ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 七章 十四節
『火を消した場所ほど、灰の下に次の印を隠す。』
一度畳んだ火点を、もう一度作ることになった。
水車小屋。石塀。土嚢列。
どれも、昨日の場所には戻さない。敵はもう覚えている。こちらも覚えている。
覚えた場所へ戻るのは楽だ。楽な場所は、撃たれやすい。
✶
新しい火点は、旧火点から少しずつ外した。
水車小屋の南ではなく、さらに西へ三十歩。壊れた井戸の裏。
石塀の内側ではなく、崩れた荷置き場の陰。
土嚢列の横ではなく、排水路へ降りる低い段差の上。
どこも、撃ちやすい場所ではない。
撃ちやすい場所は、敵も見つけやすい。
下士官が、低い段差の上を見て眉を寄せた。
「ここは狭い」
「二人までです」
「退避は」
僕は段差の下へ目をやった。
「後ろではなく、下へ落ちます」
「落ちる?」
「降りるより速いです。下に藁を敷いてください」
言ってから、声を少し落とした。
でも、降りる時間はない。
火点は撃つ場所ではなく、戻る場所まで含めて作る。
最近、その考え方が先に出る。
それ自体は悪くない。
悪くないのに、どこかで歯が噛み合わない。
✶
工兵たちは、文句を言いながら動いた。
文句がある方が、少し安心する。
無言で動かれると、こちらの判断がそのまま正しいことにされてしまう。
井戸裏へ向かった工兵は、片耳に煤けた綿を詰めていた。砲声で痛めたのだろう。こちらの声を聞く時だけ、顔を少し右へ傾ける。
「准尉、井戸の縁が崩れます」
「上に乗らないでください。縁ではなく、井戸の影を使います」
「影で弾は止まりません」
「止めるのは影じゃなくて、相手の目の方です」
工兵は、片耳をこちらへ向けたまま、少し笑った。
「分かったような、分からないような」
「僕も、言い方はよくないと思っています」
「じゃあ、敵も分かりにくいでしょう」
そう言って、彼は壊れた井戸の裏へ腹ばいになった。
「その綿、落ちかけています」
「聞こえねえ方が、怖い話を聞かずに済みます」
「こちらの命令も聞こえなくなります」
「それは困る」
工兵は片耳の綿を押し込み直した。泥のついた指でやるので、白かった綿がさらに黒くなる。
軽い冗談だった。軽い冗談で、人が伏せる。
そこへ敵弾が来るかもしれない。冗談の重さが、最近変わった。
✶
澄人は、赤布ではなく細い黒紐を配っていた。
赤布は目立つ。
火点を戻す時には使いやすい。
でも、今回は目立たせたくない。
黒紐を引くと、火点の後ろに置いた小さな木片が倒れる。それを見た通信兵が、火点離脱を記録する。
単純な仕組みだ。
単純な仕組みほど、壊れにくい。
「先輩、三番だけ紐が短いです」
「どれくらい」
「二歩分」
短い紐は、床板の端まで届いていない。
「足してください」
「足すと結び目が出ます」
「結び目を段差側へ」
澄人は少し考え、頷いた。
頷く前に考えるようになった。
いいことだ。
いいことなのに、その分だけ彼が遠くへ進んだように見えた。
後輩が、戦場の手順を覚えていく。
覚えないで済むなら、その方がよかった。
「先輩」
「はい」
「俺、昨日の板、また持っておきます」
荷札板のことだ。僕は即答しなかった。持つな、と言いたい。
持て、と言う方が実務としては正しい。結局、どちらも嫌だった。
「持っていてください。ただし、投げるのは合図してから」
「名前を呼ぶ、ですね」
「はい」
澄人は、板を胸元へ入れた。
薄い板一枚が、防具みたいに見えた。
防具であるはずがないのに。
✶
敵の次の動きは、歩兵ではなく、車両だった。
黒松林の奥から、低い機関音が二つ出た。戦車ではない。
音が軽い。だが、ただの荷車でもない。
魔導式の装甲輸送車か、軽い砲塔車両。林の中を深くは進めないが、端まで出て火点を撃つには足りる。
敵は、こちらが撤収したと見て、探りに来た。
探るための車両。
こちらの火点を見つけるための目。
「撃ちますか」
下士官が聞く。
「まだ撃たないでください」
「また、見せる」
「はい。ただし、今度は戻る火点です」
自分で言って、舌に嫌な味が残った。戻るための火点。
敵を戻さないための火点。同じ場所に置かれる。
✶
敵車両は、林の端で止まった。
距離は、およそ六百歩。
こちらの十ミリ機関銃には遠い。二十ミリがあれば届くが、ここにはない。徹甲小銃なら、当てても装甲を抜ける距離ではない。
だから、撃たない。
撃たないで、動かす。
「偽火点、灰色布を一枚だけ見せてください。井戸裏ではなく、旧水車小屋側」
通信兵が復唱する。
工兵が灰色布を、壊れた板の陰から少し出した。
敵車両の砲塔が動く。軽い砲塔。
動きが速い。砲ではなく、重機関銃に近い。
「全員、伏せてください」
言い終わる前に、二十ミリ級の射撃が来た。音が太い。土嚢ではなく、板と石を剥がす音がした。
旧水車小屋側の板が砕ける。灰色布が裂ける。誰もいない。
敵は撃った。こちらは撃っていない。
それでも、火点は働いた。敵に撃たせる場所を決めたからだ。
「敵車両、火点誤認。射撃位置、林端」
僕は略図へ印を置いた。
「井戸裏、まだ撃たないでください。敵が二回目を撃ってからです」
片耳の工兵が、井戸裏で小さく手を上げた。見えている。
まだ生きている。そう確認してしまう。
✶
二回目の射撃は、少し右へ流れた。
敵も修正している。
灰色布ではなく、その近くの動きを探っている。弾は旧水車小屋の南、昨日の偽火点のさらに外へ入った。
うまい。
敵は、こちらの偽物に気づきかけている。
なら、次でずらす。
「井戸裏、徹甲小銃をお願いします。車両ではなく、砲塔右の視察窓。撃ったら黒紐を引いてください」
「距離が遠い」
下士官が言う。
「抜く必要はありません。見えなくすればいい」
徹甲小銃の音。一発。外れた。
二発目。車両の砲塔右側で、火花が散った。貫通ではない。
でも、視察窓の外枠に当たった。敵車両の砲塔が止まる。
黒紐が引かれた。井戸裏の木片が倒れる。
「井戸裏、離脱」
通信兵が言う。僕は頷いた。赤布ほど分かりやすくない。
でも、目立たない。今回は、それでいい。
✶
敵車両は、砲塔を振り直した。
井戸裏を探している。
そこには、もう誰もいない。
代わりに、崩れた荷置き場の陰で、小さな魔導灯が一瞬だけ点いた。
石塀側の新火点。
敵車両の砲塔が、そちらへ引かれる。
「撃たないでください」
僕は先に言った。
下士官が、少し遅れて頷く。
「撃たせる」
「はい」
敵が撃った。
砲塔が向いた瞬間、荷置き場の火点は黒紐を引く。木片が倒れ、兵が下へ落ちる。藁を敷いた低い段差へ、体ごと逃がす。
射撃は、その上を削った。
間に合った。
間に合ったことが、戦果になる。
それでも、藁の上へ落ちた兵の一人が腕を押さえていた。
骨ではない。たぶん打撲。
頭上に、薄い数字が滲んだ。HP。すぐに煙へ紛れて消える。読める前に、読みたくない気持ちの方が先に来た。
たぶん。そこに逃げ込める言葉だ。
「荷置き場、離脱。負傷一、軽」
通信兵が言った。僕は略図へ小さく印を付けた。軽。
軽いわけがない。でも、分類上は軽い。
✶
三つ目の火点は、撃たなかった。
低い段差の上。
敵がそこを探す前に、車両の砲塔が止まったからだ。
視察窓を撃たれ、二度空振りし、林端から出るかどうかを迷っている。
出れば、こちらの砲兵観測に入る。出なければ、火点の位置は確定しない。敵車両は、林の奥へ下がった。
後退ではない。向きを変えて、ゆっくり戻る。
装甲輸送車か砲塔車両かは分からない。ただ、もう撃ってこない。
「敵車両、後退」
通信兵が報告する。
「追わないでください」
僕はすぐに言った。
「追いません」
下士官の返事は早かった。
僕が言う前から、地図の上では同じ結論になっていた。
それは、信頼なのか。それとも、僕の癖を覚えられただけなのか。
どちらでも、戦場では役に立つ。嫌なことに。
✶
戦果表は、また増えた。新火点三、構築。敵車両一、火点誤認。
敵二十ミリ級射撃、三回。味方死者なし。敵視察窓損傷疑い。
敵車両、林内へ後退。味方負傷一、軽。
記録係は、最後に指揮者欄へ自然に僕の名前を書いた。
もう聞かなかった。
聞かれない方が楽なはずだった。
でも、聞かれないまま名前が残るのは、別の種類の重さがあった。
片耳の工兵が、井戸裏から戻ってきた。
服の前が泥だらけで、膝に小さな擦り傷がある。煤けた綿は、片耳から半分落ちかけていた。
「准尉、あの井戸裏、合ってました」
「撃ちにくかったでしょう」
「撃ちにくいところは、敵も撃ちにくい」
彼はそう言って、水筒の水を一口飲んだ。
「それ、僕が言ったことにしないでください」
「じゃあ、井戸裏の教訓にしときます」
「井戸裏、偉くなりましたね」
片耳の工兵は、短く笑った。煤けた綿が今度こそ落ちそうになり、彼は慌てて押さえた。
戦場で、僕の嫌な理屈が他人の言葉になって戻ってくる。
僕は頷いた。
うまく返せなかった。
✶
昼過ぎ、第二王子側移動隊は第三中継点の手前まで進んだ。
あと少し。
その「少し」を稼ぐために、また何かを置くのだと思う。
灯り。煙。紐。
誰か。略図の上では、全部同じ大きさの印になる。僕は低い段差の火点を消すかどうか迷った。
まだ使える。使えるなら、残したくなる。
残せば、誰かがそこへ入る。敵も、次はそこを探す。
「三番火点、撤収してください」
僕は言った。
まだ撃っていない火点を、消す。
澄人が、黒紐を巻き取りながらこちらを見た。
「使わないんですか」
「使わなかったから、戻せます」
澄人は少し考えてから、頷いた。
その頷き方が、昨日より兵士に近かった。
僕はそれを見ないふりをして、撤収表に線を引いた。
新火点三。使用二。撤収三。死者なし。
澄人の頭上に、精神の文字がわずかに揺れた。SAN、と読めるかどうかの薄さで、すぐ闇へ溶けた。見えてしまうと、頼もしさより先に、申し訳なさが来る。
僕はその下に線を引いた。芯が丸くなっても、同じところをもう一度なぞっていた。
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