ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 七章 十五節
『濡れた靴底には、まだ消えていない道が残る。』
捕虜は、すぐには喋らなかった。
喋れなかった、の方が近い。
後送されたはずのこの男だけ、尋問のために呼び戻されていた。中英雄級と記録された男は、救護天幕の外で仰向けに寝かされていた。顎の古い火傷、短く刈った髭、首元に残った汗の塩。包帯は膝と脇腹に巻かれている。結界補助具を外した後の革帯だけが、胴の横で不自然に軽く見えた。
頭上には、生命の文字がまだ残っていた。その端に、欠けたHPの形が一瞬だけ滲む。読み切る前に、天幕の布を叩く雨粒の音に紛れて消えた。
人を殺しに来た相手だ。
でも、寝かされていると、ただの負傷者に見える。
嫌な順番だった。
「尋問班は、あと半刻で来ます」
救護兵が言った。彼女は薬瓶を小さな木箱に戻しながら、こちらを見ない。袖口に赤黒い跡が残っている。水で落ちるものと、落ちないものが混じっている色だった。
「それまでに、所持品を確認します」
「准尉がですか」
「喋らせるのは専門の人に任せます。僕は、歩いてきた場所だけ見ます」
救護兵の手が、木箱の蓋の上で止まった。
捕虜の足元を見る、と僕は言った。靴底、泥、草の種、擦れた革。人ではなく、そこに付いたものを先に並べている。
言い直しても、順番は変わらない。
✶
所持品袋は三つあった。中英雄級の男のもの。
林内で死亡確認された杖術兵のもの。後退途中に落とされた、所属不明の小袋。
袋を開けたのは、僕ではない。泥と血を受けた物を扱う手つきは、救護兵や回収班の方がずっと慣れている。僕が触れば、たぶん余計なところを汚す。
僕は、略図の横に膝をついた。
しゃがむと、湿った布の匂いが近くなる。外では砲声がまだ遠くで続いていたが、天幕の布に吸われて、鈍い塊みたいに聞こえた。
「靴を」
回収班の若い兵が、捕虜の靴を持ってきた。泥を落としすぎないよう、両手の間に浮かせるようにしている。鼻の横に浅い切り傷があり、乾いた血が細い線になっていた。
「そのまま置いてください。拭かないで」
「はい」
靴底には、川沿いの泥だけではないものが詰まっていた。
黒い小石。
白っぽい砂。
乾いた草の短い繊維。
ゴルペホ橋梁線の南側にある泥とは違う。北東林の奥でもない。昨日、砲兵陣地へ向かう荷車の車輪についたものに似ていた。
「北西の古い採石道ですか」
僕が言うと、片耳に煤けた綿を詰めた工兵が、靴底へ顔を寄せた。近づきすぎて、鼻先に泥がつきそうになる。
「似てます。白砂はあっちの崩れた坂ですね。雨で混じると、こういう粒になります」
「そこから北東林へ入れる道は」
「車両はきついです。歩兵なら行けます」
「三から六メートル級のものは」
工兵の顔が少し固くなった。
「道だけなら、無理です。木を切れば通せる。切った跡があれば、音がします」
音。
僕は略図の端に、採石道を書き足した。きれいな線ではない。指が冷えて、鉛筆の先が少し滑った。
捕虜は、林の正面から来たのではない。
北西の採石道から入って、北東林の内側を斜めに切った。
こちらの火点を正面から潰すつもりではなく、後方接続点の呼吸を止めに来た。
呼吸、という言葉を頭の中で使ってから、少し気持ち悪くなった。
ここは人の体ではない。
それでも、通信線が切れ、救護の道が詰まり、弾薬箱が止まれば、前線は息ができなくなる。
✶
杖術兵の袋からは、小さな金属筒が出てきた。
指二本分ほどの長さ。表面に細い溝があり、片側だけが熱で黒くなっている。
「結界補助具の残りです」
救護兵が言った。
「壊れてます。術式は読めません」
「壊れた場所だけ見せてください」
金属筒の割れ目は、弾を受けたところではなかった。側面が裂けたように開いている。内側の薄い線が、熱で縮れていた。
結界を抜いたわけではない。
支えていた道具の方が先に疲れた。
「撃たれたから壊れたんじゃない、ですか」
若い回収兵が言った。
「たぶん、支えすぎたんです」
僕は金属筒を略図の横に置いた。
「結界は面で残っていた。でも、復元が遅れた。そこへ十ミリと徹甲小銃が重なった」
「では、次も同じように」
下士官が言いかけた。
僕は首を振った。
「次は、相手も補助具を分けると思います。一人に寄せない。車両か、大きな発生器を後ろに置くかもしれません」
「車両」
「もしくは、ゴーレム系です」
その言葉を出すと、天幕の中の音が少し変わった。誰かが息を止めた、ではない。薬瓶を置く音が、途中で柔らかくなった。
ゴーレム。
訓練資料では見たことがある。大型のものは七メートル級。歩行する砲架に近い。小さいものでも、人よりはずっと大きい。三から六メートル級なら、兵士というより、装甲を持った作業機械が走ってくるようなものだ。
格好いいと言えば、格好いい。
教室で聞いたら、飛井あたりが絶対に食いついたと思う。ロボットじゃん、とか言って、山崎が横から仕様の話を始める。三郷はたぶん、乗れるのか、と聞く。
その声を思い出して、鉛筆の先が止まった。
今は、笑う場所ではない。
笑えた場所が、もう遠い。
✶
所属不明の小袋には、乾いた黒パンと、薄い金属板が入っていた。
金属板には、短い線がいくつか刻まれている。地図ではない。文字でもない。けれど、同じ間隔で三つ、少し広い間隔で二つ。
「補給刻みですね」
片耳の工兵が言った。
「飯の数ですか」
「違います。魔導電池か、結界具の交換順だと思います。昔、守護戦車の随伴で似た板を見ました。何番目に替えるか、暗い中でも触れば分かるようにしてある」
触れば分かる。つまり、明かりを使わない。
敵は夜に動くつもりだった。僕は略図の北西に、小さな黒い印を置いた。
「第二波は夜です。たぶん、採石道側」
下士官が、顎を引いた。左腕の包帯は新しくなっている。革手袋は外され、指の節に細かな擦り傷が並んでいた。
「規模は」
「歩兵だけなら、もっと食料を持ちます。車両だけなら、この刻み方は要りません」
「混成か」
「はい。歩兵、結界補助、推定観測手。それに、三から六メートル級が一つか二つ」
言ってから、胃の下の方が冷えた。言葉にすると、形ができる。
形ができると、そこへ火点を置ける。火点を置けると、人が死ぬ。
僕は略図の上に置いた黒い印を、少し北へずらした。
「採石道の入口に偽標識を置いてください。赤ではなく、青。味方の通路に見えるものを」
「敵を入れるんですか」
「入れます。でも、速くは進ませません。坂の途中で止めます」
「撃破ではなく」
「まず止めます」
まず、という言葉が自分の口から出た。
次がある言い方だった。
下士官は何も言わず、伝令に短く指示を出した。伝令は走り出す前に、黒い印の位置をもう一度見た。
頬に泥が乾いて、細いひびみたいになっている。
顎の線だけは、まだ少年に近かった。あの子も、僕の置いた印を覚える。
覚えた場所へ走る。僕は鉛筆を握り直した。
「採石道入口、偽標識。坂下にマギブレイク短杭。十ミリは坂上へ上げないでください。重すぎます。徹甲小銃二、坂の横。結界を削るのではなく、足を止めたところだけ」
通信兵が繰り返す。
「採石道入口、偽標識。坂下、マギブレイク短杭。徹甲小銃二、坂横。結界ではなく、停止後の足」
「はい。あと、救護は坂下に置かないで。下がってくる人とぶつかります」
「救護、坂下不可」
通信板に、また線が増えた。
敵の地図を読んでいるはずだった。
いつの間にか、味方が戻る道を書いていた。
✶
尋問班が来た頃には、捕虜の男は目を開けていた。
灰色に濁った目が開いていた。こちらを見ているのか、天幕の布を見ているのか、少し分からない。
僕は立ち上がった。男が口を動かした。声は出なかった。
それでも、唇の形だけは見えた。水。たぶん、そう言った。
救護兵が水差しを取った。尋問班の兵が止めようとしたが、下士官が先に手で制した。
「飲ませろ。死なせるな」
水が、捕虜の口へ少し入る。半分は顎の横へ流れた。
僕は、その流れ方を見てしまった。
その拍子に、精神の文字へSANらしい欠片が一瞬重なった。数字は追えない。追えないことが、ありがたいのか、ただ怖いだけなのか、自分でも分からなかった。
人間だった。
さっきまで地図の材料にしていたものが、人間だった。
外で、遠い砲声が二つ鳴った。
通信兵が天幕の入口を開ける。
「羽黒准尉。北西採石道、斥候反応。大型の足跡、確認です」
鉛筆の芯が、手の中で折れた。
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