ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 七章 十八節
『名は旗より遅れて来るが、肩に置かれれば鎧より重い。』
敵砲兵は、北へ動いた。
砲そのものは見えない。見えるのは、林の向こうで短く消えた発光信号と、遅れて届く荷車の音、それから北側低丘の土煙だけだ。
僕の前にある略図では、赤い札が三つ、細い鉛筆の線に沿って動かされている。
砲兵陣地。
観測具。
弾薬馬車。
その三つが同じ速度で北へ寄れば、敵は諦めたのではない。撃てる場所を探している。
「北側低丘、移動三。砲車一、弾薬馬車一、推定観測手一」
通信兵が復唱する。
「北側低丘、移動三」
「前線まで二・四キロ。橋まで九百歩。こちらの水車小屋跡は、まだ見えていません」
僕は略図の端に小さく線を足した。低丘から橋を見れば、川面の反射が邪魔になる。水車小屋跡を見るには、林の切れ目を使うしかない。
使うなら、そこだ。
「敵は砲撃を再開する前に、こちらの火点を見直します。たぶん、最初に探すのは水車小屋跡です」
「撃たせますか」
下士官の声は低い。
「撃たせません。探させます」
僕は水車小屋跡の札を、動かさずに指で押さえた。そこにはもう、誰もいない。弾箱も、負傷者も、短杭も戻してある。残っているのは、煙筒の殻と、昨日から濡れたままの土嚢だけだ。
「偽灯二、十歩だけ右へ。煙は焚かないでください。向こうに風を教えます」
「偽灯二、十歩右。煙なし」
「坂横火点は音を出さないでください。十ミリは弾帯を外して、布をかけたまま。敵がこちらの沈黙を、故障か撤収と間違えるまで待ちます」
工兵班がこの一帯に張った領域権のおかげで、水車小屋跡や坂横の地形は、こちらの都合で少しずつ違って見える。実際の高さより窪んで見える土嚢、風より強く煙が流れて見える偽の焚き跡。地形そのものへ仕込んだ小さな嘘が、火点の数と位置を敵の目から一段ぼかしていた。
命令が走る。
火点を動かす音は、ここまでは届かない。代わりに、通信具の中で短い了解が三つ重なった。
うまくいけば、敵は存在しない火点を探す。
その間、第二王子側の移動隊は南東路を進む。
うまくいかなければ、敵の砲弾がここへ来る。
僕は鉛筆を持ち直した。木の軸に、さっきから爪の跡が増えている。
ふと、自分の指先に薄い文字が滲んだ気がした。SAN、だったかもしれない。瞬きの間に消えた。見えたところで、命令は変わらない。
✶
北側低丘から、白い点が一つ出た。鳥ではない。
旗でもない。反射板だ。
「推定観測手、低丘稜線。距離二・三キロ」
「見えてます」
「撃たないでください。まだ、こちらを探しています」
下士官が舌を鳴らしかけて、やめた。代わりに、靴の底で泥を薄く伸ばす音だけがした。
反射板は三度光った。一度目は橋。二度目は水車小屋跡。
三度目は坂横。順番が正しい。正しい相手は、面倒だ。
「敵は火点を三つに見ています。橋、水車小屋跡、坂横。こちらの後方接続点は、まだ拾っていません」
「拾われたら」
「撤収します」
言葉はすぐに出た。
撤収する。
勝つためではなく、残すために。
それを口にすると、喉の奥が砂でこすれたみたいになる。撤収できる場所を残しているから、僕はここで人を殺す指示を出せる。
順番が逆なら、楽だったかもしれない。
でも、逆にはならない。
「偽灯二、灯りを一段上げてください。短く。すぐ消す」
「偽灯二、灯り一段」
水車小屋跡の右に、淡い光が立った。
魔導灯の光は弱い。昼の戦場では、ただの白い傷みたいに見える。それでも反射板がそちらへ向いた。
「食いました」
通信兵が小さく言った。
「記録。敵観測、偽灯へ誘導。時刻」
「記録します」
低丘の後ろで、砲車が止まった。
止まったのなら、撃つ準備に入る。だが、撃つ対象はもうずれている。
「ノクスラ班へ。敵砲兵の現在地、低丘北縁。撃破は狙わず、後方二百へ榴弾一。弾薬馬車を下げさせてください」
通信兵がこちらを見た。
「直撃ではなく、後方二百ですか」
「はい。砲を壊すと、敵は別の砲を呼びます。弾薬馬車を下げれば、この陣地は長く撃てません」
言い切ったあとで、奥歯に力が入った。
壊さないための砲撃。
殺さないための砲撃。
そういう言葉を並べるほど、紙の上ではきれいになる。
着弾した場所に立っている人間の耳は、たぶんそんなふうには聞かない。
✶
ノクスラ班の砲声は、遅れて届いた。
低く、腹の下を通る音だった。
着弾は見えない。見えたのは、低丘の後ろで土煙が二つに割れ、弾薬馬車の影が慌てて下がるところだけだ。
「敵弾薬馬車、後退」
「敵砲兵、射撃準備中断」
「推定観測手、反射板を伏せました」
報告が続く。
僕は鉛筆で、赤い札を一つ下げた。
「敵砲兵、再射撃まで最低十五分。弾薬馬車が戻らなければ二十五分」
「第二王子側移動隊、南東路の橋を通過中」
「予定との差は」
「二十六分先行」
二十六分。
さっきより五分増えた。
五分あれば、負傷者の担架を一台多く通せる。車列の後尾が曲がり角を抜けられる。追撃が一つ遅れる。
五分あれば、人が死ぬ。
敵も、味方も。
「記録。敵砲兵、偽灯へ誘導。弾薬馬車後退。射撃密度、低下。第二王子側移動隊、二十六分先行」
通信兵が書き取る。
そのあと、彼は別の紙を引き寄せた。作戦記録の清書用だ。濡らさないよう、布の下で守っていた紙で、罫線がきれいに引かれている。
彼のペン先が、いつもより少し大きく動いた。
「羽黒准尉の観測により、敵砲兵を北側低丘へ誘導」
「准尉でいいです」
口が勝手に動いた。
通信兵はペンを止めた。
「作戦記録上、同じ准尉が複数います」
「識別番号で」
「通信では間に合いません。前線からも、もう羽黒で来ています」
通信板の端を、彼が指で示した。そこには短く、こう書かれていた。羽黒の指示通り、水車小屋跡は空。
羽黒案、砲兵誘導成功。羽黒へ、坂横火点より徹甲弾残数報告。
僕の名前が、火点と弾数の間に挟まっていた。
少し前まで、僕の名前は出欠簿や掃除当番表に書かれているだけだった。
今は、砲撃や撤収、戦闘不能の記録の横に並んでいる。
誰の血も引いていないのに、僕の名前は今、王家の書類の中を巡っている。
忠誠を誓った、というだけの理由で。
血の繋がりなど一滴もないのに、この国はそれを家族の証にすると決めているらしい。便利な話だと思う。便利すぎて、少し怖い。
「便利な宛先になりましたね」
僕が言うと、通信兵はペンを止めずに返した。
「便利な宛先は、だいたい先に潰れます」
「縁起の悪いことを」
「少尉が言わせました」
その短いやり取りで、通信台の周りの息が少し動いた。
「作戦上必要なら、そのままで」
声が小さくなった。通信兵はうなずき、記録を続けた。
羽黒。その二文字が、次の紙にも写された。
数えていないが、今日だけで、この二文字はもう五回は紙の上を渡っている。伝令が持つたび、少しずつ違う人の手を経由して。
✶
坂横火点から、弾数報告が来た。徹甲弾、残りなし。通常弾、三十六。
十ミリ弾帯、半分。マギブレイク短杭、四本回収、二本損耗。
アクセラップ用の近接装備は、まだ前へ出せない。泥の深い場所で使えば、速く動いた分だけ足を取られる。インターキラー持ちの兵も、前線ではなく坂下の救護線に戻してある。
魔法は残っている。
人が残っていない。
「坂横へ。徹甲弾なしで機甲を追わないでください。通常弾は観測具と足元だけ。二体目が戻っても、戦闘室を狙わない」
「坂横、了解」
「本部より。坂横の徹甲要求、後方の襲撃機隊へ回しました。二体目が戻る前に、一機だけ入れます」
弾がないなら、弾を持っている方を借りる。理屈は簡単だ。簡単なだけに、間に合うかどうかは分からない。
本部への回線も、本来なら副官が繋ぐ仕事だ。今日もまだ、僕がそのまま繋いでしまった。
作戦図の坂横へ、通信兵が鉛筆の印を足した。
「水車小屋跡は完全撤収。偽灯だけ残す。灯具を壊されても取りに戻らないでください」
「水車小屋跡、了解」
「ノクスラ班へ。次弾は保留。敵弾薬馬車が戻るまで撃たないでください」
「ノクスラ班、保留」
命令が遠くへ渡っていく。
丁寧に言えば、相手が動きやすい。
丁寧に言えば、こちらが何をさせているのかも、はっきり残る。
僕は敵砲兵を動かした。
敵観測手に偽灯を見せた。
一体目の戦闘室を撃たせた。
それらが、作戦記録の中では一つの名前に束ねられていく。
「羽黒准尉」
下士官が呼んだ。
「はい」
「第二王子側、第三中継点まであと四キロ。向こうの通信で、こちらの足止め成功が流れています」
「成功ではありません。まだ継続中です」
「記録では、成功です」
下士官はそう言ってから、泥のついた手袋を外した。右手の甲に、古い火傷の跡がある。さっきまで気づかなかった。皮膚が引きつって、指の付け根だけ動きが遅い。
この人にも、ここへ来る前の戦場がある。名前がある。
僕はその名前を知らない。なのに、向こうは僕を名前で呼ぶ。
血も、故郷も、種族も違う二人が、同じ旗の下にいるというだけで、名前を呼び合っている。それだけで、家族と呼ばれる資格が生まれるらしい。
「羽黒准尉の戦果として上げます」
「部隊の戦果でお願いします」
「それも書きます」
下士官は手袋をまたはめた。
「ただ、名前がないと、上が動きません」
「では、食事の時だけ名前を外してください」
「無理です。炊事班まで覚えました」
「早すぎませんか」
「昨日、少尉が鍋を一つ戻しました」
僕は一瞬だけ黙った。
戦果より、鍋の話で覚えられている方が、まだ気が楽だった。
上。第一王城の机。森田さんの手元。
ランドマール殿下の報告箱。そういえば、王位継承の話がまだ済んでいないと、誰かが言っていた気がする。第二婦人の側がどうとか。今の僕には、遠い部屋の話だ。僕の名前が、そこへ上がる。名前が上がれば、次の命令も来る。
次の戦場も来る。僕は略図に目を戻した。赤い札は、まだ北側低丘にいる。
逃げたわけではない。次を探している。
「敵砲兵、弾薬馬車の再接近あり」
通信兵が言った。
「距離」
「低丘北縁まで四百。前線まで二・八キロ」
低丘北縁の札が、作戦図の端に触れている。
「敵は、こちらが次も砲で止めるかを見ています。ノクスラ班は撃たないでください」
「撃たない?」
砲兵連絡の指は、送話器から離れなかった。
「はい。今度は砲を使いません。偽灯三を消して、橋側の白布を一枚だけ出してください。敵には、こちらが橋を捨てたように見せます」
「撃つより嫌な命令ですみません」
「慣れません」
「僕もです」
通信兵が復唱する。
「偽灯三消灯。橋側白布一」
「敵が橋へ砲を向けたら、第二王子側の南東路からさらに離れます。撃たせず、向きを変えさせるだけでいい」
下士官が短く息を吐いた。
「また歩かせるんですね」
「はい」
僕は鉛筆を握った。
木の軸が少し湿っていた。
「敵砲兵を、もう一度歩かせます」
――――――――
面白かったら、下記のリンクから評価やレビューをいただけると嬉しいです。
https://kakuyomu.jp/works/822139841314440520/reviews