ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 七章 十節
『余された箱は、まだ使われぬ命の重さで沈む。』
北西排水路へ弾薬を回す命令は、短かった。十ミリ弾、四箱。徹甲小銃弾、七箱。
護衛二名。伝令一名。それだけ。
それだけなのに、命令書の端が湿っていた。僕の手袋が濡れていたのか、伝令が走る途中で雨に当たったのか、分からない。
北西排水路は、接続点から六百歩ほど先にある。幅は荷車一台分。両側は低い土手で、右側だけ水が溜まりやすい。敵砲兵が射角を変えるなら、そこを抜け道にする可能性がある。
使われる前に塞ぐ。
その判断で、また誰かの背嚢が一つ重くなる。
✶
「十ミリ、六箱にしてください」
言ってから、地図の上の札の多さが目に入った。
補給兵がこちらを見た。
彼は小柄で、首元に巻いた布が片側だけ焦げていた。さっきまで薬莢回収に出ていた兵だ。右の頬に黒い粉が残っている。
「命令書は四箱です」
「六箱」
「准尉」
「足りなくなるより、余る方がましです」
声が、少し高かった。
周囲の作業音が、そこで一度だけ遅れた。箱を持ち上げる音。革紐を締める音。誰も止まっていないのに、僕の耳だけが止まったように聞こえた。
補給兵は反論しなかった。
補給兵の顎が、ほんの少し下がった。
首元の焦げた布が、革襟の内側へ押し込まれる。返事の代わりに、彼は六箱目の縄へ手を伸ばした。
「……すみません。今のは取り消し」
僕は命令書をもう一度見た。四箱。七箱。
護衛二名。伝令一名。
「十ミリは四箱。徹甲小銃弾は七箱。予備の冷却液を一本だけ追加。排水路の入口に置かず、二番土手の陰へ」
補給兵は、そこで初めて小さく頷いた。
「承知しました」
承知しました、で済んだ。
済んでしまった。
✶
澄人が、赤布を畳んでいた。
さっきまで火点の生死を示していた布だ。倒したら戻った合図。倒れなければ、まだそこにいる合図。
布は濡れて、色が少し暗くなっている。
澄人は一枚ずつ畳んで、紐でくくっていた。几帳面というより、他のことを考えないために手順を守っているように見えた。
「澄人」
「はい」
「さっき、荷札板を投げたのは」
「勝手にしました」
「怒ってるわけじゃない」
濡れた布の角から、水が一滴落ちた。澄人はそれを拭かない。
「怒ってもいいです」
澄人は布を膝の上に置いた。
顔を上げるまでに、少し時間がかかった。目の下が赤い。泣いた赤さではない。煙と眠気と、たぶん別のものが混ざっている。
「僕、あれで撃たれたかもしれません」
「はい」
「でも、投げなかったら先輩が撃たれてました」
先輩。
その呼び方は、学校の廊下に少し似ていた。
文化祭の準備で、余ったガムテープを抱えて走っていた後輩が、こっちを見て「先輩、これどこですか」と聞いた時の声。あの時の澄人は、こんな顔をしていなかった。
「次は、僕の合図を待ってくれるかな」
「待ってたら間に合いません」
澄人は、すぐに言った。
言ってから、唇を噛んだ。
「すみません」
「いや」
違う。
謝らせる話ではない。
僕が言いたかったのは、安全確認だ。伝令系統だ。勝手な行動は事故になる。全部、正しい。
でも、口の中に残ったのは別の言葉だった。死なないでくれ。
それは命令ではない。だから言えなかった。
「次は、投げる前に僕の名前を呼んで。一秒でいいから」
「はい」
「その一秒で、僕が下がるよ」
澄人は、少し困った顔をした。
「下がってくれるんですか」
返事に詰まった。
それが答えだった。
✶
北西排水路へ向かう途中、雨がまた細く降り始めた。
荷車の車輪が、浅い泥を押して進む。四箱の十ミリ弾は重い。七箱の徹甲小銃弾は、それより小さいのに、持つ兵の顔を同じくらい硬くする。
六箱にしなくてよかった。
六箱あれば、もっと撃てた。
もっと撃てれば、誰かが戻れたかもしれない。
もっと撃てれば、誰かを戻さずに済んだかもしれない。
同じ考えが、違う向きで頭に入ってくる。僕は歩数を数えた。一、二、三。
意味はない。意味がないから、少し楽だった。
前方の土手に、魔導灯の弱い光が二つ見えた。雨で光が丸くにじむ。排水路の入口には、既に工兵が二人いる。
一人は腕に巻いた白布を何度も直していた。もう一人は、濡れたシャベルを逆さに立て、柄の先で土の硬さを確かめている。
「遅れましたか」
僕が聞くと、白布の工兵が首を振った。
「まだ間に合います。ただ、右土手が想定より柔らかい。箱を入口に積むと、沈みます」
「二番土手の陰へお願いします」
「助かります」
助かります。その言葉に、胃のあたりが少し動いた。
僕が助けたわけではない。箱を置く場所を間違えなかっただけだ。
✶
敵砲の音が、少し変わった。
遠い砲声は、慣れると差が出る。大きさではなく、遅れて来る空気の押し方が違う。さっきまで橋の正面を叩いていた音が、今は右へ寄っている。
排水路を見ている。
あるいは、こちらがそう思うように撃っている。
どちらでも、動く場所は同じだ。
「徹甲小銃弾、三箱は土手上へ上げないでください。下の乾いた場所に置いて。十ミリは二箱だけ上。残りは分けます」
「分ける?」
「一か所に置くと、当たった時に全部止まります」
白布の工兵が頷いた。
頷いた後、すぐに顔をしかめた。
「でも、運ぶ人手が足りません」
正しい。人手が足りない。足りないなら、削る。
何を。僕は一瞬、土嚢列の予備兵を思い浮かべた。戻したばかりの兵。
煙の中から下がってきた兵。背の高い方は、まだ足を引きずっていた。呼べば来る。
命令なら来る。来てしまう。
「僕が持ちます」
口が先に動いた。
護衛兵が目を見開いた。
「准尉が持つ必要は」
「あります」
護衛兵の眉が、そこで少し寄った。
僕の方は、もう十ミリ弾の木箱に指をかけていた。戻した兵をまた呼ぶ声より、箱の取っ手の方が近い。
十ミリ弾の箱は、腰へ来た。持ち上げた瞬間、背中の奥が変な音を立てそうになる。
重い。
当たり前だ。
弾は軽い方がおかしい。
✶
箱を二番土手の陰へ置いた時、通信具が割れた音を出した。
接続点からだった。
「六番仮、敵歩兵再編。北東林内で再集結の兆候。捕虜移送、遅延」
通信兵の声に、細かな雑音が混じる。捕虜。顎に火傷のある男。
生かして捕ったのは大きい。そう言われた男。
「移送が遅れている理由は」
「護送路に砲撃の散発。迂回指示待ち」
僕は排水路の略図を見た。北西排水路。接続点。
護送路。敵砲の寄り方。全部が、同じ方向へ少しずつ傾いている。
敵は捕虜を取り返したいのか。それとも、捕虜を消したいのか。どちらもあり得る。
どちらでも、護送路をそのままにはできない。
「捕虜移送、一度止めてください。十分でいいです」
言ってから、唇の端を噛んだ。
「いや、止めません。場所を変えます。北西排水路の南側、古い水門の裏へ一度逃がしてください。護衛は増やさないでください。目立ちます」
通信具の向こうで、復唱が返る。僕はもう一つ言いかけた。殺される前に。
言わなかった。言わなくても、伝わる内容に直した。
「生存捕虜は情報源です。敵に位置を読ませないでください」
事務的な言い方だった。
事務的に言えた後で、舌の奥に金属の味が残った。
✶
排水路の奥で、何かが水に落ちた。
石ではない。
小さい金属音が混じった。
工兵が魔導灯を絞る。光が弱くなる。雨の音だけが残った。
護衛兵が銃を上げる。
僕は止めた。
「まだ撃たないでください」
音は、もう一度した。
北側ではなく、排水路の下。水の中に、何かを流している。
爆薬か。標識か。通信具か。
選べない。選べないなら、近づけない。
「マギブレイク短杭を、排水路の縁に二本お願いします。起動はまだです。水を止める板、ありますか」
「古い板なら」
「流れを半分だけ逸らしてください。全部は止めない。詰まると、向こうに気づかれます」
白布の工兵が、濡れた板を運ぶ。手順が戻る。板。
短杭。魔導灯。銃口。
数えられる物だけが、僕の周りに戻ってくる。
水面の下を、小さな筒が流れてきた。黒い。掌ほど。
筒の側面に、帝国式の刻印。僕は読めない。読めないものばかりだ。
「マギブレイク、起動してください」
短杭の術式が、低く割れた。
筒の周りの薄い魔力膜が、剥がれる。中から火花が出る前に、工兵が水をかけた。水は最初からそこにあった。ただ、向きだけを変えた。
筒の音が止まった。
誰も死ななかった。
その瞬間、膝の裏から力が抜けそうになった。
護衛兵が僕の肘を支えた。
「准尉」
「大丈夫です」
早すぎる返事だった。
大丈夫なら、そんなに早く言わない。
手元の鉛筆が、少し遅れて震えた。
✶
水路の筒は、簡易の魔導発信器だった。
爆薬ではない。
こちらの冷却液と弾薬箱の位置を、短く知らせるためのものらしい。起動前に止められたので、詳しい性能は後で工兵が見ることになった。
白布の工兵は、濡れた筒を布袋へ入れながら、少し笑った。
「爆薬じゃなくてよかった」
「はい」
よかった。
言っていい言葉だ。
でも、僕の口から出ると、何かが違う気がした。
少し前に一人死んでいる。
今は誰も死ななかった。
だから、よかった。
その順番で合っているはずなのに、どこかが合わない。
通信具がまた鳴った。
「六番仮より後方接続点。捕虜移送、経路変更完了。敵歩兵、北東林内で停止。追撃なし」
追ってこない。
敵は、こちらの動きを見失ったのか。
それとも、目的を果たせないと見て下がったのか。
どちらでも、時間は買えた。
この作戦の目的は、紙の上では削れていない。
紙の上だけは。
僕は返答した。
「了解。排水路、魔導発信器一、無力化。弾薬配置、完了。北西側、維持できます」
声は今度、引っかからずに出た。
澄人は別の荷札板を抱えていて、こちらを見ていない。
その程度には、まだ格好をつけていた。
✶
接続点へ戻る頃、雨は止んでいた。
雲の切れ目から、薄い月が見えた。明るくはない。けれど、泥の上に残った足跡の深さくらいは分かる。
僕は途中で一度、立ち止まった。
北西排水路へ運んだ弾薬箱のうち、一箱だけ、まだ封が切られていない。
使わなかった一箱。余った一箱。
それを見て、少し息が変になった。余ったなら、よかったはずだ。
使わなかったなら、誰かを撃たなかったということだ。
なのに、封の縄を見ていると、奥歯に力が入った。
さっき六箱にしようとした手。四箱で足りた報告。
足りた、と書ける状況。どれも、同じ棚に置けなかった。
整理できないまま、僕は封の切られていない箱を、接続点の予備置き場へ戻した。
戻す時、木箱の角で手袋が少し裂けた。中の皮膚までは切れていない。
血は出なかった。それで済んだ。
僕は裂けた手袋を外さず、そのまま予備置き場の札を裏返した。
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