ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 七章 四節
『印を持つ者は、敵を知る前に味方を数える。』
敵先遣の車影は、夜になる前に低い形を見せた。
川向こうの林から、まず歩兵が出た。橋まで、およそ四百歩。川幅は広くないが、橋へ続く道は一本だけが乾いていて、左右は足を取る草地になっている。
ばらばらではない。草の濃い場所を避け、古い壁の影を拾い、橋へ向かう道を広く取りすぎない。
その後ろから来た車両は、橋脚の影に半分隠れるほどの大きさだった。
ただ、砲身だけが妙に長い。車体の長さに合っていないように見える砲が、林の薄暗さから先に突き出す。履帯の音は、乾いた道に乗ると軽く、湿った斜面に差しかかると急に重くなった。
「歩兵戦車」
ノクスラ班の観測手が、双眼鏡を下ろさずに言った。
声だけだと落ち着いているのに、双眼鏡を支える左手には力が入りすぎていた。革巻きの縁が、指の腹へ白く食い込んでいる。
「帝国式です。小柄ですが、長砲身。油断しないでください」
僕は返事をしなかった。
しないまま、略図の上で赤い木札を二枚置いた。
✶
敵は、橋へまっすぐ来なかった。
まず左へ振れた。湿地側ではなく、古い壁の影へ向かう。橋から見て北西、距離にして百五十歩ほど手前。そこにはこちらが誘導用に残した幅がある。見つけられたなら、もっと早く曲がるはずだった。
先頭の歩兵が止まる前に、後ろの兵が一人、双眼鏡を上げていた。
彼だけが、半歩早い。
歩兵の列が止まる。車両の砲塔が遅れて動く。けれど、その双眼鏡の兵だけは、止まるより前に右手を上げていた。合図が出てから、列が狭まる。
こちらの術式標識そのものではないかもしれない。だが、何かの反応を拾っている。
「魔導式の識別です」
横にいた術式兵が、声を低くした。
「専用の双眼鏡で、味方と標識の反応を見る型があります。全部は読めません。でも、反応がある場所と、ない場所の差は拾われます」
「マギブレイクで消せますか」
「普通の標識なら。あれは、こっちの札じゃなく、向こうの識別具側です」
こちらの文字を消すだけでは足りない。相手がどの反応を拾っているのかを、先に止める必要がある。
僕は推定観測手を見た。
ただの兵に見える。背が高いわけでも、特別な鎧を着ているわけでもない。肩に布が巻かれ、腰の革袋が少し膨らんでいる。持っているものが違うだけだ。
顎に薄い髭が残っていた。双眼鏡を下ろすたび、まばたきが少し多い。遠くから見ているのに、その疲れだけが妙に近く見えた。
持っているものが違うだけで、周りの判断が少し早くなる。
✶
最初の砲声は、こちらではなかった。
長砲身の歩兵戦車が、橋の手前に置いた土嚢列へ砲口を向けた。白い歪みが車体の前で薄く走る。結界か、防護装置か、その区別までは分からない。
砲声が川面に返り、少し遅れて土嚢が崩れた。直撃ではない。土嚢の手前を叩いて、積み方を乱す撃ち方だった。
車体が撃った後に少し沈む。
沈んだ車輪が、次にはもう後ろへ下がっている。
前に出るより、後ろへ戻る方が車両に馴染んで見えるくらいだった。砲煙が流れる前に、車両は古い壁の影へ戻っていく。こちらの砲兵が合わせるには、観測と通信の一往復ぶんだけ遅い。
「撃たせた場所は悪くない」
下士官が言った。
「悪くないだけです。次、同じところを撃たれたら、通れます」
僕は略図を見た。
橋は残っている。土嚢は崩れた。敵はまだ詰まっていない。こちらはまだ、撃つ場所を決めていない。
それなのに、敵は一度、こちらの作りを読み替えた。
推定観測手が、また手を上げた。
✶
魔導通信具の中で、短い符号が鳴った。
ノクスラ班からだった。
「推定観測手、二名追加。車両ごとに一名。歩兵列後方に一名」
伝令が復唱する。言葉になった瞬間、それはただの人ではなくなった。
復唱した伝令は、まだ息を整えきれていなかった。首筋に土がつき、肩の留め紐が片方だけ緩んでいる。けれど、呼称だけは間違えなかった。
推定観測手、という呼称になると、少し軍務の言葉になる。双眼鏡を持った兵、というよりはましだ。ましなだけで、その人がそこにいることは変わらない。
僕は、その言葉を木札の端に書いた。書かなければ、命令が流れない。書けば、誰かがそこを狙う。
喉に残る作業だった。
でも、空欄のまま伝令へ渡すわけにはいかなかった。
「推定観測手を、車両とは別に記録してください。射線が通る場所では、砲ではなく小銃班へ渡す。無理に撃たない。外したら、向こうが隠れます」
言い終えてから、息が少し浅くなった。僕は今、人を役割だけで呼んだ。
たぶん、それは正しい。たぶん、必要だった。
その二つが並ぶと、次の命令までの時間が少し短くなった。
✶
敵の二両目が、橋の正面を避けて右へ振れた。
湿地側だ。
橋の東、杭列まで七十歩ほど。そこを抜かれれば、土嚢列の横へ出られる。
杭の列がある。けれど、上から見れば草が揺れているだけにしか見えない。味方の魔導灯にも、まだ夜ほどは返らない。
推定観測手が止まった。
彼は、車両より先に止まった。片膝をつき、双眼鏡を少し斜めに振る。車両の砲塔が、その動きを追うように湿地側へ向いた。
「見られてる」
僕の声は小さかった。
観測手が、通信具へ符号を送る。
砲兵陣地は、主戦場から六キロ以上後ろだ。ここで僕が赤い札を動かしても、砲弾が来るまでには時間がある。通信が届き、照準が直され、装填が終わる。その間に、前の車両はもう次の動きを始める。
だから、今は砲兵を待てなかった。
「小銃班、青標識三番の後ろ。撃つのは推定観測手。車両はまだ撃たない」
「戦車を撃たないんですか」
伝令が聞き返した。
「撃っても、正面はたぶん抜けません。観測手が下がれば、障害線の確認が遅れます」
自分で言いながら、奥歯に力が入った。
僕は戦車そのものより、戦車に進路を渡している兵を見ていた。
✶
徹甲小銃の音は、砲声より細かった。
細いのに、軽くはない。川沿いの空気をまっすぐ割って、遅れて金属の擦れる音が来た。着弾音は遅れて届いた。
推定観測手が、膝から崩れた。
双眼鏡だけが、草の上に残った。
倒れた兵の手が、一度だけ草を掴んだ。
通信具の筒へ伸びかけて、途中で止まる。任務を続けようとしたのか、痛みで届かなかったのか、ここからは分からない。
倒れた男の頭の上、数字の隣に、細い英字が一瞬だけ立った。崩れかけた土埃に紛れて、すぐ読めなくなる。
読めなかったことに、少しほっとした。読めていたら、たぶん今より重かった。
その瞬間、湿地へ振れていた車両の動きが鈍った。
前へ出るか、戻るか。砲塔だけが少し遅れて動き、履帯が泥を噛む。そこへ、後方の砲兵から一発目が来た。
直撃ではない。
車両の前の泥が跳ね上がり、白い湿り気が視界を塞いだ。結界の表面が、一瞬だけ濁った水面のように揺れる。歩兵が下がり、車両も下がる。だが、下がる先は橋の手前で細くなっている。
敵の列が、少し長く止まった。
その間に、こちらの歩兵が青い標識の後ろへ戻れた。
救護班が、倒れた味方を一人引いた。
敵の二両は、橋の正面にそろわなかった。
こちらの手順は、成立した。
そう思ってしまったことだけが、少し遅れて残った。
今の命令で、こちらの歩兵は戻れた。救護班も、一人を引けた。
その代わりに、向こうの観測手は戻らなかった。
✶
日が完全に落ちるころ、敵は林の影まで下がった。
大きく負けたわけではない。車両は二両とも残っている。歩兵も散っただけで、消えたわけではない。
それでも、推定観測手は一人戻らなかった。もう一人は肩を押さえて下がった。土嚢列を崩した車両は、砲身を林へ向けたまま、前に出るのをやめている。
橋は残っていた。こちらの後退路も、残っていた。僕は略図の推定観測手欄へ、一人戻らず、一人負傷と書いた。
川の音は、暗くなった後も続いていた。
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