ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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七章九話 戻らなかった手

《王録》 七章 九節

『戻る道を測る者は、戻らぬ足跡の数も知る。』

 

 襲撃の後始末は、戦闘より長かった。

 

 壊れた通信台を予備線につなぎ替え、土嚢列の薬莢を拾い、血のついた包帯を焼く。火は小さく、匂いだけがやけに強かった。

 

 橋梁線の前では、まだ砲声が続いている。

 

 ここは後方接続点で、前線ではない。

 

 そのはずなのに、土の上には人が倒れた跡が残っていた。靴の滑った線。膝をついたくぼみ。誰かが手をついた場所だけ、泥が五本に割れている。

 

 獣ではない。

 

 魔物でもない。

 

 手の形だった。

 

 

 死亡確認は、少し遅れて来た。

 

 北東林へ下がった杖持ちの一人が、林内の浅い溝で見つかったらしい。水車小屋からの十ミリ弾が太腿の内側へ入り、護衛が止血を試みた跡があった、と報告された。

 

 止血帯には、帝国軍の布ではなく、私物のスカーフが使われていた。

 

 色は褪せた青。

 

 端に、手縫いの目が残っていた。

 

 報告兵は、それを戦利品袋へ入れて持ってきた。まだ若い兵だった。鼻の下に泥がついていて、本人は気づいていない。袋を持つ両手だけが、やけに丁寧だった。

 

「敵支援一、死亡確認。杖術兵と思われます」

 

「杖術兵」

 

 僕が繰り返すと、報告兵は頷いた。

 

「はい。結界補助具、折損。兵籍札あり。文字は帝国式です」

 

 袋の中に、薄い金属札があった。文字は読めない。読めないのに、名前だと分かった。

 

 番号ではなかった。呼ばれるためのものだった。

 

 

 記録係が、損害表を差し出した。味方負傷三。通信器材一、破損。

 

 敵捕縛一。敵死亡一。敵後退二以上。

 

 そこまでは、字で読めた。その下に、確認欄があった。戦果原因。

 

 水車小屋火点。指揮者。僕の名前を書く場所だった。

 

 今日一日で、僕の名前が入る欄は、これで四つ目だった。四つとも、内容は違う。重さは同じだった。

 

 羽黒承。書けば終わる。書かなければ、誰かが困る。

 

 報告書は、人が困らないように作られている。死んだ人間以外が困らないように。

 

 僕はペンを持った。

 

 指先に、さっき抜いた三発目の重さが残っている。撃たなかった弾の重さだ。撃たなかった弾の方が、撃った命令より軽いはずだった。

 

 逆だった。

 

 名前を書いた。

 

 線が少し曲がった。

 

「確認しました」

 

 声は出た。

 

 声が出たから、仕事は続いた。

 

 

 捕縛した中英雄級の男は、救護天幕の外側に寝かされていた。

 

 敵兵にも包帯は使われる。

 

 当たり前だ。

 

 当たり前のことに、少し遅れて腹が重くなる。

 

 男の顎の傷は、近くで見ると古い火傷の跡だった。髭は短く刈られている。耳の後ろに汗が乾いて白くなっていた。鎧の下の布は、何度も洗われて薄くなっている。

 

 仕事の顔で殺しに来た人間。

 

 仕事の途中で倒された人間。

 

 顎の火傷跡は同じ場所にある。

 

 違ったのは、剣を握っていた手が、もう何も握っていないことだけだった。

 

 下士官が横に立った。左腕には包帯。裂けた革手袋は、まだ外していない。

 

「准尉、尋問班へ引き渡します」

 

「はい」

 

「生かして捕ったのは大きいです」

 

 彼は事実を言った。

 

 僕も、それが大きいことは分かる。敵の術式、経路、指揮系統。聞けることはいくらでもある。

 

 でも、僕の耳には、別の報告が残っていた。敵死亡一。

 

 水車小屋火点。指揮者、羽黒承。

 

「杖術兵の遺体は」

 

「回収班が処理します」

 

「処理」

 

 下士官は、短く息を吐いた。

 

「埋葬できる形にします」

 

 言い直してくれた。

 

 その言い直しで、少しましになった。

 

 ましになったことが、また嫌だった。

 

 

 桜華さんのいる救護分室へ行ったのは、夕方だった。

 

 行く予定ではなかった。

 

 通信線の予備を確認して、弾薬箱の残数を見て、捕虜の護送経路を書いて、そのまま次の命令を待つはずだった。

 

 でも、救護兵に呼ばれた。

 

「高橋桜華が、少し意識を戻しました」

 

 名前を聞いた瞬間、報告書の文字が頭から落ちた。

 

 救護分室は、布で仕切られた小さな場所だった。薬草の匂いが薄く、代わりに煮沸した水と濡れた包帯の匂いがした。外の砲声は、布越しに丸くなっている。

 

 桜華さんは、寝台の上にいた。

 

 顔色は紙みたいに薄い。

 

 髪は短く切られていた。燃えた部分を落としたのだと思う。いつもの、廊下の向こうから人を呼ぶ明るさは、声より先に来なかった。

 

 それでも目は開いていた。

 

「羽黒くん」

 

 声は、細かった。

 

 でも、桜華さんの声だった。

 

 それだけで、胸の奥が変な動きをした。

 

 視線を上げた時、桜華さんの頭上の数字がひどく揺れていた。精神の文字の隣に、欠けた英字が滲んでは消える。SANという形に見えた気もするが、確信は持てない。

 

 自分の目が信じられなかった。今は、信じたくなかった。

 

「起きて、大丈夫なんですか」

 

「大丈夫では、ないらしいよ」

 

 冗談にしようとして、途中で息が切れた。

 

 桜華さんは笑わなかった。笑えなかったのかもしれない。唇の端だけが少し動き、すぐ戻った。

 

「私、また迷惑かけた?」

 

「迷惑ではないです」

 

「その返し、羽黒くんっぽい」

 

 少し前なら、そこで彼女は笑ったと思う。

 

 不老不死なんて便利そうだよね、と自分で軽く言って、周りを困らせる。そういうことをする人だった。怖さを、軽い言葉の形にして先に投げる人だった。

 

 今は、投げる力がなかった。

 

 

 僕は寝台の横に立ったままだった。

 

 椅子はあった。

 

 座らなかった。

 

 手袋に、まだ火薬の匂いが残っている気がした。洗ったはずだ。実際には、薬草と鉄と煙が混ざっていて、どれがどれか分からない。

 

「羽黒くん」

 

「はい」

 

「なんか、遠い」

 

 桜華さんは、布団の上で指を動かした。

 

 指先は細い。

 

 爪の色が薄い。

 

 その手を見た瞬間、泥に残った五本の跡が頭に戻った。

 

 敵の手。桜華さんの手。同じ形をしていた。

 

 当たり前だ。人間なのだから。

 

「今日、敵が来ました」

 

「うん」

 

「撃退しました」

 

「うん」

 

「一人、死にました」

 

 そこまで言って、言葉が止まった。

 

 桜華さんは、目を閉じなかった。

 

 僕の方を見ている。見えているのか、焦点が合っているのかは分からない。でも、逃げる場所がなかった。

 

「僕が、撃たせました」

 

 言うと、体の内側が少し冷えた。

 

 桜華さんは、すぐには答えなかった。呼吸が浅い。胸の布が、小さく上下する。

 

「人?」

 

「はい」

 

「魔物じゃなくて」

 

「はい」

 

「名前、あった?」

 

 読めなかった兵籍札を思い出した。

 

「ありました。読めませんでした」

 

「そっか」

 

 それだけだった。責められなかった。

 

 慰められもしなかった。その方が、逃げにくかった。

 

 

 桜華さんは、ゆっくり息を吸った。

 

「私さ」

 

「はい」

 

「死ねなかったんだよね」

 

 その言い方は、確認に近かった。

 

 僕は頷いた。

 

「はい」

 

「羽黒くんが、拾ったんだ」

 

「拾った、というか」

 

「拾ったんでしょ」

 

 声は弱いのに、そこだけ少し桜華さんだった。

 

 僕は言い返せなかった。小瓶。布。

 

 低い生命。死ねなかった人。

 

 死なせた人。同じ日に、その二つが僕の前に置かれた。

 

「私のこと、助けたって思えない?」

 

「分かりません」

 

「じゃあ、今日の人のことも、まだ分からないままでいいんじゃない」

 

 桜華さんの声はそこで途切れた。

 

 救護兵が近づきかけたが、彼女は小さく首を振った。

 

「分からないまま、忘れないで」

 

 それは慰めではなかった。

 

 命令でもない。

 

 ただ、彼女の息の残りで作られた言葉だった。

 

 僕は、はい、と言おうとした。

 

 声にならなかった。

 

 

 救護分室を出ると、外は暗くなりかけていた。

 

 橋梁線の方角で、また砲が鳴る。

 

 遅れて、地面が薄く震えた。

 

 伝令が走ってきて、僕に命令書を渡した。次の配置換え。北西側の排水路へ、予備弾薬を半分回す。敵の砲兵が射角を変えたらしい。

 

 仕事は止まらない。

 

 死んだ人間の名前が読めなくても。

 

 桜華さんが、死ねなかったまま寝台にいても。

 

 僕の手が、まだ手の形を覚えていても。止まらない。僕は命令書を開いた。

 

 北西排水路まで、ここから六百歩。途中に泥の浅い場所が二つ。

 

 弾薬箱は、十ミリが四箱、徹甲小銃弾が七箱。

 

 数えられる。数えられることが、便利だった。便利だから、吐き気がした。

 

 僕は一度だけ、手袋を外した。掌には、銃床の刻印の跡が薄く残っていた。人を殺した印ではない。

 

 ただの圧痕だ。それでも、しばらく消えなかった。

 

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