ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 七章 一節
『水音の下で、抜かれぬ刃だけが冷えていく。』
翌朝、第二王城の地図室で、森田さんは地図を開いた。僕は卓を挟んだ向かいに立っていた。
昨日の外廊下では、地図を出さなかった。あの場で線や地名を並べられていたら、僕はそれを作戦ではなく言い訳として見ただろう。森田さんの鞄には、たぶん折り畳んだ地図が入っていた。
今でも、少しはそう見える。
それでも、見ないで済む場所にはもういなかった。
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室内には、乾いた羊皮紙の匂いと油の匂いが混ざっていた。
壁にかけられた大きな地図には、赤い糸と黒い糸が何本も張られている。卓上には、もっと細かい軍務地図が重ねられ、端を押さえる金属の重しだけが妙に冷たそうに光っていた。
森田さんは、その中の一枚を選び、折り目を掌で伸ばした。
薄い手袋の先に、インクの黒が少し移っていた。いつもなら整っている髪も、耳の後ろで一本だけはねている。たぶん、直す時間がなかったのだと思う。
「第二王子殿下は、エザグランマ方面へ動きます」
声は、昨日より乾いていた。泣いた後の声ではなく、眠っていない人の声に近い。
「私たちがつくんですか」
聞いた瞬間、森田さんの手元が止まった。迷ったようには見えなかった。ただ、言葉を卓上へ置く前に、一度だけ重さを量ったような間があった。
「いいえ」
森田さんは細い定規を動かし、殿下側の線から少し離れた場所を押さえた。
「あなたたちは、こちらです。ノエホ地方、ゴルペホ橋梁線」
昨日の最後に聞いた名前だった。
地図の上では、定規を少し滑らせるだけで届く。そこへ、横にいた文官が測量表を差し込んだ。
文官は細い眼鏡をかけていた。鼻当ての跡が赤くなっている。測量表を差し込む手つきだけが速く、声はその後からついてきた。
「地図上の距離をそのまま読まないでください。縮尺補正後で、主移動路から直線約六十キロです」
六十キロ。
数字にすると素直だった。素直すぎて、しばらく頭の中で置き場所が決まらない。
歩いて一日で済む距離ではない。車両でも、道と橋と荷物に縛られる。伝令が往復するだけで、最初の報告が少し古くなる距離だ。
「つまり、直接守るわけじゃない」
「はい」
森田さんは、言い換えなかった。
「敵主力を、ゴルペホ橋梁線に縛ります。殿下を追わせないために」
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地図の中央を、青い線が曲がっていた。
川だった。
その上に古い石橋を示す黒い印があり、周囲には湿地、街道、迂回路、集落の跡を示す小さな文字が並んでいる。文字だけなら、どれも静かなものに見える。
ただ、そこへ赤い矢印が何本も刺さっていた。
静かな場所ではない。静かな場所に、これからされるのだ。
「橋は落とさないんですか」
僕が聞くと、文官の目が一度だけ森田さんへ動いた。答えていいのか確認したのではなく、どこまで言うかを預けた動きだった。
森田さんは、地図の端を押さえ直してから言った。
「落とせば早い。でも、落とした橋は後で誰かが直さなければなりません。通行権、復旧費、責任印、全部残ります」
「戦争中でも?」
「戦争中だから、です」
その返事は、卓上の羊皮紙より薄く聞こえたのに、妙に破れなかった。
「橋は残します。渡れる。でも、速くは渡れない。進める。でも、隊列は崩れる。そういう場所にします」
あまり気持ちのいい作戦ではなかった。
敵を止めるための作戦ではある。同時に、敵をそこへ呼び込み、動きにくい場所で長く苦しませる作戦でもある。
戦場を作る、という言い方が一番近い。
僕は青い線を見ながら、昨日の外廊下で聞いた水音を思い出した。雨樋から落ちた水が、石の溝を伝っていた。水は勝手に流れるのに、人はそこへ橋を架け、印を押し、守る線と捨てる線を決める。
面倒な生き物だな。
もちろん、その面倒なものの中に僕もいる。
✶
「ペクワ工兵隊が先に入ります。道路の補修と障害、土嚢、迂回路の誘導。ノクスラ班は夜間観測です。術式標識と魔導灯も入ります。歩兵にはアクセラップ用の小型起動具、術式兵にはマギブレイク用の短杭型機械を最低限。砲兵陣地は主戦場から六から十キロ後方」
文官が読み上げるたび、卓上に小さな木札が置かれていった。
彼の袖口には、古い紙の粉がついていた。木札を置く音は小さいのに、置くたびに顎の筋が少し動く。
工兵、観測、術式、砲兵、救護、補給。
札が増えるほど、そこに人がいることだけが分かりにくくなる。名前ではなく役割になり、顔ではなく配置になる。必要な処理なのだろう。そうしなければ、誰も全体を見られない。
でも、全体を見るために、何かを小さく畳んでいる。
「羽黒くん」
森田さんが僕を見た。
「あなたの位置は、前線ではありません。観測と伝令、撤退線、救護の接続。前線から一・五から三キロ後方です」
「後ろですね」
「後ろです」
そこも、言い換えなかった。
「ただし、安全ではありません」
文官が木札を置きかけたまま止まった。森田さんの声が、少し低くなっていた。
「そこを潰されると、火点がばらばらになります。撤退も遅れる。敵が気づけば、あなたのいる場所を狙います」
狙います。
その言葉だけが、地図室の中で生々しかった。
僕が戦う理由は昨日言った。けれど、戦う場所は線と縮尺で決まり、そこで靴を濡らす人の名前は地図に載らない。
重しへ触れた指が冷えた。手を離しても、しばらく感覚が戻らなかった。
✶
「殿下側の移動に必要な時間は」
僕が聞くと、文官が少し眉を動かした。質問の順番が、たぶん彼の用意した説明と違ったのだと思う。
森田さんは驚かなかった。
「最低半日。できれば一日」
「一日」
「はい」
森田さんの定規が、エザグランマ方面の線で止まった。
「ゴルペホを抜かれれば、敵は半日から一日遅れで、この線へ圧力をかけられます。逆に言えば、こちらが一日縛れば、殿下側は追撃の一番危ない距離から外れる」
勝つ、とは言わなかった。
敵を倒す、とも言わなかった。
六十キロ離れた場所で、一日を買う。そのために橋を残し、人を置き、敵が通りたくなる線をわざと見せる。
分かった、と言えば嘘になる。
でも、何をしようとしているのかは分かった。
「行きます」
森田さんが、ほんの少し息を吸った。
「ありがとうございます」
「礼は違います」
言葉が早く出たせいで、自分でも少し驚いた。
森田さんの手が止まる。文官は木札を持ったまま、測量表を閉じた。
「僕は、森田さんを許したわけじゃありません」
「はい」
「第二王子を守りたいから行くわけでも、王国のために立派なことをしたいわけでもないです」
地図室の外で、誰かが荷箱を運んでいた。木が床に当たる音が、少し遅れて、もう一度響く。
「そこを抜けたら、また誰かが死ぬ。それを止めに行くだけです」
森田さんは、すぐには頷かなかった。
少し間を置いてから、地図の上へ重しを戻した。端が浮かないようにする、ごく普通の動作だった。
「承知しました。命令書には、その理由は書きません」
地図の上には、青い川と、黒い橋と、赤い矢印が残っている。三郷の名前は、どこにも書かれていない。
地図を閉じる前に、僕は橋までの距離だけを手帳へ写した。
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