ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 七章 七節
『重きものは地を鳴らし、聞いた者の足から余白を奪う。』
午後の湿った空気の中で、最初に変わったのは音だった。
砲声ではない。
履帯でもない。
もっと高く、もっと細い。
それでいて、机の脚を下から押すような重さがあった。
地図台の上で、赤い木片の端が震えた。
それを縁へ寄せたあとで、その動作が少し早すぎたことに気づいた。
「新規車両音、北東側」
通信具の声に、細い揺れが混じった。
受話管を持っている通信兵は、唇だけで復唱していた。声に出す前に一度、口の中で言葉を並べる癖があるらしい。
「方位、黒松林の切れ目。前方の守護戦車二両、左右に開きます」
守護戦車が道を譲った。
その報告だけで、周囲の何人かが顔を上げた。
遅い車両は、普通なら前に出ない。
出るなら、前に出すだけの理由がある。
「大きさは」
「既存守護戦車より大。砲塔高、やや上。車体幅も広いです」
僕は略図の北東に、まだ何も書かれていない場所を見た。
そこには、さっきまで守護戦車と歩兵の圧があった。
今は、その圧が左右へ割れている。
橋前から北東林までは三百歩ほど。六番仮の先、まだこちらの足場が固まっていない側だ。
水が岩を避けるのではなく、岩のために水路が作られていくように。
そう書きそうになって、鉛筆を止めた。比喩で済ませるには、地図の端で動いた赤い札が重すぎた。
車両が動き、その後ろで歩兵の点もずれた。向こうの指揮官は、橋ではなくこちらの砲列を見に来ている。
「北東車両、仮称」
僕は赤い板を一枚取った。
書く言葉を少し迷ってから、墨を落とした。
大型突破車。
この一枚で、赤い板は九枚になった。九人分でも、九部隊分でもない。ただの印だと分かっていても、板が増えるたび、掌の中で重さも増えた気がした。
✶
大型突破車は、姿を見せる前から場所を取った。
黒松林の奥で、枝が左右に揺れる。
湿地の水面が細かく波立つ。
うちの砲兵が撃った一発は、車両の前ではなく、その手前の路面に落ちた。
土が上がる。
濡れた土は、乾いた土よりも長く空に残らない。
落ちた土の向こうに、車体の前半分が出た。
守護戦車より低くはない。
けれど、ただ背が高いというより、幅の分だけ圧が違った。
砲塔は大きく、車体の中央に、白い筋のような揺らぎが走っている。
「着弾、効果不明」
「不明ではなく、受けられています」
声に出すと、舌の裏が乾いた。
「前面だけじゃない。車体中央から受けています。次、左右に散らしてください」
「了解。第二砲列、左右散布」
砲撃が続いた。一発目は車体の左前方で泥を跳ね上げ、二発目は湿地の杭列の少し外で水を割った。
三発目だけが、車両と歩兵の間へ低く入る。
白い揺らぎは、前面で一度膨らみ、車体の中央に戻った。
盾を前に構えているというより、車両の中にある何かが、受ける場所を引き寄せている。
「結界発生源、中央付近の可能性」
ノクスラ班から報告が入る。
「車体下部、変速機箱の上あたりに白濁あり。砲弾の破片、そこで流れます」
「記録。まだ狙わない」
「狙わないんですか」
「届かないです。今撃てば、向こうに位置を渡すだけです」
答えたあとで、舌の裏が乾いた。
「言い方、冷たいですか」
受話管の横にいた通信兵が、少し目を上げた。
「冷たいですが、分かります」
「なら、今はそれでお願いします。あとで温め直します」
「命令をですか」
「できればお茶を」
通信兵は、声を出さずに一度だけ息を漏らした。それで復唱の声が、ほんの少し戻った。
届かないものを届かないと言うのは、必要な判断だ。
でも、その判断の向こうで、誰かが少しずつ押し下げられる。
必要だと思うたびに、僕は人のいる場所を線として置く手順に慣れていく。
慣れていくことを、喜べない。
✶
大型突破車は速くなかった。
速くないから、止められるわけでもなかった。
前進は一歩ずつだった。
その一歩ごとに、湿地の杭が折れ、土嚢の脇が崩れ、こちらが作った通りにくい場所が、ただ狭いだけの場所へ変わっていく。
後ろにいた歩兵は、車体の幅に隠れて進んだ。
上から見れば、きっと簡単な形だ。重いものを前に置き、軽いものを後ろに置く。
前のものが受け、後ろのものが詰める。それだけで、略図の印は一つずつ古くなる。
「三番仮、放棄準備」
地図台の印を一つ、後ろへ送った。
「四番仮へ移る前に、救護線を半町下げます。担架班は先に動かしてください」
「負傷者がまだ」
「だから先です」
言ってから、息を止めた。誰かを急がせる言葉は声が強くなりやすく、強い声はたいてい正しいように聞こえる。
その聞こえ方が、今の僕には少し頼りなかった。
「三番仮の弾薬箱は」
「小銃弾だけ回収。重い箱は捨てます」
「確認します。徹甲小銃弾、残り二箱」
「一箱でいいです。もう一箱は燃やせるなら燃やしてください。無理なら泥へ」
地図の上では、箱は点だった。
現地では、二人が息を切らして抱える重さだ。その重さを捨てろと言った。装薬を抱えたままでは担架が遅れるし、遅れた担架は次の砲声に追いつかれる。
僕はそこまでを一息で計算して、計算できた自分の舌を口の中で噛んだ。
✶
大型突破車の主砲が動いた。
砲身の短さだけを見れば、守護戦車と同じ系統に見える。
けれど、車体が重いぶん、砲塔の揺れが少ない。
照準のために止まる時間も短かった。
「伏せ」
通信具の向こうで、誰かが先に叫んだ。
砲声。
低い音が遅れて、作業台の縁を震わせた。
四番仮の手前、こちらが残した石積みが崩れた。
石そのものを狙ったのではない。
そこを通る人の足を狭めるための射撃だった。
こちらが相手の進路を狭めたように、向こうもこちらの戻る場所を狭めてくる。
「四番仮、到達前に崩れます」
「五番仮へ直接」
「間が空きます」
地図の四番と五番の間には、指一本ぶんの空白があった。現地なら、煙のない道を一個班が走る距離になる。
「煙を使います。ペクワ班、南側の乾いた枝、燃やせますか」
「燃やせます。ただ、風が北です」
「煙は味方にもかかります」
当たり前の返事だった。通信具の向こうで、誰かが咳をしたような雑音が混じる。
煙は人を選ばない。それでも敵の視線を切れば、担架の足が少し伸びる。その代わり、うちの推定観測手も見にくくなる。
「使ってください。長くは要りません。三分でいい」
「了解」
魔導式の着火具が使われたという報告が続いた。
森の下草と乾いた枝が、湿った白煙を吐く。
煙はきれいに広がらなかった。湿った枝を燃やした匂いが鼻へ残り、喉の奥がざらつく。
それでも、人を隠すには足りていた。足りたものは使う、と僕はまた書類の言葉に逃げかけた。
✶
大型突破車は煙の中でも止まらなかった。
完全に見えているわけではない。
けれど、車体の音が位置を残す。
高い共鳴音の下に、低い震えがある。
二つの音が重なるたびに、地面のどこかで水が跳ねた。
双発。
誰かが通信具の向こうで言った。
たぶん、工兵か整備兵だ。
声は若くなかった。息の間に油を吸った布みたいなざらつきがあって、車両を見ているというより、音を手で触っている人の声だった。
「動力二基。片方だけでも進める型です」
「確定ですか」
「確定ではありません。ただ、音が二重です。片側の回転が落ちても、もう片方が残っています」
僕は大型突破車の印の下に小さく二重線を引き、横へ双発、中央結界、重装甲、前後進同速に近い可能性と並べた。
紙の上に言葉を置くほど、相手がはっきりしていく。
はっきりした相手は、倒しやすくなる。
そう習った。
でも、はっきりしたからといって、倒せるとは限らない。
「右に振ります」
推定観測手の報告。
「大型突破車、こちらの煙を避けず、橋梁線の古い側道へ」
「側道は弱いはずです」
「沈みません」
沈まない。
その一言で、工兵下士官が低く舌を鳴らした。
彼の頬には、朝からついたままの泥が乾いていた。目だけが、杭列のあった場所から離れない。
「履帯幅が広い。杭が浅かったんです」
「浅かったのではなく、相手が重すぎるんだと思います」
責める言葉に聞こえないよう、少し声を落とした。
誰かの作業を責めるための言葉にしたくなかった。
ペクワ班は短い時間で、できるだけのことをした。
それでも足りないものが出る。
戦場は、そういう場所だ。
そういう場所だ。それでも、足りなかった分だけ、誰かの背中が見えなくなる。
✶
大型突破車の後ろから歩兵が散り、そのうち三人が煙の端で膝をついた。
徹甲小銃ではない。脚を置いた重機関銃から、十ミリではなく二十ミリ側の音が来る。
最初の射撃で、五番仮の土嚢の上が削れた。弾は多くないぶん、一発ごとに場所を選んでいる。
「五番仮、頭を出さないでください。撃ち返すのは小銃班二名だけ」
「二名で足りますか」
「足りません。足りないから、残りは下げます」
口にした瞬間、胸の下あたりが重くなった。
足りないから下げるし、守るために下げる。
でも、下げたぶん、残る二名に寄る。
それを分けるのが指揮だと言われれば、そうなのだろう。
僕はその言葉を、今は好きになれなかった。
「小銃班、徹甲弾を使い切らないで。通常弾で脚を散らすだけでいいです」
「車両は」
「今は車両を見ない。歩兵を伏せさせます」
大型突破車を止めたい。
止めたいから、後ろの歩兵を止める。
回りくどい。
でも、正面の厚いものへ全てを投げるより、薄い場所から詰まりを作るほうが、まだ手が残る。
五番仮の左右で、味方の歩兵が低く動いた。
片方は通常弾を二発ずつ撃ち、敵の重機関銃手に脚を置かせない。もう片方は撃たずに、救護線へ続く溝の口だけを守っている。
結界班は土嚢の上を守らなかった。
板を膝の高さへ寄せ、跳ねた石と破片だけを受ける。白い面が濁るたび、後ろの兵が半歩ずつ場所を入れ替えた。
大型突破車は前へ来る。
その周りの人間を、少しずつ不自由にする。
重機関銃の二射目が来た。
五番仮の土嚢が崩れ、その後ろの兵が肩から落ちた。
数字が下がる。
下がる数字の脇に、欠けた英字がちらついた。HかPか、判別する前に煙へ溶けた。
分からないままでよかった。分かれば、たぶんもっと早く諦めていた。
倒れた兵は、片手で土嚢の紐を掴んだままだった。離せば下がれるのに、指だけがまだ仕事を続けている。
ゼロではない。
ゼロではないから、救護が要る。
「五番仮、負傷一。担架は出さない。本人が動けるなら、膝で下がらせて」
雑な言い方だった。
でも、担架を出せば、担架の二人も撃たれる。
本人が動けるなら、本人に動いてもらうしかない。
僕はその報告を略図に書いた。
負傷一、後退自力。
文字にすると軽くなる。軽くしてはいけないのに、軽くしないと次の札が置けない。
✶
大型突破車は、五番仮の前で一度止まった。
止まったというより、音の高さがわずかにずれた。
片側の回転が落ちたのか、操縦手が向きを直したのか。
車体の中央にあった白い揺らぎが、少し前へ出る。
その瞬間、砲兵の一発が出た。命令より早い、現地の判断だった。
砲弾は車体の斜め前、結界の縁に触れた。
白い揺らぎが裂けるように広がり、すぐ戻る。車体は止まらなかったが、砲塔の向きだけが変わった。
「砲兵位置、割れました」
通信具の声が硬くなった。
「第二砲列、移動準備」
「準備ではなく、移動。今すぐ」
「装薬が残っています」
「捨ててください」
また捨てろと言った。
弾薬、装薬、土嚢、箱、橋。捨てるものが、少しずつ人に近づいている。
いつか、人を捨てろと言うのではないか。そう思った瞬間、喉の奥が細く鳴った。
僕はまだ、言っていない。まだ言っていないだけだ。
「第二砲列、移動します」
「ありがとう」
礼を言う場所ではない。それでも言った。
言わなければただの駒になってしまうし、言っても駒として動かしている事実は消えない。
そこに差があるのか、僕にはまだ分からない。
✶
大型突破車の砲撃が、第二砲列の旧位置へ落ちた。少し遅れていたから、人は残らなかった。
残らなかったが、砲架の一つが壊れた。
砲架は直せる。砲兵は戻らない。
そんな簡単な順番を、僕はもう何度も見ている。
「砲兵、損害軽微」
記録係が言った。
記録係は、言った後で一度だけ唇を結んだ。筆先は止めなかった。止めると、次の報告が詰まるからだ。
軽微。
その言葉が必要なことは分かる。
でも、壊れた砲架の横で誰かが膝をついていたら、軽微という言葉はどう見えるのだろう。
僕はそれを考えそうになって、やめた。今は考える順番ではない。
順番を後ろへ送ったものほど、夜になって戻ってくることも、もう知っている。
「大型突破車、五番仮を越えます」
「六番仮へ」
「六番仮は未完成です」
「知っています」
知っていて、そこへ送る。杭の足りない線へ、名前のある兵を置く。
完成を待っていたら、相手の車体が先に来る。
「六番仮、完成部分だけ使います。未完成側には入らない。左の畦を空けてください」
「そこを空けると抜けられます」
「抜けさせます。速くは抜けられない」
自分で言ったあと、少し前の話の言葉が戻ってきた。
通れるが、速くは渡れない。橋で使った考えを、またここでも使っている。
効くうちは同じ手を使うしかない。効かなくなった時、そこにいる人間ごと折れる。
✶
夕方に近づくにつれて、共鳴音は地面の音に混ざった。
最初ほど目立たない。
耳が慣れたのではない。
戦場のほうが、その音を含む形に変わっていった。
大型突破車は、橋梁線を突破したわけではない。
五番仮を越え、六番仮の手前で、歩兵と一緒に止まっている。
こちらの砲兵も、まだ残っている。
推定観測手も、全員が黙ったわけではない。
それでも、午前にあった地図はもう使えなかった。
赤い印は二列分後ろへ下がり、青い印は救護線の近くまで寄っている。
白い木片は、もう置く場所が少ない。
「接続点からの発信、増えています」
通信兵が言った。
額に貼りついた髪が、汗で色を変えていた。彼は受信紙をめくるたび、指先を服の脇で拭った。
「こちらですか」
「はい。命令、修正、救護、砲兵移動。短い発信が続いています」
僕は地図台の端に置いた受信用の紙を見た。
そこには、僕が出した命令の数が並んでいる。
数だけなら、仕事をしたように見える。
でも、命令が多いということは、それだけこちらが乱されたということでもある。
「向こうにも拾われますか」
「可能性はあります。魔導通信の漏れだけでなく、伝令の走り方も見られているかもしれません」
僕は返事をしなかった。
返事の代わりに、後方接続点の黒い印を少し見た。
ここは、戦場ではない。
少なくとも、朝はそういう場所だった。
砲弾の線から外れていて、救護と伝令と記録を束ねる場所。
人を前へ送るためではなく、戻ってくる道を残すための場所。
でも、向こうがこの場所の意味に気づけば、話は変わる。
大型突破車は、線を押した。
その結果、僕らの声が増えた。
声が増えれば、声の出どころが残る。
「発信を半分にします」
「半分ですか」
「重なる報告は一つにします。記録係、命令文を短くしてください。伝令は一人ずつ出さない。三件まとめます」
「遅れます」
「遅らせます」
早くすれば見つかり、遅くすれば間に合わないことが出る。その間を取る。
それが、今日は何度目か分からなかった。
✶
日が傾く前に、ノクスラ班から最後の報告が来た。
「北東林内、車両ではない動きがあります」
「歩兵ですか」
「歩兵にしては間隔が広いです。三、もしくは四。護衛が周囲に散っています」
僕は赤い板を取らなかった。
まだ略図へ置けるほど、情報がない。
ただ、指先だけが墨の近くで止まった。
「装備は」
「不明。ひとり、結界の反応あり。大型突破車の後方ではなく、こちら側の発信方向へ寄っています」
周囲の空気が、少し静かになった。
大型突破車が押した線の向こうから、今度は人が来る。
車両では届かない場所へ。
砲では細かすぎる場所へ。
こちらが何を束ねているかを、確かめるために。
「六番仮には知らせないでください」
「知らせないんですか」
「知らせれば、そっちの動きが変わります。変わったら、ここが見つかる」
言ったあとで、胸の下に残っていた重さがまた増えた。
守るために、知らせない。
止めるために、黙らせる。
そういう言葉ばかり増えていく。
「こちらで受けます」
僕は、後方接続点の黒印の横に、小さな点を三つ置いた。
まだ、名前はない。
でも、もう戦場の外ではなかった。
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