ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 七章 十一節
『追う者の足は、残された轍に遅れて濡れる。』
夜明け前、後方接続点に三枚の報告が届いた。
一枚目。
ゴルペホ橋梁線、敵主力の再前進なし。
二枚目。
北東林内の再集結、未完了。中英雄級捕縛の影響により、敵小隊指揮が一時途切れた可能性あり。
三枚目。
第二王子側移動隊、エザグランマ方面の第一中継点を通過。
直線で、およそ六十キロ。
地図上では、指一本分にもならない距離だった。
でも、その指一本分の外側で、敵はまだ橋梁線に縛られている。
追えなかった。
こちらが勝った、とは少し違う。
敵が追うはずだった道を、半日だけ泥の中へ沈めた。
✶
報告を読み上げた通信兵は、声を一度だけ詰まらせた。
眠気ではない。
受話管の横に置かれた水筒が、空になっている。唇の皮が割れていた。昨夜の通信台破損から、交代がうまく回っていない。
「続けてください」
僕が言うと、彼は水筒を見ないようにして頷いた。
「敵砲兵、橋梁線正面への射撃を断続継続。砲撃間隔、昨夜より延伸。弾薬節約、または観測不良と思われます」
「こちらの損耗は」
「弾薬消費、十ミリ弾十九箱。徹甲小銃弾、十二箱。魔導冷却液、三本。マギブレイク短杭、使用六、回収二」
数字が並ぶ。
消費量としては、少なくない。
でも、主力の追撃を半日止めた数字としては、たぶん軽い。
軽い。そう考えた瞬間、舌の奥が乾いた。人の死も、弾薬と同じ欄に入る。
同じ表には入らない。でも、同じ会議で読まれる。
「負傷者は」
「夜間追加で二。うち一名、搬送待ちです」
「搬送車は」
「古い装甲戦闘輸送車が一台、こちらへ回ります。冒険者協会払い下げの型です」
冒険者協会。
王城を出たあとの街道を思い出した。
染料樽と布束。ぬかるみ。荷縄を掛け直した朝。あの頃は、装甲車が戦場まで人を運ぶものだと思っていた。
今は、戦場から人を戻すものに見える。
同じ車体なのに。
✶
古い装甲戦闘輸送車は、明け方の薄い灰色の中で到着した。
車体は長い。
戦車のように低く構えてはいない。前部に機関部と小さな砲塔が詰まり、後ろに人と荷物を入れる箱が続く。鋼板は厚く見えないが、雨粒が車体の数センチ手前で少し乱れていた。
常時展開結界。
効率は悪いと聞いた。
でも、歩いている負傷兵にとっては、その薄い膜でも屋根になる。
車体の前から、フライホイールの低い唸りが漏れている。その下で、細かい歯車が噛む音がした。油と熱い金属の匂い。走り続けた車両の匂いだ。
運転手が降りてきた。
髭の中に灰が混じっている。左手の手袋だけ指先が切ってあり、触って熱を見る癖があるらしい。
冒険者の雑さと、軍属の点検癖が同じ体に残っていた。
「後退は遅い。戻り線、先に見せてくれ」
挨拶より先に、それだった。
「車両後方から接続点まで、赤布で引きます。右側の泥は避けてください。側面駆動系に響きます」
「分かってるじゃねえか」
「前に少し」
全部は言わなかった。前に、冒険者の仕事で。
前に、まだ人が死なない依頼で。言っても、車は動かない。
✶
負傷者を乗せる順番で、少し揉めた。
重傷者を奥に入れると、途中で降ろせない。
軽傷者を奥に入れると、奥の人間が揺れを受ける。
担架を横に入れるには、後部区画の幅が足りない。
古い装甲車は便利だ。
便利だが、救護車ではない。
救護兵は、包帯を巻いた手で後部区画を測った。爪の間に薬草の粉が残っている。何度も洗った手だ。
「腹部の一名を先に奥へ。脚の二名は手前。座れる者は床」
「床は熱いです」
「布を敷く」
「布は足りません」
返したのは僕だった。救護兵がこちらを見る。
責める目ではない。ただ、次の答えを待っている目だった。
「冷却液の空箱を潰して敷いてください。板よりはましです。濡れた布は使わない。体温を持っていかれます」
「空箱」
「使った後のやつです。中身はない」
ない、という言葉が変に軽かった。
中身のあったものは、もう前線で使われている。
車両の後部で、負傷兵が小さく呻いた。
呻いた兵の数字の脇に、薄いHの形が浮いた。車体の振動でにじみ、すぐ崩れる。
読み切る前に消えてくれて、少しだけ楽になった。
僕は空箱を踏んで潰した。板が割れる音がする。中に残った冷却液の匂いが、薄く立った。
誰かの背中の下に敷くには、少し硬い。
ないよりはまし。
この言い方が、最近増えた。
✶
捕虜も、同じ車に乗せるかで意見が分かれた。
別車両はない。
歩かせるには、膝を撃たれている。
残せば、再襲撃の理由になる。
同じ車に乗せれば、味方の負傷者と敵の捕虜が同じ箱の中に入る。
下士官は、左腕の包帯を締め直しながら言った。
「後部の一番外、鎖二本で固定。口は塞がない。吐いたら死ぬ」
実務の言葉だった。
捕虜の男は、まだ意識が薄い。顎の火傷跡の上に、乾いた泥が残っている。軍医が水で拭こうとしたが、途中で別の負傷者に呼ばれたらしい。
僕は濡れ布を受け取った。
なぜ受け取ったのかは、手の中の重さが少し遅れて教えた。
泥を拭いた。敵の顔が、少し人の顔に戻る。
戻さなくてもよかった。戻しても、何も変わらない。
でも、泥のまま護送記録に入れるのは、違う気がした。
「准尉」
下士官の声。
「はい」
「それは、救護班の仕事です」
「分かっています」
布を返した。
それでも、手が先に動いた。
昨夜から、そういうことが増えている。
✶
車両が出る直前、森田さんから短い通信が入った。
声は遠かった。
魔導通信具の質が悪いのか、距離のせいなのか、言葉の端に細い雑音が混じっている。
「羽黒さん、聞こえるかしら」
「聞こえます」
「第一中継点は通過したわ。第二王子側の移動隊は、今のところ追撃を受けていない」
第二王子側の移動隊。その言葉の向こうに、まだ会ったこともない第三王子の名前がある気がした。地図の上で誰かが線を引き、誰かがそれを守らせている。僕の名前も、その線のどこかに小さく書かれているのだろう。
周囲にいた兵が、少し動きを緩めた。
緩めた、と言っても、荷を置いたわけではない。持ち方が変わっただけだ。人は、良い報告を聞いても仕事をやめられない。
「よかったです」
言葉は出た。
今度は、そこまで違和感がなかった。
森田さんは少し黙った。通信具の向こうで、紙ではなく布が擦れるような音がした。
「あなたたちが止めたからよ」
あなたたち。
僕一人ではない。
その言い方なら、戦闘詳報には収まりやすい。
受け取る場所だけが、僕の中で見つからない。
褒め言葉の形をしているのに、耳の奥では命令の復唱に近かった。
止めた。
だから、次も止める。
そう読まれる場所へ、僕の名前が少しずつ寄っている。
「敵も止まりました」
「ええ」
「味方も、止まりました」
通信具を持つ指に力が入った。
森田さんは、すぐに返さなかった。
通信の奥で、誰かが別の名前を呼んでいる。森田さんはその声を一度遮り、それからこちらへ戻った。
「動くために止めることもあるわ」
「それを、死んだ人に言えますか」
下士官がこちらを見た。
通信兵の唇が少し開く。
下士官の咳払いより先に、次の言葉が喉まで上がっていた。
森田さんの声は、荒れなかった。
「言えないわ」
短かった。
その短さで、僕の方が黙るしかなくなった。
「だから、生きている人を動かすの。今は」
通信が切れる直前、森田さんは小さく息を整えた。
「桜華さんは、次の中継救護へ回す手配をしている。あなたは橋梁線を畳みなさい」
畳む。
作ったものを、崩す時間が来た。
✶
撤収は、作る時よりも手間がかかった。術式標識を外す。
マギブレイク短杭を抜く。残った赤布を回収する。
土嚢列は、全部は崩さない。追撃がないと決まるまでは、形だけ残す。
使った火点は、先に印を消す。
火点が残っていると、戻ってきた兵がそこへ入ろうとする。
もう誰も入れない場所なのに。
澄人が赤布の束を抱えて戻ってきた。
昨日より、布の持ち方が雑だった。いや、雑ではない。疲れて、端をそろえる余裕がない。
「先輩、水車小屋の赤、一本足りません」
「落とした?」
「たぶん、泥に入ってます」
「探します」
言った瞬間、澄人が首を振った。
「俺が行きます」
俺。
澄人が自分をそう呼んだのを、僕は初めて聞いた気がした。
少なくとも、学校では聞いたことがない。
「一人では行かないでくれるかな」
「はい。護衛をつけます」
「護衛じゃなくて、僕も行くよ」
下士官が咳をした。
わざとらしくはなかった。
でも、止めるための咳だった。
「准尉、撤収表」
僕は手元を見る。撤収表には、まだ空欄が三つある。
赤布一本より、表の方が重い。そう判断したのは僕だ。
なのに、足が水車小屋の方へ向きかけていた。
「……澄人。二人で。十歩以上、火点跡から離れない。見つからなければ捨てる」
「赤布を?」
「赤布を」
澄人は頷いた。
澄人の頷きは浅かった。赤布の束を抱え直す手つきも、いつもより少し荒い。
そのまま動けるなら、まだ戻れる場所がある。
何から戻るのかは、口にしなかった。
✶
装甲戦闘輸送車が負傷者と捕虜を乗せて出た。
前へは滑るように進む。
後ろへは、ほとんど下がれない。
だから、車は一度大きく回ってから、接続点の南側へ抜けた。戻り線に置いた白布の内側を、ゆっくりなぞるように通る。
薄い結界が、朝の霧を少し押し分ける。後部の小窓から、誰かの手が見えた。味方か、捕虜か、分からない。
指が一度だけ動いて、すぐ見えなくなった。僕は数えようとして、やめた。
あれが誰の手か分からないなら、数えても仕方がない。
車体が遠ざかる。
歯車の音が、砲声より先に小さくなった。
報告兵が走ってくる。
「准尉、前線より連絡。敵主力、橋梁線北岸で停止継続。追撃部隊の編成、確認できず」
「第二王子側は」
「第二中継点へ向け移動中。遅延、許容内」
許容内。その言葉で、人が救われることがある。その言葉で、人が切られることもある。
僕は撤収表の空欄を一つ埋めた。ゴルペホ橋梁線。足止め継続。
追撃発生せず。作戦目的、達成見込み。最後の一行だけ、少し時間がかかった。
見込み。まだ終わっていない。
でも、敵は追えなかった。その事実だけが、朝の泥の上に残っていた。
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