ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 七章 十二節
『見張る目は、灯の向きが変わるだけで別の夜を見る。』
敵砲兵の射撃間隔が、伸びていた。最初は八分に一度。
次は十一分。その次は、十五分を越えた。
砲が壊れたわけではない。弾が尽きたわけでもない。砲声はまだ同じ重さで来る。着弾の散り方も、偶然にしては整っていた。
ただ、見えていない。
敵は、こちらを見直している。
そう考えると、首筋の後ろが冷えた。
見直しているということは、次に見えた時、前より正確に撃ってくる。
✶
接続点の略図には、赤い線が三本引かれていた。
一つは北岸の低い丘。
一つは橋の上流側に残った石塔。
一つは、昨日まで敵歩兵が使っていた黒松林の端。
どれも、こちらの火点や撤収路を見やすい場所だった。
「推定観測点は三つです」
通信兵が言った。
彼は声を落としている。寝不足で荒れた声を、無理に細くしていた。受話管の金具に巻いた布が新しくなっている。昨夜の破損で、手元が滑るのを嫌ったらしい。
「推定でいいです。確定した時には、もう撃たれています」
下士官が、略図の横へ小さな鉛筆を置いた。
「砲で潰しますか」
「潰せるなら、もう潰しています」
北岸の低い丘は遠い。
石塔は、古い橋の一部に近い。壊せば橋の復旧費と通行権の話がまた増える。
黒松林の端は、敵も分かっている。撃てば移る。
砲で潰すのは、気持ちがいい。
気持ちがいい判断は、だいたい後で高い。
「見えにくくします」
「煙幕ですか」
「煙だけだと、風で読まれます。灯りと標識も混ぜます」
僕は青い印を三つ置いた。本物の火点ではない。見せるための火点。
嫌な言い方だ。でも、他に言い方がない。
✶
魔導灯を動かす作業は、持ち手が熱く、紐がすぐ絡んだ。
灯りはただ置けばいいわけではない。強すぎれば偽物だと分かる。弱すぎれば、そもそも見えない。雨の残った朝は、光が水気で丸くなる。
工兵の一人が、古い布で魔導灯の覆いを調整していた。
鼻の頭に泥がついている。本人は灯りばかり見ていて、まったく気づいていない。手甲には、マギブレイク用の薄い小型機械が留めてあった。
「この明るさでいいですか」
「少し弱くしてください」
「これ以上弱くすると、味方も見失います」
「味方に見せる灯りじゃないです」
工兵は、そこで手を止めた。
分かりにくい言い方だった。
「敵に見せるんです。こちらが見てほしい場所だけ」
「ああ」
彼は納得した声を出した。
納得が早い。
戦場では、その方が助かる。
でも、人がこちらの嫌な考えをすぐ理解するのは、少し困る。
✶
偽標識は、撤収したはずの火点跡に置いた。
完全に同じではない。
少しずらす。
昨日の水車小屋裏ではなく、その南へ二十歩。
石塀の内側ではなく、崩れた石材の手前。土嚢列の正面ではなく、横の浅い溝。
本物を知っている敵なら、違和感を持つ。本物を知らない敵なら、そこを撃つ。
本物を見ていた敵なら、こちらが撤収したと考えるかもしれない。
どれでもいい。
一度で正解へ行かせないことが目的だ。
澄人が、赤布ではなく灰色の布を持ってきた。
「これ、使いますか」
「どこから」
「救護の破れ布です。血は落としました」
言い方が、少し硬い。
昨日の荷札板の件から、澄人は妙に丁寧になっている。丁寧すぎて、こちらまで間違ったことをしている気になる。
いや、しているのか。
「使います。火点の残りに見えます」
「はい」
「でも、あなたは置かないでください。工兵に渡して」
澄人は布を握ったまま、少し固まった。
「俺、置けます」
「置けるのは知っています」
「じゃあ」
「君が戻らなかったら、僕がまた余計な箱を増やすことになるんだ」
言ってから、声を一段落とした。
澄人は目を伏せない。
代わりに、布を工兵へ渡した。
「分かりました」
素直な返事ではなかった。
だから、少し助かった。
澄人の数字の脇にも、薄い英字が滲んでいた。精神の方だった気がする。読もうとした瞬間、彼が振り向いて、像は崩れた。
見なくてよかった、と思う自分が、少し嫌だった。
✶
敵の最初の反応は、石塔から来た。
光。
ほんの一瞬。
双眼鏡の反射か、術式鏡か、どちらかだと思う。朝の薄い光を拾って、石塔の割れ目で細く光った。
「石塔、見ています」
通信兵が声を上げる。
「撃たないでください」
僕はすぐに返した。
「撃たないんですか」
「見ているなら、こちらが見せたいものを見せます」
下士官が、こちらを見る。
その目には疑問があった。
疑問があっても、命令は止めない。彼はもう、そういう顔をするようになった。
「偽火点一、灯りを二段上げてください。煙はまだ」
魔導灯の覆いが開く。
水車小屋跡の南で、弱い光が少し強くなった。
砲声は、すぐには来ない。敵も考えている。
考えてくれるなら、それでいい。考える時間は、追撃の時間から削れる。
✶
七分後、敵砲が撃った。着弾は、水車小屋跡の南。本物の火点から二十歩ずれた場所だった。
土が跳ねる。濡れた板が割れる。灰色の布が、泥と一緒に浮いた。
誰もいない。それでも、腹のあたりが少し縮んだ。敵は、僕が見せた場所を撃った。
敵に無駄弾を使わせた。言い方は簡単だ。
でも、あの場所に昨日の兵が残っていたら、死んでいた。
昨日の僕なら、そこに残していたかもしれない。
その考えが、遅れて来た。
「命中、偽火点一。敵観測、石塔濃厚」
通信兵が報告する。
「記録。敵砲撃一、空振り」
空振り。
いい言葉だ。
誰も死ななかった時にだけ、使える。
✶
敵は二発目を急がなかった。
石塔の光は消え、北岸の低い丘から別の反応が出た。今度は光ではない。薄い魔力の線が、雨上がりの空気に一瞬だけ立った。
術式観測。
双眼鏡や目ではなく、魔力の反射を拾う方だ。
こちらの魔導灯を見せすぎると、今度は魔力の流れで位置を読まれる。
「灯りを落としてください。煙を出します。ただし、湿った藁は使わないで」
「乾いた藁は少ないです」
「少なくていいです。濃い煙じゃなく、薄い層がほしい」
工兵が走る。走り方が重い。徹夜明けの足だ。
僕は、別の兵へ替えるべきか考えた。替えるなら、誰を削る。
どこから持ってくる。また、箱を増やすのか。
「准尉」
下士官が低く言った。
僕が止まっていたらしい。
「煙、出ます」
「はい。北岸に見せます。橋側へは流さないでください」
返事はできた。
少し遅れた。
その遅れを、下士官は何も言わなかった。
✶
薄い煙は、うまく流れた。
風は川沿いに沿っている。煙は橋へ向かわず、低い丘と接続点の間に、半透明の膜を作った。完全には隠れない。むしろ、灯りだけが曖昧に動いて見える。
見える。
けれど、測りにくい。
敵が欲しいのは、美しい景色ではない。角度と距離だ。
それが少し狂えば、砲弾は人ではなく泥を叩く。
北岸から二発目。
着弾は石塀跡の手前。
本物の撤収路から、三十歩以上外れていた。
砲弾の破片が、濡れた土嚢を裂いた。中の砂が流れる。術式標識の古い杭が一本倒れた。
誰もいない。誰もいない場所が壊れる。壊れ方にも、ましな順番がある。
今回は、その順番だった。その言葉も、少し嫌だった。
「敵砲撃二、空振り。観測修正、失敗」
通信兵の声に、わずかに熱が混じった。周囲の兵も、息を少し戻す。戦果だ。
人が戻る戦果。敵の弾薬が減る戦果。僕はそれを見て、三発目を待った。
✶
三発目は、来なかった。十五分。
二十分。二十六分。
敵砲兵は沈黙したまま、北岸の低い丘の魔力線だけが何度か薄く立った。
向こうも、見直している。
正しい敵だった。
間違えたからといって、怒って撃ち続けるわけではない。
無駄弾を嫌う。観測を戻そうとする。
その合理性が、少し腹立たしかった。愚かでいてくれた方が楽なのに。
「敵砲撃、停止継続。二十六分」
「記録。砲撃密度、低下。観測妨害は効いています」
僕が言うと、記録係が書いた。
彼の鉛筆は短くなっている。削る暇がないのか、芯の周りの木が不揃いだった。書くたびに、少し引っかかる音がした。
「戦果欄は」
記録係が聞く。
僕は一瞬、何を問われたのか分からなかった。
「敵砲撃二発、誘導。損害なし。敵砲撃密度低下」
「羽黒准尉指揮、と入れますか」
下士官が、記録係を見た。
記録係は、悪気のない顔をしていた。
ただ、正式に書くべきかを聞いているだけだ。
「作戦班指揮で」
「准尉名は」
「不要です」
少し早く答えすぎた。
記録係の鉛筆が止まる。
下士官が、今度はこちらを見る。
「必要です」
短い声だった。
僕は口を開きかけた。
反論はあった。
名前が残ると、誰かがそこへ責任を置ける。名前が残ると、次も呼ばれる。名前が残ると、死んだ人の名前とも同じ記録に並んでしまうんだ。
どれも、言い訳に聞こえる。
「……記録規定どおりでお願いします」
僕が言うと、記録係は頷いた。羽黒准尉指揮。
その文字が、短い鉛筆で書かれた。名前が入ると、次の命令が早く届く。
誰に聞けばいいか、誰に任せればいいか、迷う時間が減る。
それは、たぶん良いことだ。
良いことの形で、逃げ道が一つ減った。
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昼前、第二王子側移動隊が第二中継点を通過した。
距離はさらに伸びた。ゴルペホ橋梁線から直線で六十キロ以上。
追うには遅い。追うなら、別の道を使うしかない。
その別の道も、今は泥と壊れた標識と、こちらの偽火点で時間を食っている。
通信兵が報告を終えると、接続点の隅で誰かが小さく拳を握った。
誰かは見なかった。
見れば、同じように返さなければならない気がした。
「次は、敵の観測点を移動させます」
僕は略図へ新しい線を引いた。石塔。北岸の低い丘。
黒松林の端。その三つを、同時に潰す必要はない。一つずつ、使いにくくする。
敵砲兵を殺さなくても、歩かせることはできる。
歩かせれば、撃てない時間ができる。撃てない時間ができれば、誰かが動ける。理屈はきれいだった。
きれいすぎて、胃に残る。僕は略図の端に、小さく時間を書いた。二十六分。
敵砲兵が撃てなかった時間。それは、今日最初の戦果になった。
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