ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 七章 五節
『堅きものは速さを誇らず、道を譲らぬことで時を削る。』
夜のあいだに、敵は一度下がった。
完全に退いたわけではない。川向こうの林には、焚き火を隠した赤い点がいくつも残っていた。煙は低く、風のない場所へ押し込まれている。
こちらも眠っていない。
工兵は崩れた土嚢を積み直し、術式兵は短杭の位置を変え、救護班は使った包帯の数を数えていた。救護班の女性兵が、血のついた包帯を木箱へ押し込み、隣の男性兵が新しい包帯を開く。役目の差はあっても、手の速さに男女の線は見えなかった。僕の作業台では、木札だけが少しずつ増えていく。
推定観測手。歩兵戦車。負傷者。
弾薬残。どれも、名前ではなかった。
✶
次に来た車両は、昨日のものと違っていた。
夜明けの灰色の中で、まず低い唸りが聞こえた。履帯の音より先に、車体の中で何かが回っているような音が来る。耳で聞くというより、作業台の板が小さく震える。
ノクスラ班の観測手が、双眼鏡を上げた。
「守護戦車。二両。歩兵随伴あり」
距離は橋まで三百歩を切っている。昨日の長砲身型より、ずっと近い場所で姿を見せた。
昨日の歩兵戦車より、大きく見えた。
大きいが、速くはない。橋へ向かうまでの道を、急がず、止まらず、同じ調子で進んでくる。砲塔の前面は浅く傾いていて、朝の光を薄く弾いた。車体の前には、機関銃の口が一つ見える。
その横を、歩兵が使っている。
車体の影に入り、出て、また入る。歩兵だけなら渡れない空白を、車両が前へ運んでいるようだった。
「昨日と同じ撃ち方は」
僕が言いかけると、下士官が首を振った。
「効きます。ただ、止まりにくい相手です」
止まらない、ではない。
止まりにくい。その言い換え一つで、命令の出し方が変わってくる。
✶
一発目はこちらから撃った。
砲兵陣地からの榴弾が、橋の手前の道へ落ちる。直撃ではない。車両の進路を削り、歩兵を散らすための射撃だった。
土が跳ね、煙が伸びる。
守護戦車の前で、空気が白く歪んだ。
結界だ。
透明な壁があるわけではない。煙が、車体の前で一度だけ押し返される。粉塵の流れが乱れ、音が少し鈍る。
車両は止まった。
止まったが、下がらない。
砲塔がゆっくり動き、車体前方の機関銃がこちらの土嚢列をなぞった。弾は土嚢を削り、石の欠片を跳ね上げる。そこへ隠れていた味方歩兵が、体を低くして後ろへ戻った。
「青標識二番、下げます」
伝令が言った。
僕は略図を見た。青標識二番は、昨日一人を引き戻せた線だ。そこを下げると、橋の手前の見える範囲が少し減る。
減る。
でも、残せば撃たれる。
「下げてください。三番は残す。救護線は古い壁の裏へ半分移動」
「半分ですか」
「全部下げると、橋の西側で拾えません」
伝令は頷いて走った。
僕は、その背中が土嚢の陰に消えるまで見ていた。
✶
守護戦車は、橋を急がなかった。
昨日の車両は、撃って下がった。あれは隙を見せる代わりに、すぐ消える相手だった。
今日の車両は、消えない。
前へ出る。そこで止まる。結界で一発受ける。歩兵が車体の横へ追いつく。機関銃が近づく道を塞ぐ。砲塔が、こちらの土嚢ではなく、その後ろの逃げ道へ向く。
橋前の土嚢列、古い壁、青標識三番。その三つが、一直線に押し潰されていく。
押してくるのではなく、こちらが使える場所を少しずつ減らしてくる。
「前方機関銃、射線固定。三番後退路、頭を出せません」
観測手の声が早くなった。
魔導通信具の符号も増える。ノクスラ班から砲兵へ。砲兵から接続点へ。接続点から救護へ。言葉になる前に、音だけで詰まりが分かる。
「三番が使えないなら、四番へ」
言ってから、四番の先にある窪地を見た。
そこは、雨が残っている。アクセラップ機を作動させても、靴底具が滑るかもしれない。工兵が踏み固めたのは、三番までだ。
「四番は足場が悪いです」
下士官が言った。
「知っています」
声が少し硬くなった。
「三番を抜けるよりは、四番で転ぶ方がまだ戻れます」
そういう言い方しか、今はできなかった。
✶
二発目の砲撃は、車両の前ではなく、横へ落とした。
車両そのものを止めるには足りない。けれど、車体の影を使っていた歩兵が、そこで一度ばらける。
守護戦車の結界がまた白く歪んだ。今度は、歪みが戻るまで少し遅い。
「効いてますか」
伝令が聞いた。
「削れてるね。でも、まだ割れていないから、警戒してね」
僕は双眼鏡を下ろさずに答えた。
結界の揺れは見える。けれど、どれだけ残っているかは分からない。敵の魔導電池がどこにあるのかも、冷却がどれだけ持つのかも、ここからは見えない。
見えるものだけで判断するしかない。
見えないものを、見えているふりはしない。
「小銃班は、結界を撃たない。歩兵が車体から離れた時だけ。徹甲弾は温存してください」
「車両は」
「砲兵に任せます。今は歩兵を車体から離します」
離す、という言葉でも十分に硬かった。
人に使う言葉ではない気がした。
でも、車体の影に歩兵が残れば、こちらの後退路は閉じる。
味方の小銃班が二つに割れた。
一つは橋の石積みへ腹ばいで入り、車体の左側だけを薄く撃つ。もう一つは古い壁の裏へ下がり、救護班が通る低い道を空けたまま銃口を置いた。
結界班は、その間を埋めるように板を低く張る。厚く守るためではない。歩兵が頭を上げる場所を、一つずつ減らすためだ。
戦車の影を切るのは、砲だけではなかった。
✶
敵歩兵が、橋の手前二百歩まで入った。
近い。
双眼鏡越しでは、布の揺れまで見える。泥の跳ねた膝。銃床を押さえる手。車両の低い唸りに合わせて、肩がほんの少し縮む兵。
機関銃がまた鳴った。
青標識三番の前で、味方の一人が転んだ。撃たれたのではない。下がる時に、崩れた土嚢の紐に足を取られた。
救護班が出ようとした。
「待って」
声が出た。
自分で出した声に、少し遅れて気づく。
救護班の一人が、体を止めた。止めてしまった。
機関銃の線が、土嚢の上をもう一度なぞる。石片が飛んだ。今出ていれば、たぶん間に合わなかった。
「煙を入れてから。魔導灯、覆いを外さないで、低く。白ではなく青で」
術式兵が地面に膝をつき、短い詠唱を落とした。
魔導灯の青が、土嚢の下でにじむ。煙と混ざり、足元だけを薄く示す。遠くからは見えにくい。近くにいる味方には、線だけが分かる。
「今」
救護班が走った。
速さより姿勢を低く保つ走りだった。転んだ兵の襟を掴み、もう一人が肩を入れる。
守護戦車の砲塔が、わずかにそちらへ動いた。
「砲兵、車両前方へ。近すぎない。煙だけ増やしてください」
符号が飛び、少し遅れて砲声が来た。泥と煙が、車両と救護班の間へ落ちた。救護班が戻る。
転んだ兵も戻る。僕は息を吐いた。
戻る背中の上、数字の脇に、小さく欠けた英字が浮いた。煙のせいで、半分も読めない。
読めないぶんだけ、まだ何かを疑えた。
吐いてから、手が作業台の縁を強く掴んでいることに気づいた。
戻した。
そう言える。
でも同じ命令の続きで、敵歩兵を車体から離し、小銃班に拾わせた。
戻した人のことも、戻れなくした人のことも、僕は同じ木札にして、同じ作業台に並べてしまうんだ。
今日、僕が動かした木札は、たぶん十を超えている。数えていない。数える余裕がなかった、というより、数えたくなかった。
まだ数えられる。
数えられるうちは大丈夫だと、どこかで勝手に決めようとしている。
それが少し嫌だった。
✶
昼前、敵は橋の正面に居座ったままだった。
突破はしていない。
退いてもいない。
こちらは青標識二番を捨て、三番を半分失い、四番の足場を急いで直している。救護線は古い壁の裏へ移った。砲兵の弾数は、朝より確実に減っている。
守護戦車の一両は、結界の揺れが戻るまで時間がかかるようになった。もう一両は、まだ前にいる。
敵歩兵の損耗も出ていた。車体から離されたところを、小銃班が何度か拾っている。担架代わりの布で引かれていく敵兵も見えた。
それでも、橋の前の圧は消えなかった。敵は、ここを抜く必要がある。こちらは、ここを抜かせない必要がある。
二つの必要が、橋の手前で押し合っている。僕は新しい木札を一つ置いた。守護戦車。
壊せるかではなく、どれだけ前に居座らせないか。
そう書きかけて、やめた。木札には、短く書いた。
橋前固定。現場の言葉にすると、少し乾く。
ただ、乾いたからといって、軽くなるわけではなかった。
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