ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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七章十四話 戻る火点

《王録》 七章 十四節

『火を消した場所ほど、灰の下に次の印を隠す。』

 

 一度畳んだ火点を、もう一度作ることになった。

 

 水車小屋。石塀。土嚢列。

 

 どれも、昨日の場所には戻さない。敵はもう覚えている。こちらも覚えている。

 

 覚えた場所へ戻るのは楽だ。楽な場所は、撃たれやすい。

 

 

 新しい火点は、旧火点から少しずつ外した。

 

 水車小屋の南ではなく、さらに西へ三十歩。壊れた井戸の裏。

 

 石塀の内側ではなく、崩れた荷置き場の陰。

 

 土嚢列の横ではなく、排水路へ降りる低い段差の上。

 

 どこも、撃ちやすい場所ではない。

 

 撃ちやすい場所は、敵も見つけやすい。

 

 下士官が、低い段差の上を見て眉を寄せた。

 

「ここは狭い」

 

「二人までです」

 

「退避は」

 

 僕は段差の下へ目をやった。

 

「後ろではなく、下へ落ちます」

 

「落ちる?」

 

「降りるより速いです。下に藁を敷いてください」

 

 言ってから、声を少し落とした。

 

 でも、降りる時間はない。

 

 火点は撃つ場所ではなく、戻る場所まで含めて作る。

 

 最近、その考え方が先に出る。

 

 それ自体は悪くない。

 

 悪くないのに、どこかで歯が噛み合わない。

 

 

 工兵たちは、文句を言いながら動いた。

 

 文句がある方が、少し安心する。

 

 無言で動かれると、こちらの判断がそのまま正しいことにされてしまう。

 

 井戸裏へ向かった工兵は、片耳に煤けた綿を詰めていた。砲声で痛めたのだろう。こちらの声を聞く時だけ、顔を少し右へ傾ける。

 

「准尉、井戸の縁が崩れます」

 

「上に乗らないでください。縁ではなく、井戸の影を使います」

 

「影で弾は止まりません」

 

「止めるのは影じゃなくて、相手の目の方です」

 

 工兵は、片耳をこちらへ向けたまま、少し笑った。

 

「分かったような、分からないような」

 

「僕も、言い方はよくないと思っています」

 

「じゃあ、敵も分かりにくいでしょう」

 

 そう言って、彼は壊れた井戸の裏へ腹ばいになった。

 

「その綿、落ちかけています」

 

「聞こえねえ方が、怖い話を聞かずに済みます」

 

「こちらの命令も聞こえなくなります」

 

「それは困る」

 

 工兵は片耳の綿を押し込み直した。泥のついた指でやるので、白かった綿がさらに黒くなる。

 

 軽い冗談だった。軽い冗談で、人が伏せる。

 

 そこへ敵弾が来るかもしれない。冗談の重さが、最近変わった。

 

 

 澄人は、赤布ではなく細い黒紐を配っていた。

 

 赤布は目立つ。

 

 火点を戻す時には使いやすい。

 

 でも、今回は目立たせたくない。

 

 黒紐を引くと、火点の後ろに置いた小さな木片が倒れる。それを見た通信兵が、火点離脱を記録する。

 

 単純な仕組みだ。

 

 単純な仕組みほど、壊れにくい。

 

「先輩、三番だけ紐が短いです」

 

「どれくらい」

 

「二歩分」

 

 短い紐は、床板の端まで届いていない。

 

「足してください」

 

「足すと結び目が出ます」

 

「結び目を段差側へ」

 

 澄人は少し考え、頷いた。

 

 頷く前に考えるようになった。

 

 いいことだ。

 

 いいことなのに、その分だけ彼が遠くへ進んだように見えた。

 

 後輩が、戦場の手順を覚えていく。

 

 覚えないで済むなら、その方がよかった。

 

「先輩」

 

「はい」

 

「俺、昨日の板、また持っておきます」

 

 荷札板のことだ。僕は即答しなかった。持つな、と言いたい。

 

 持て、と言う方が実務としては正しい。結局、どちらも嫌だった。

 

「持っていてください。ただし、投げるのは合図してから」

 

「名前を呼ぶ、ですね」

 

「はい」

 

 澄人は、板を胸元へ入れた。

 

 薄い板一枚が、防具みたいに見えた。

 

 防具であるはずがないのに。

 

 

 敵の次の動きは、歩兵ではなく、車両だった。

 

 黒松林の奥から、低い機関音が二つ出た。戦車ではない。

 

 音が軽い。だが、ただの荷車でもない。

 

 魔導式の装甲輸送車か、軽い砲塔車両。林の中を深くは進めないが、端まで出て火点を撃つには足りる。

 

 敵は、こちらが撤収したと見て、探りに来た。

 

 探るための車両。

 

 こちらの火点を見つけるための目。

 

「撃ちますか」

 

 下士官が聞く。

 

「まだ撃たないでください」

 

「また、見せる」

 

「はい。ただし、今度は戻る火点です」

 

 自分で言って、舌に嫌な味が残った。戻るための火点。

 

 敵を戻さないための火点。同じ場所に置かれる。

 

 

 敵車両は、林の端で止まった。

 

 距離は、およそ六百歩。

 

 こちらの十ミリ機関銃には遠い。二十ミリがあれば届くが、ここにはない。徹甲小銃なら、当てても装甲を抜ける距離ではない。

 

 だから、撃たない。

 

 撃たないで、動かす。

 

「偽火点、灰色布を一枚だけ見せてください。井戸裏ではなく、旧水車小屋側」

 

 通信兵が復唱する。

 

 工兵が灰色布を、壊れた板の陰から少し出した。

 

 敵車両の砲塔が動く。軽い砲塔。

 

 動きが速い。砲ではなく、重機関銃に近い。

 

「全員、伏せてください」

 

 言い終わる前に、二十ミリ級の射撃が来た。音が太い。土嚢ではなく、板と石を剥がす音がした。

 

 旧水車小屋側の板が砕ける。灰色布が裂ける。誰もいない。

 

 敵は撃った。こちらは撃っていない。

 

 それでも、火点は働いた。敵に撃たせる場所を決めたからだ。

 

「敵車両、火点誤認。射撃位置、林端」

 

 僕は略図へ印を置いた。

 

「井戸裏、まだ撃たないでください。敵が二回目を撃ってからです」

 

 片耳の工兵が、井戸裏で小さく手を上げた。見えている。

 

 まだ生きている。そう確認してしまう。

 

 

 二回目の射撃は、少し右へ流れた。

 

 敵も修正している。

 

 灰色布ではなく、その近くの動きを探っている。弾は旧水車小屋の南、昨日の偽火点のさらに外へ入った。

 

 うまい。

 

 敵は、こちらの偽物に気づきかけている。

 

 なら、次でずらす。

 

「井戸裏、徹甲小銃をお願いします。車両ではなく、砲塔右の視察窓。撃ったら黒紐を引いてください」

 

「距離が遠い」

 

 下士官が言う。

 

「抜く必要はありません。見えなくすればいい」

 

 徹甲小銃の音。一発。外れた。

 

 二発目。車両の砲塔右側で、火花が散った。貫通ではない。

 

 でも、視察窓の外枠に当たった。敵車両の砲塔が止まる。

 

 黒紐が引かれた。井戸裏の木片が倒れる。

 

「井戸裏、離脱」

 

 通信兵が言う。僕は頷いた。赤布ほど分かりやすくない。

 

 でも、目立たない。今回は、それでいい。

 

 

 敵車両は、砲塔を振り直した。

 

 井戸裏を探している。

 

 そこには、もう誰もいない。

 

 代わりに、崩れた荷置き場の陰で、小さな魔導灯が一瞬だけ点いた。

 

 石塀側の新火点。

 

 敵車両の砲塔が、そちらへ引かれる。

 

「撃たないでください」

 

 僕は先に言った。

 

 下士官が、少し遅れて頷く。

 

「撃たせる」

 

「はい」

 

 敵が撃った。

 

 砲塔が向いた瞬間、荷置き場の火点は黒紐を引く。木片が倒れ、兵が下へ落ちる。藁を敷いた低い段差へ、体ごと逃がす。

 

 射撃は、その上を削った。

 

 間に合った。

 

 間に合ったことが、戦果になる。

 

 それでも、藁の上へ落ちた兵の一人が腕を押さえていた。

 

 骨ではない。たぶん打撲。

 

 頭上に、薄い数字が滲んだ。HP。すぐに煙へ紛れて消える。読める前に、読みたくない気持ちの方が先に来た。

 

 たぶん。そこに逃げ込める言葉だ。

 

「荷置き場、離脱。負傷一、軽」

 

 通信兵が言った。僕は略図へ小さく印を付けた。軽。

 

 軽いわけがない。でも、分類上は軽い。

 

 

 三つ目の火点は、撃たなかった。

 

 低い段差の上。

 

 敵がそこを探す前に、車両の砲塔が止まったからだ。

 

 視察窓を撃たれ、二度空振りし、林端から出るかどうかを迷っている。

 

 出れば、こちらの砲兵観測に入る。出なければ、火点の位置は確定しない。敵車両は、林の奥へ下がった。

 

 後退ではない。向きを変えて、ゆっくり戻る。

 

 装甲輸送車か砲塔車両かは分からない。ただ、もう撃ってこない。

 

「敵車両、後退」

 

 通信兵が報告する。

 

「追わないでください」

 

 僕はすぐに言った。

 

「追いません」

 

 下士官の返事は早かった。

 

 僕が言う前から、地図の上では同じ結論になっていた。

 

 それは、信頼なのか。それとも、僕の癖を覚えられただけなのか。

 

 どちらでも、戦場では役に立つ。嫌なことに。

 

 

 戦果表は、また増えた。新火点三、構築。敵車両一、火点誤認。

 

 敵二十ミリ級射撃、三回。味方死者なし。敵視察窓損傷疑い。

 

 敵車両、林内へ後退。味方負傷一、軽。

 

 記録係は、最後に指揮者欄へ自然に僕の名前を書いた。

 

 もう聞かなかった。

 

 聞かれない方が楽なはずだった。

 

 でも、聞かれないまま名前が残るのは、別の種類の重さがあった。

 

 片耳の工兵が、井戸裏から戻ってきた。

 

 服の前が泥だらけで、膝に小さな擦り傷がある。煤けた綿は、片耳から半分落ちかけていた。

 

「准尉、あの井戸裏、合ってました」

 

「撃ちにくかったでしょう」

 

「撃ちにくいところは、敵も撃ちにくい」

 

 彼はそう言って、水筒の水を一口飲んだ。

 

「それ、僕が言ったことにしないでください」

 

「じゃあ、井戸裏の教訓にしときます」

 

「井戸裏、偉くなりましたね」

 

 片耳の工兵は、短く笑った。煤けた綿が今度こそ落ちそうになり、彼は慌てて押さえた。

 

 戦場で、僕の嫌な理屈が他人の言葉になって戻ってくる。

 

 僕は頷いた。

 

 うまく返せなかった。

 

 

 昼過ぎ、第二王子側移動隊は第三中継点の手前まで進んだ。

 

 あと少し。

 

 その「少し」を稼ぐために、また何かを置くのだと思う。

 

 灯り。煙。紐。

 

 誰か。略図の上では、全部同じ大きさの印になる。僕は低い段差の火点を消すかどうか迷った。

 

 まだ使える。使えるなら、残したくなる。

 

 残せば、誰かがそこへ入る。敵も、次はそこを探す。

 

「三番火点、撤収してください」

 

 僕は言った。

 

 まだ撃っていない火点を、消す。

 

 澄人が、黒紐を巻き取りながらこちらを見た。

 

「使わないんですか」

 

「使わなかったから、戻せます」

 

 澄人は少し考えてから、頷いた。

 

 その頷き方が、昨日より兵士に近かった。

 

 僕はそれを見ないふりをして、撤収表に線を引いた。

 

 新火点三。使用二。撤収三。死者なし。

 

 澄人の頭上に、精神の文字がわずかに揺れた。SAN、と読めるかどうかの薄さで、すぐ闇へ溶けた。見えてしまうと、頼もしさより先に、申し訳なさが来る。

 

 僕はその下に線を引いた。芯が丸くなっても、同じところをもう一度なぞっていた。

 

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