ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 七章 十六節
『重い足は、坂の途中で命令の遅れを聞く。』
北西採石道は、地図では細い線だった。
実際には、白い砂と黒い小石が混じった坂で、片側は崩れた斜面、反対側は低い林になっている。雨水が通った跡がいくつも残り、足を置く場所を間違えると、靴底ごと横へ持っていかれる。
そこに、大きな足跡があった。
人のものではない。
車輪でも、履帯でもない。
丸い踵と、前へ押し出された爪先。幅は、僕の肩より広い。踏み抜いた白砂の底に、黒い小石が押し固められていた。
「三から六メートル級です」
斥候兵は、息を切らせながら報告した。薄い雨具の袖が破れ、肘のところから肌が見えている。膝には白砂がこびりついていた。走ってきた道の色だった。
「数は」
「足跡は二つ。随伴歩兵、十以上。推定観測手、一。荷を持つ者が二」
「距離」
「採石道入口から坂上まで、七百歩。今は坂下の曲がりです」
僕は略図の北西へ、黒い印を二つ置いた。
二つ。
大きすぎる数字ではない。
でも、通る道が一本しかなければ、二つで十分だった。
✶
通信板の横で、片耳の工兵が短杭の束を抱えていた。煤けた綿はもう外している。代わりに、片耳だけ赤く腫れていた。
「マギブレイク短杭、坂下に四本。曲がりの手前に二本。坂上には置きません」
「坂上ではなく、途中ですか」
「はい。上まで来られると、こちらの退避線が狭くなります。止めるのは途中でお願いします」
「途中で止まる保証は」
「ありません」
工兵は顔をしかめた。
保証がない命令ほど、現場の人間に負担が寄る。僕はそれを知っている。知っていて、言う。
「ただ、敵も坂上までは急ぎたいはずです。重いものほど、止まる前に勢いを使います。短杭は結界を消すためではなく、足元の術式補助を乱すために使ってください」
「結界は残る」
「残ります。残ったまま、遅くします」
結界は、都合よく開かない。
板でも、膜でも、ドームでも、面として残る。だから、穴を探す戦いではない。受けさせる。濁らせる。戻るまでの少しの遅れに、足場と弾を合わせる。
攻撃を点に集めるな。
最初の訓練場で、アンテラル騎士長が怒鳴った言葉が、泥と白砂の上に戻ってくる。あの時は意味が半分も分からなかった。今は、分かりたくないところまで分かる。
点を抜けないなら、面を疲れさせる。
それだけで、人は死ぬ。
それだけ、という言い方を頭の中で潰した。
「十ミリは水車小屋跡へ。坂を撃ち上げないでください。弾が散ります」
「徹甲小銃は」
「坂の横、低い林の中へ二。膝ではなく、接地した足首の外側。足が鈍った時だけです」
通信兵が復唱する。
その声は少し掠れていた。朝から何度も同じ形で命令を戻している。彼の喉も、消耗品みたいに使われている。
「水車小屋跡、十ミリ。坂横、徹甲小銃二。発砲は速度低下後」
「はい」
僕は頷いた。
丁寧に言えている。
丁寧に、人を殺す準備が進む。
✶
機甲衝撃兵が見えたのは、坂下の曲がりからだった。
一体目は、四メートルほど。
人の形に近いが、人ではない。肩が広く、胴は箱のように厚い。膝から下が太く、足首に板金が重なっている。右手には幅広の剣、左腕には機関銃を収めた箱形の覆い。背中には小さな煙突のような排気口があり、そこから白い蒸気が短く漏れた。
装甲そのものは、戦車ほど厚くないはずだった。
問題は、その前にある結界だ。角度と距離が悪ければ、徹甲小銃の弾は白い面で滑って終わる。けれど、足元で結界が濁り、面の戻りが遅れたところなら、APでも外板へ届く可能性がある。
ただし、外板を抜けば終わる相手でもない。
ゴーレム系の駆動は、歯車で関節を回すものではなく、束ねた疑似筋肉を縮ませて動かす。細い鋼線と魔導繊維を合わせたものだと、資料にはあった。一本を切っても、隣が引く。片脚が痛んでも、しばらくは引きずって進む。
止めるなら、足。
倒すなら、胴の戦闘室。
二体目は少し小さい。
左腕の機関銃覆いが、盾のように厚い。覆いの表面に、結界の白い面が薄く張りついていた。右手の剣は、刃というより鉄の板に近い。胴の前にも、丸い膜がかかっている。形は違うが、本質は同じだ。弾を受け、角度を変え、力を殺すための面。
随伴歩兵は、その後ろにいた。
車両の影を使う歩兵と似ている。
ただし、影が歩いてくる。
「機甲衝撃兵、二。随伴歩兵、十二前後。推定観測手、一。荷持ち二」
僕が言うと、通信兵がそのまま戻す。
「機甲衝撃兵、二。歩兵十二前後。推定観測手一、荷持ち二」
坂の上で、偽標識の青が揺れていた。
敵はそれを見た。
味方の通路に見えるよう、わざと少し雑に置いた青だ。きれいすぎる標識は罠に見える。雑すぎる標識は無視される。工兵が、文句を言いながらちょうどいい汚し方をしてくれた。
機甲衝撃兵は、青へ寄った。
まず一歩。
白砂が沈む。
二歩目で、足首の結界が薄く揺れた。地面に触れるたび、面が少し遅れて追いつく。巨体の前面は強い。左腕の機関銃覆いも厚い。けれど、足場と一緒に動く場所だけは、どうしても乱れる。
「まだです」
僕は言った。十ミリの兵が、銃把にかけた指を止める。
機甲衝撃兵が、坂の途中へ入った。マギブレイク短杭が起きる。
光は派手ではなかった。濡れた砂の下から、低い青が一瞬だけ滲む。機甲衝撃兵の足元で、結界の白い面が濁った。
止まらない。
でも、遅れた。
「水車小屋跡、足元へ二。坂横、まだ撃たないで」
返事は聞かなかった。
十ミリが二発、坂の横から入る。
弾は機甲衝撃兵の前面結界で白く滑り、装甲へ届かず、砂を跳ねた。外れではない。白い面が二度、鈍く膨らむ。巨体が反射的に左腕を下げ、機関銃覆いの前に張っていた結界が、ほんの少し胴から離れた。
「今です。坂横、右足外側」
徹甲小銃の音が、一つ来た。
弾は結界の薄いところを抜け、足首の外板へ入った。抜け切ったかどうかは見えない。けれど、機甲衝撃兵の右足が半歩だけ沈んだ。
半歩。
人間なら踏み直せる。
四メートルの鉄と疑似筋肉は、踏み直すにも場所がいる。
「坂下、煙を」
魔導灯班が、濡れた煙筒を起こす。白い煙ではない。灰色で、湿っていて、坂の低いところへ絡む煙だった。
観測手の視界が切れる。
機甲衝撃兵はよろけた。
止まりはしない。
右足を引きずり、坂の砂を削りながら、それでも前へ出ようとする。足首の中で、疑似筋肉が切れた糸みたいに跳ねるのが見えた。白い蒸気が膝の裏から漏れ、機関銃覆いが一度だけ横へ流れる。壊れたものが、まだ命令を聞いている。
よろけた瞬間、後ろの歩兵が詰まった。詰まった列に、こちらは撃たない。撃てば、相手は散る。
散れば、坂の左右へ逃げる。今は、詰まっていてもらう。
「歩兵を撃たないでください。詰まらせます。観測手だけ、赤紐三の右」
僕の声が少し速くなった。
通信兵が追いつく。
「歩兵撃つな。観測手、赤紐三の右」
「丁寧に」
言ってから、指先が冷えた。
通信兵がこちらを見る。
僕は略図から目を離さなかった。
「すみません。歩兵は撃たないでください。観測手だけ、赤紐三の右です」
通信兵は、少し声を整えて復唱した。
戦場で丁寧さを気にしている場合ではない。
でも、命令が荒くなると、僕の中の別のものまで出てくる気がした。
✶
二体目が前へ出た。
左腕に機関銃覆いを構えた方だ。
一体目の横を抜けようとして、坂の外側へ足を置く。そこは、斥候が白砂を残しておいた場所だった。乾いて見えるが、下は水を含んでいる。
足が沈む。
左腕の結界が前に残り、胴の結界が遅れて追いつく。
「二体目、外へ出ます。砲兵へ連絡。坂上ではなく、坂外側の林端。榴弾一、近すぎない位置」
「近すぎない位置」
「はい。壊すためではなく、戻す道を塞ぐためです」
砲兵陣地は六キロ後方だ。
こちらの声が届き、観測班が角度を直し、砲が撃つまでには時間がある。その時間を、機甲衝撃兵は坂で使っている。
遠い砲声。
少し遅れて、坂外側の林端が跳ねた。
直撃ではない。
木の枝と土が落ちる。二体目は左腕を上げた。結界が濁り、すぐに薄く張り直される。強い。けれど、横の歩兵は戻れない。林端から落ちた枝が退路を塞ぎ、荷持ちの一人が尻もちをついた。
「敵砲兵、反応します」
下士官が言った。
「はい。だから、こちらの砲兵は二発目を撃たないでください。位置を残します」
「撃たない」
「敵に撃ち返す場所を探させます。こちらの砲兵が黙れば、敵は前へ観測手を出すしかありません」
自分で言いながら、胃の下が冷えた。砲兵を歩かせる。
砲を壊すのではない。砲兵に、歩かせる。
歩けば、疲れる。遅れる。見つかる。間違える。死ぬ。
僕は、それを狙っている。
「観測班へ。敵の再観測を待ってください。砲撃ではなく、人が前へ出たら記録」
通信兵の声が戻る。
「敵再観測待ち。人が出たら記録」
機甲衝撃兵の一体目は、まだ坂の途中で右足を引きずっていた。
二体目は左腕を上げたまま、外側へ動けない。
随伴歩兵は詰まっている。
敵は壊れていない。
けれど、進んでいない。
第二王子側の移動隊は、その間にも一歩ずつ離れている。
六十キロ向こうの一歩を、ここで買っている。
その代金が、坂に積もっていく。
✶
最初に前へ出たのは、観測手ではなかった。
荷持ちの一人だった。
背負っていた筒を下ろし、坂の横へ這う。筒の先には小さな結界板がついていた。砲撃観測用の標識か、通信補助具か、ここからでは断定できない。
「荷持ち一、筒を設置。推定観測具」
僕は言った。言ってから、その男の頭上を見た。数字の横に、薄い文字が混じる。
生命。まだ高い。精神。
精神の隣に、崩れた英字が一瞬だけ重なった。SANだったのか、他の何かだったのか、判別できないまま消える。
読めない。僕は目を略図へ戻した。
「撃ちますか」
下士官が聞く。
撃てば止まる。
撃たなければ、敵砲兵の目が戻る。
男は筒を置くために、肘で砂を掻いていた。手袋の指先が破れている。そこだけ肌色が見えた。
僕は、その指先を見た。
「撃ってください」
声が、喉の奥で低くなった。
「坂横、徹甲ではなく通常弾。筒ではなく、手前の砂。近くに落として止めます」
下士官が短く頷く。
小銃の音。
砂が跳ねる。
荷持ちの男は筒を抱えて転がった。生きている。たぶん。筒は坂を少し滑り、止まった。
「停止。設置未了」
通信兵が言った。僕は戦果表へ書いた。敵観測具、設置未了。
敵機甲衝撃兵、坂途中で速度低下。敵歩兵、前進不能。味方砲撃一発。
味方小銃三発。味方十ミリ二発。数字だけなら、きれいだった。
坂の上では、機甲衝撃兵の白い結界がまだ濁っている。胴の正面、厚い箱の奥に戦闘室がある。そこを抜かなければ、とどめにはならない。
警報か。
疑似筋肉の軋みか。
自分の呼吸か。
「羽黒准尉」
通信兵が呼んだ。
「第二王子側移動隊、第三中継点を通過。予定より十八分早いそうです」
周囲の兵が、小さく息を吐いた。
誰かが笑いかけて、やめた。
僕は略図の端に、十八分、と書いた。
坂では、まだ機甲衝撃兵が足を引きずっている。
十八分。
それを喜ぶために、僕はここにいる。
鉛筆の折れた芯が、まだ机の隅に残っていた。
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