ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 七章 十三節
『熱を持つ歯車は、止まる前から帰り道を選ぶ。』
古い装甲戦闘輸送車は、戻ってきた時点で限界に近かった。
前部機関部の横で、運転手が膝をついている。左手の指先だけを切った手袋で、側面の歯車カバーに触れ、すぐに手を離した。
「熱い」
それだけ言って、彼は歯を鳴らすように笑った。
笑い方が軽い。
でも、目の下は黒い。
「あと何往復できますか」
「聞き方が悪いな、准尉さん」
「では、何往復させると壊れますか」
「一往復でも壊れる時は壊れる」
正しい答えではない。
でも、現場の答えだった。
車体の横では、常時展開結界が薄く揺れている。雨はもう止んだのに、車体の近くの空気だけが湿って見えた。余剰魔力が漏れているのだと思う。
燃料はいらない。
けれど、歯車は焼ける。
便利なものは、別の場所で必ず代金を取る。
✶
搬送待ちは、まだ四人いた。軽傷二。歩けるが熱がある兵、一。
通信具の破片で脇腹を切った兵、一。重傷ではない。
そう分類される。重傷ではないから、後回しになる。
後回しになった顔は、だいたい似ている。怒っているわけでも、諦めているわけでもない。ただ、自分が運ばれない理由を先に理解してしまった顔だ。
通信具の破片を受けた兵は、僕より少し年上に見えた。髪を短く刈り、耳の後ろに乾いた血が残っている。包帯の上からでも、呼吸のたびに脇腹が引きつるのが分かった。
「歩けます」
彼は言った。歩ける、と言う人間ほど、途中で止まる。
そういう音だった。言わなかった。
「装甲車に乗せます」
「他に重い人が」
「歩ける人を途中で拾い直す方が、高くつきます」
言い方が硬かった。
彼は少し笑った。
「物みたいですね」
「すみません」
「いや、分かりやすい」
分かりやすくて、いいはずがない。
でも、彼はそれで納得した。
✶
問題は、車両そのものだった。
装甲戦闘輸送車は前へ進む時は速い。
後ろへは遅い。
しかも、いまは右側の駆動系が熱を持っている。狭い接続点内で切り返せば、そこで軸がずれる可能性があった。
運転手は、車体の下から抜いた細い金属片を見せた。
「削れてる」
金属片の端は、銀色ではなく、少し青く焼けていた。
「あとで直せますか」
「あとでならな」
「今は」
「祈る」
彼は肩をすくめた。祈りで動く車なら、たぶんもっと軽い。僕は略図を見た。
接続点。南側の抜け道。
北西排水路。古い水門。
車両をまっすぐ入れて、まっすぐ出す。切り返しを減らす。後退させない。
そのためには、積み込む場所を変える必要がある。
「搬送場所を、南側の旧荷下ろし場へ移します」
救護兵が顔を上げた。
「遠くなります」
「四十歩ほど」
「その四十歩で、出血します」
「ここで車が止まれば、全員止まります」
救護兵は黙った。
黙ったというより、噛んだ。
唇の内側を噛んだのだと思う。頬の片側だけが少し動いた。
「担架布を二枚重ねます。揺れを減らす」
「布が足りません」
「灰色布を使います。偽火点用の残り」
救護兵は、それで頷かなかった。
でも、拒まなかった。
戦場では、それで作業が進む。
✶
旧荷下ろし場へ移す途中、敵の軽追撃が来た。
人数は多くない。
五。
黒松林の端から、低い土手の影へ入る。装備は軽い。銃二、短杖一、剣二。中英雄級ではない。だが、こちらは搬送中だった。
弱い場所を見ている。
敵は、愚かではない。
「車両は止めないでください」
僕は言った。
運転手が、すぐに怒鳴り返す。
「止めねえなら、どこへ行く!」
「旧荷下ろし場へお願いします。そのまま進んでください。後退はしないで」
「撃たれたら」
「撃たせる場所を変えます」
言いながら、口の中が乾いた。撃たせる。誰に。
どこへ。考える前に、略図の上では答えが出ていた。
「北西排水路、偽標識二番を点灯。水門裏の灰布を外してください。敵に車両の降ろし口を誤認させます」
通信兵が復唱する。
少し掠れているが、通る声だった。
「護衛二名は車両左側へ。発砲は敵が土手を越えてから。土手の手前までは発砲禁止でお願いします」
「なぜ」
下士官が聞いた。
「土手の手前で伏せられると、車両が曲がるしかなくなります」
「越えさせる」
「はい。越えた後なら、向こうは戻るか撃つかを選ぶしかない」
選ばせる。
選ばせた結果、人が死ぬ。
その順番を、もう知っている。
✶
偽標識二番が灯った。
薄い青い光。
救護用の目印に似せてある。本物より少し低い。敵が遠目に見れば、車両の降ろし口だと思う。
敵の五人は、そちらへ寄った。
こちらの装甲戦闘輸送車は、南側の旧荷下ろし場へまっすぐ進む。歯車音がいつもより高い。車体の右側から、熱い油の匂いが濃くなった。
「右が鳴ってるぞ!」
運転手の声。
「そのまま進んでください」
「そのままって言うやつは、中に乗ってねえから言えるんだ!」
その通りだった。
でも、曲げればもっと悪い。
僕は車体右側を見た。
側面駆動系のカバーが、細かく震えている。装甲というより、機械を守る薄い殻だ。非貫通でも軸が歪む。設定メモではなく、いま目の前で壊れかけている。
「護衛、左の火点を開けてください。右は撃たないで。右へ敵を寄せないようにお願いします」
十ミリ機関銃が、短く鳴った。連射ではない。土手の向こうへ、三発。
敵の一人が伏せる。もう一人が、偽標識へ走る。短杖持ちだ。
「マギブレイク、起動準備をお願いします。まだです」
僕は息を止めかけて、やめた。吸う。吐く。
数えるな。数えると、撃つまでの時間が短くなる。短杖持ちが土手を越えた。
「今、お願いします」
短杭が起動した。
短杖の先に集まっていた術式が、布を解くように乱れる。敵は止まらなかったが、杖の向きがずれた。
護衛の小銃が撃つ。一発。敵の肩が跳ねる。
倒れない。二発目。今度は脚。
短杖持ちが転んだ。HPの表示が一瞬だけ見えた。高くない。
中英雄級ではない。ただの兵だ。ただの兵、という言葉を、僕はまた使った。
✶
装甲戦闘輸送車は、旧荷下ろし場に入った。
後退なし。
切り返しなし。
運転手は車を止めると、すぐに機関部の横へ飛び降りた。手袋越しに触り、顔をしかめる。
「焼ける手前だ。積むなら今だ」
救護兵が動く。
担架が入る。
歩ける兵が、床へ座る。
通信具の破片を受けた兵は、乗る前にこちらを見た。
「高くつきますか」
「途中で止まらなければ、安いです」
「じゃあ、安く済ませます」
彼は笑った。
笑いが脇腹に響いたのか、すぐに顔をしかめる。
僕は手を貸そうとして、救護兵に先を越された。
それでよかった。
僕の手は、いま命令に使う方が先だ。
「敵五、うち一負傷。残り四、偽標識側で停止。車両位置、誤認継続」
通信兵の報告。
「追わせないようにします。偽標識二番を消して、三番を一瞬だけ点けてください。逃げ道を迷わせます」
下士官が言った。
「撃破しないのですか」
「撃破すると、回収に来ます」
「負傷者も回収に来ます」
「はい。だから、車両が出るまで向こうを迷わせる」
敵にも負傷者がいる。敵も戻したい。それを使う。
使えると思ってしまう。胸の内側で、何かが一段沈んだ。
✶
偽標識三番が、一瞬だけ点いた。
敵の四人が、そちらを見た。
負傷した短杖持ちを引くか、標識の方を見るか。
彼らは迷った。
迷う時間は短い。
短いが、装甲戦闘輸送車が出るには足りた。
「出すぞ!」
運転手が叫ぶ。
車体が前へ出る。
右側の歯車が鳴った。
ぎりぎり、という音ではない。もっと細かい。硬いもの同士が、熱を持ったまま噛み合っている音だ。
僕は思わず右側を見た。見たところで直せない。それでも見た。
車両が白布の内側を抜ける。薄い結界が、朝の霧を押す。敵の一人が撃った。
弾は結界に触れ、少し角度を変えて車体側面のカバーを擦った。
金属音。運転手が罵声を上げる。
車体は止まらない。止まらなかった。
それだけで、背中の奥の力が抜けそうになった。
「車両、離脱」
通信兵が報告する。
「敵軽追撃、停止。負傷者回収に移行」
負傷者回収。
敵も、そうする。
人間だから。
✶
戦果表には、こう書かれた。
味方負傷者四、搬送完了。
装甲戦闘輸送車一、走行継続。ただし右側駆動系過熱。
敵軽追撃五、進出失敗。敵一、負傷。
敵追撃判断、偽標識により遅延。記録係が、そこで鉛筆を止めた。
「指揮者」
僕は答える前に、下士官を見た。
下士官は何も言わない。
代わりに、記録係の鉛筆が待っている。芯の先が、紙の同じ場所で小さく丸くなっていた。
「羽黒准尉」
僕が言うと、記録係はそのまま書いた。
もう、不要です、とは言わなかった。
言えば、余計に目立つ。
覚えられたくない人間の動きは、たぶん覚えられやすい。
今日の指揮者欄に、僕の名前が入るのは三度目だ。三度とも、傷はこちらではなく、向こうについた。
嫌な知識が増えていく。
✶
装甲戦闘輸送車は、次の中継救護へ向かった。
走行音は遠ざかっても、しばらく耳に残った。低い唸りと、細かい歯車の音。あの車は、燃料ではなく回転で走る。回転はまだ残っている。問題は、骨格がそれに耐えるかどうかだ。
人も似ている。そう考えかけて、やめた。
比喩にするには、近すぎた。通信兵が新しい報告を受け取る。
「第二王子側移動隊、第二中継点を完全通過。第三中継点へ向け移動中」
接続点の空気が、少し変わった。今度は、僕にも分かった。戦果がまた一つ増えた。
負傷者を戻した。敵軽追撃を止めた。第二王子側の距離が伸びた。
報告欄は、きれいに埋まっていく。僕は右手袋の裂けたところを見た。
まだ血は出ていない。出ていないのに、そこだけ熱かった。
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