの広場の列を見れば足りるでしょう。足りないのは、その列を数えて動かせる側の人間よ。士官学校は開戦前提の速度で人を育てられない。将校の穴は、兵の頭数より先に空く」
彼女は一枚の重い動員令と、新しい階級章をテーブルの上に置いた。
「羽黒くん、ヘルドランテ朝にはあなたの『管理』が必要なの。無計画な死を撒き散らすだけの戦列ではなく、勝利への計算に基づいた兵站。それを構築できるのは、あなたしかいない。これはお願いではなく、代表としての正式な動員要請です」
無計画な死。
その言葉が、喉の奥に引っかかった。
数字にもならず、名前も残らず、ただ消えていく死。旧木炭道で、北二番水場で、僕がずっと嫌ってきたものだ。
戦場でも、たぶん同じだ。
名前を残す。数を合わせる。戻れる場所を作る。
それだけは、決めておきたかった。
「……分かりました。受けます」
僕は短く答えた。
口元は動かなかった。自分のものではないみたいだった。
僕は机の上の階級章を見つめ、奥歯を強く噛みしめた。
ミシミシと頭蓋に響く音が、現実の感触を連れてくる。
一度兵列に戻れば、もうあの荷置き場での平穏な時間は戻ってこない。
僕はペンを取り、動員令の署名欄に自分の名前を刻み込んだ。
官吏たちが下がり、面会室は二人きりになった。
かつて、図書館で本をめくっていた時のことを思い出した。随分、遠くまで来た。
「……羽黒くん。一つだけ、聞かせて。なぜ、引き受けてくれたの?」
僕は視線を落とし、机の上の署名を見た。
「……分かりません」
それだけ言った。
森田さんは、署名欄を見てから小さく頷いた。
「……そう。なら、私もあがくわ。あなたが整えてくれた兵站の先に、少しでも多くの命が残るように」
窓の外、雨の音が聞こえ始めた。石畳を叩く、激しい音。
その約束は、雨音にかき消されるほど小さかった。
でも、机の上に置かれた動員令の紙だけは、新しい時代の重みを持って、そこに留まっていた。
帰り道、詰所前の広場に、雨の中で長い列ができていた。
臨時徴募、と書かれた板の下で、係の兵が名前を呼んでいる。並んでいるのは、兵士の体つきではない人たちだった。桶を持つ手。鍬を持つ手。帳簿をめくる手。生年の幅も広い。息子くらいの少年の後ろに、その父親くらいの男が立っている。
呼ばれた名前に、返事がひとつずつ返る。
その形を、僕はどこかで見たことがあった。あの中庭の点呼と同じ形をして、まるで違うものが始まっていた。
✶
正式な辞令が来た日、僕は輸送路の書類を整理していた。
アンテラル騎士長が直々に持ってきた封文。
そこには、簡潔な事実だけが記されていた。
羽黒承。
ヘルドランテ朝正規軍、第十四補給小隊、小隊長。
階級、准尉。
「異存はあるか、羽黒」
「ありません。小隊の人数は?」
「十四名だ。既存の詰所要員に、他拠点からの異動組三名を加える。……准尉という階級はな、組織の中で最も動きやすい位置だ。上からは期待されず、下からも遠すぎない。使いやすい位置だと思え」
「使いやすいということは、使われるということでもある、ですね」
騎士長が、低く笑った。その笑いは、僕がもう後戻りできない場所に立っていることを祝福しているようでもあった。
✶
翌朝、澄人が辞令を持って現れた。彼女は上等兵として、僕の小隊に配属されていた。
「仕事は変わりませんね、先輩」
「変わる部分もある。だが、まずは手元の数値を合わせるだけだ」
澄人になら、束ねる仕事の一部を渡せたかもしれない。渡さなかったのだ。
澄人は黙って頷き、黒い板を僕に手渡した。
夜、僕は手帳を開き、辞令の紙を挟み込んだ。
その下には、かつてのクラスメイトたちの名前。安否の不確かな報告の数々。
名前の紙はもう動かない。弔いのための紙だ。
辞令の紙は、これから僕を動かす。
明日から、第十四補給小隊が動く。
帝国軍との決戦は、もう目の前まで迫っていた。
――――――――
面白かったら、下記のリンクから評価やレビューをいただけると嬉しいです。
https://kakuyomu.jp/works/822139841314440520/reviews