ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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六章十三話 戻された小瓶

《王録》 六章 十三節

『残された小瓶は、死ねぬ者の名を水面に戻す。』

 

 救護班が来るまでの時間が、妙に長かった。

 

 長いはずがない。

 

 僕が声を出してから、走る足音が来るまで、たぶん一分も経っていない。

 

 でも、瓦礫の中の生命は、その間ずっと同じ場所にあった。

 

 ゼロではない。

 

 ゼロではない。

 

 ただ、それだけ。

 

 それを見ていると、息の仕方が分からなくなった。

 

 

 救護班は、最初に布を広げた。担架ではなかった。

 

 担架に乗せる形が、まだ残っていなかった。僕は手を出そうとして、止められた。

 

「見つけた人は下がってください」

 

「生命が」

 

「聞いています。下がってください」

 

 救護兵の声は固かった。

 

 怒っているのではない。

 

 何かを崩さないように、声を固くしている。

 

 袖口は濡れていた。手袋の革には、薬草と血を洗った後の匂いが残っている。僕を止めた手は乱暴ではなかったが、指先だけが妙に冷たかった。

 

 僕は一歩下がった。

 

 靴底の下で、小さな破片が鳴った。

 

 

 桜華さんだったものは、布に包まれた。

 

 名前を言うと、周囲の空気が少し変わった。

 

 桜華さんは、いつも名前より先に声が来る人だった。廊下の向こうから誰かを呼ぶ声がして、振り向くとだいたい彼女がいる。そういう印象が、布の前では役に立たなかった。

 

 放課後、誰かの忘れ物を見つけると、桜華さんは持ち主の名前より先に置き場所を覚えていた。机の横、窓際の鞄掛け、教卓の下。そういう細かい場所をよく覚えている人だった。

 

 今、その人の場所を救護班が決めている。その事実だけで、喉の奥が詰まった。

 

 不死。その言葉は便利すぎる。

 

 便利すぎて、口にした瞬間に何かを取りこぼしそうだった。

 

 死なない、という言葉は、この場では何の説明にもならない。

 

 死ねない、なら少し近いのかもしれない。

 

 そんなことを考えて、すぐにやめた。

 

 考える順番が違う。

 

 

 詰所へ戻る途中、エリカさんに呼び止められた。

 

 いつ来たのか分からなかった。

 

 冒険者協会の腕章に、泥が跳ねている。

 髪は後ろで雑に結ばれていて、結び損ねた短い毛が頬に貼りついていた。走ってきたのだと思う。呼吸は荒くないのに、肩掛け鞄の革紐だけが、胸のところで強く食い込んでいた。

 

「羽黒」

 

「はい」

 

 エリカさんは、布包みを差し出した。

 

 小さい。

 

 親指ほどの硝子瓶が一本、中で硬い音を立てた。

 包み布は乾いていた。乾いているのに、受け取る前から冷たそうに見えた。エリカさんの指の節には、古い傷が白く残っている。

 

「前に迷宮で回収した。正式には保管品だ。まだ鑑定名も固まっていない」

 

「それを、僕に?」

 

「お前にじゃない。救護班に渡せ。使うかどうかは向こうが決める」

 

 瓶の中には、液体が少し残っていた。

 

 透明ではない。

 

 光を当てると、底の方に薄い金色が沈む。

 

「遺跡から出た薬だ。古い回復薬か、聖別水の出来損ないか、その辺りだとミラは言っていた」

 

「危なくないんですか」

 

「危ない。だから、普通は使わない」

 

 エリカさんは、そこで一度だけ視線を戦場の方へ向けた。

 

「普通の形が残っているならな」

 

 僕は瓶を受け取らなかった。

 

 手が動かなかった。

 

 エリカさんは、布包みごと僕の胸元へ押しつけた。

 

「持て。お前が見つけた反応だ」

 

 その言い方は、優しくなかった。

 

 優しくないから、手が動いた。

 瓶の角が、服越しに胸へ当たった。軽いはずなのに、そこだけ重くなった。

 

 

 救護所の中は、薬草と焼けた布の匂いがした。

 

 桜華さんの名前は、まだ札に書かれていなかった。

 

 救護兵が僕の持ってきた小瓶を見る。

 

 顔が変わった。

 若い兵だった。頬の産毛に粉薬がついていて、目の下だけが黒くなっている。驚いた顔をしてから、すぐに仕事の顔へ戻した。

 

「どこから」

 

「冒険者協会の保管品です。迷宮の遺物だと」

 

「使用許可は」

 

「ありません」

 

 自分で言って、舌の裏が乾いた。許可がない。

 

 鑑定名もない。安全確認もない。

 

 あるのは、ゼロではない生命と、布に包まれた体だけだ。

 

 救護兵は瓶を受け取り、隣の軍医へ渡した。

 

 軍医は長くは迷わなかった。

 軍医の手は太かった。爪の間まで洗ってあるのに、指の腹だけが赤い。何人も触った手だった。

 

「薄める。直接は入れない。残存魔力を見る」

 

「はい」

 

 手順が動き始めた。

 

 それだけで、少し息が戻った。

 

 

 小瓶の中身は、水に落とされると、金色ではなく白く濁った。

 

 血の匂いと混ざる。薬の匂いはしなかった。雨の後の石に似ていた。

 

 軍医が布の端を少し開く。僕は目を下げた。でも、表示が見えた。

 

 低い。低いまま、揺れた。一度、消えかけた。

 

 顎の奥が、勝手に硬くなった。次の瞬間、生命がほんの少し上がった。

 

 精神の表示は、見えなかった。生きているのに、そこだけが白く抜けている。

 

 上がったのが生命だけだと分かった時、安堵より先に、新しい重さが増えた。

 

 周りの誰かが息を止めた。僕ではなかった、と思う。

 

「反応あり」

 

 救護兵が言った。

 

 軍医は頷かなかった。

 

「続ける。喜ぶな」

 

 その声で、救護所の中がまた手順に戻った。

 

 

 桜華さんの形は、すぐに戻らなかった。当たり前だ。人は壊れた物ではない。

 

 部品を戻せば済むわけではない。それでも生命は、ゼロから遠ざかっていた。ほんの少しずつ。

 

 見間違いだと言われたら、言い返せないくらい。

 

 でも、僕には見えていた。

 

 見えてしまっていた。

 

「羽黒さん」

 

 救護兵が僕を見る。

 

「外で待ってください」

 

「でも」

 

「ここから先は、見つけた人が見る場所ではありません」

 

 返事が出なかった。

 

「呼ばれたら戻ります」

 

 それだけは言えた。

 

 救護兵は小さく頷いた。僕を励ますためではなく、仕事の確認として。

 

 外へ出ると、雨は止んでいた。溝の水だけが流れている。手の中に、小瓶の布だけが残っていた。

 

 中身は、もうない。それでよかったのかは分からない。分からないまま、僕は布を握った。

 

 生命のゼロと、生きている生命が、同じ処置台の上にあった。

 

 救いに見えるものは、救いだけではなかった。

 

 桜華さんは、死ねなかった。

 

 僕は、それを拾ってしまった。

 

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