ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 七章 六節
『退く車輪もまた、次に撃つ場所を選んでいる。』
守護戦車が橋の前に残ったまま、昼の光だけが少し強くなっていった。
路面は乾かない。川沿いの道は、踏まれるほど柔らかくなる。砲撃で跳ねた土が、土嚢の上に乗り、そこへまた靴跡が増える。
こちらの青標識は、午前中で二つ位置を変えた。
動かした標識は、すぐには働かない。術式兵が向きを直し、魔導灯の反応を確かめ、歩兵が実際に通れるかを足で見なければならない。
地図の上では線を少し動かすだけだ。
現地では、濡れた路面を誰かが歩く。
✶
最初に気づいたのは、ノクスラ班だった。
「左の壁裏、車影二。昨日の長砲身型」
魔導通信具の声が、わずかに割れた。
僕は双眼鏡を上げた。
古い壁の向こうに、砲身だけが見えた。昨日と同じ、小柄な車体に長い砲を載せた歩兵戦車だ。車体は壁に隠れているのに、砲身だけが先にこちらを覗いている。
壁裏は橋の北西、こちらの青標識三番から斜めに二百歩ほど。守護戦車の正面圧を受けたまま、そこから撃たれると、逃げ道だけが削られる。
守護戦車が橋前に残り、その横から長砲身型が角度を作る。
正面を押さえながら、斜めから削る。
単純な形だった。
単純だから、厄介だった。
「砲兵、左壁裏へ」
下士官が言いかけた。
「待ってください」
声が先に出た。
昨日の動きを思い出す。撃った後、車体が沈む。煙が残る前に、後ろへ戻る。砲兵が合わせるころには、もう壁の影へ引っ込んでいる。
「そこへ撃っても、戻られます」
「では」
「戻る場所を狭めます」
僕は赤い布片を、古い壁の裏から少し後ろへずらした。
✶
長砲身型の一両目が撃った。
弾は土嚢列ではなく、青標識三番の後ろへ落ちた。直撃ではない。けれど、そこを通る兵が頭を上げられなくなる場所だった。
砲声の後、車体が沈む。
そして、後ろへ戻る。
分かっていても速かった。前へ出る時より、戻る時の方が迷いがない。履帯が轍を深くし、壁の影へ車体が吸い込まれていく。
「後退、速いです」
伝令が言った。
「見えています」
少し硬い返事になった。
見えているから困る。
見えていても、砲弾はすぐには届かない。
「砲兵は壁裏を撃たない。壁裏の後ろ、細い道の出口へ。路面を崩すだけでいいです」
「出口ですか」
「戻る時にそこを通ります」
倒すための射撃ではない。
戻る場所を悪くするための射撃だ。
✶
砲兵の一発目は、長砲身型の後ろへ落ちた。
遠い。
外れたように見えた。
けれど、細い道の出口で土が持ち上がり、そこへ雨水が混ざった。戻った車両は止まらなかったが、履帯音が一段重くなる。壁裏へ入る角度が、ほんの少し浅くなった。
ほんの少し。
その少しで、砲身の先が壁から出たまま残る。
「推定観測手、左壁裏に一名」
ノクスラ班から報告が入った。
「記録。小銃班へは渡さない。今は撃たないでください」
下士官がこちらを見た。
「観測手を落とせば、遅れます」
「分かっています」
返事だけはすぐに出た。
だから今は撃たない。
昨日、推定観測手を止めれば敵が遅れると知った。知ったことを、今日も使える。
でも、今撃てば、向こうは壁裏の人員を下げる。下げられたら、次に出てくる位置が変わる。こちらが荒らした出口を、使わなくなる。
「もう一度撃たせよう。砲身が残った瞬間に、壁際の石を崩してくれるかい?」
言いながら、口の中が乾いた。撃たせる。誰かが撃たれるかもしれない場所を残す。
その言葉を、僕は作戦として言った。誰も止めなかった。
たぶん、止めるほど間違っていなかったからだ。
それが、いちばん喉に残った。
✶
二両目が出た。
一両目より少し右。守護戦車の車体の影に、砲身だけを重ねるような位置だった。
橋、守護戦車、長砲身型。三つの線が、こちらの青三番の後ろで重なる。
長砲身砲は、近くで見るほど扱いづらそうに見える。砲口がわずかに上下し、車体が止まってからも、照準が落ち着くまで短い間がある。
その間に、推定観測手が片手を上げた。
双眼鏡越しに、推定観測手の数字がまた滲んだ。今度は、隅に見慣れない三文字が浮きかけて、風の音に紛れるみたいに欠けた。
欠けたまま、僕はそれを追わなかった。追えば、次の判断が遅れる気がした。
撃つ。
その数字を、欄の端に書いた。
「青三番、伏せ。救護は出ない。四番はまだ動かさない」
伝令が復唱する前に、砲声が来た。
弾は青三番の後ろを叩いた。昨日崩した土嚢の端がさらに崩れ、濡れた土が壁に飛ぶ。伏せていた兵の背中に土がかかった。
負傷者は、出た。だが、列は切れなかった。
長砲身型が下がる。さっき砲兵が崩した出口へ、また戻る。
「今。壁際の石」
僕が言うと、符号が飛んだ。
砲兵ではない。橋手前の小型投射器だ。工兵が午前中に置いた、石壁を崩すための小さな筒。
重い音がして、古い壁の端が砕けた。
車両には当たっていない。
けれど、戻った長砲身型の左側へ石が落ち、履帯の外側に積もった。車体は止まらない。止まらないが、次に前へ出るには、同じ角度を使いにくい。
砲身が、壁の向こうで少し迷う。
それで足りた。
✶
守護戦車はまだ橋前にいる。
その前提は変わらない。
ただ、左壁裏の長砲身型は、撃つ位置を一つ失った。もう一両は、荒れた出口を避けるために大きく下がり、再び出るまでの時間が伸びた。
その間に、こちらは青標識三番を完全に捨て、四番の足場を直した。
靴底具が滑らず、小型起動具の力を踏み込みへ返せるように、工兵が板を沈める。アクセラップ機を使う兵は、そこを通れば一歩だけ体勢を戻しやすい。魔法機械そのものを地面に置いているわけではない。けれど、足場が悪ければ、その一歩も出ない。
「三番、閉鎖確認」
「四番、仮復旧」
「救護線、古い壁裏へ移動完了」
報告が続く。僕は、それを略図に書いた。青三番、閉鎖。
四番、仮。左壁裏、射撃角制限。
文字にすると、短い。その短さが、少し怖かった。
✶
午後の初め、敵はもう一度だけ長砲身型を出した。
今度は、撃たなかった。
砲身を出し、こちらの土嚢列を探るように動かして、すぐに下がる。推定観測手も短く合図を出しただけだった。
こちらの砲兵も撃たない。撃たなければ、弾は減らない。撃たなければ、敵も無理をしない。
ただ、時間だけが減っていく。それでよかった。
そう思うのに、胸の奥は軽くならなかった。足止めは、華々しい勝利ではない。
敵を止めた数分のぶんだけ、こちらの誰かが濡れた道にいる。
向こうの誰かも、同じ道にいる。僕は新しい木札を置いた。後退射撃。
壊す相手ではなく、戻る場所を奪う相手。そこまで書いて、鉛筆を止めた。
言葉にすればするほど、少しずつ慣れていく。
慣れたくないと思う場所から、先に慣れていく。
川の音は、昼になっても変わらなかった。
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