ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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七章十九話 水音の先へ

《王録》 七章 十九節

『渡った者の名を水は持たず、岸だけが足跡を乾かす。』

 

 橋側の白布は、一枚だけ出した。

 

 降参旗ではない。救護標識でもない。こちらの規則で言えば、通行路を示すための布だ。だが、遠くから見れば、橋を捨てる準備にも見える。

 

 敵がどう読むかは、敵の仕事だ。

 

 僕らの仕事は、読ませる場所を選ぶことだった。

 

「敵砲兵、砲口を橋側へ振りました」

 

 通信兵が言う。

 

「角度」

 

「水車小屋跡から外れます。橋の北詰めです」

 

「撃たせないでください。偽灯三は消したまま。橋側の白布は、風でめくれる程度に残してください」

 

「白布、残します」

 

 低丘の上で、砲車の影が少し止まった。

 

 砲兵は、撃つ前に迷っている。

 

 撃つ先が橋なら、僕らの火点は潰せない。撃つ先が火点なら、白布の意味を取り落とす。砲弾は一発で二つの場所を殴れない。

 

 だから、迷わせる。

 

 迷いに名前をつけるなら、時間だった。

 

「第二王子側は」

 

「第三中継点まで二・一キロ。車列後尾、南東路へ入りました」

 

 二・一キロ。

 

 地図の上では短い。

 

 泥道の上では長い。

 

 車輪が一度沈めば、人が押す。馬が滑れば、荷を降ろす。橋のたもとで誰かが咳をすれば、列が止まる。

 

 この二・一キロのために、ここで砲兵を歩かせている。

 

「敵砲兵、発砲準備」

 

「橋北詰めですか」

 

「はい」

 

 僕は橋北詰めの印を爪で押さえた。

 

「橋上に味方は」

 

「いません。橋南側の工兵二名、退避済み」

 

「では撃たせます」

 

 下士官がこちらを見た。

 

「撃たせる?」

 

「はい。空の橋北詰めです。一発撃てば、次弾装填と再観測で止まります」

 

 橋を壊したくはない。

 

 でも、橋の石畳一枚と、南東路へ入る車列の後尾を比べれば、答えは決まっていた。

 

 答えは決まっていた。それでも、割り切れる気はしなかった。

 

「橋北詰め、被弾許容。工兵は戻さないでください」

 

 通信兵が復唱した。

 

 遠くで砲声が鳴った。

 

 少し遅れて、橋の北詰めで石と泥が跳ねた。水面に白い飛沫が落ち、川の流れに混じる。橋そのものは残っている。欄干の一部が欠け、布は消えた。

 

「橋北詰め、被弾。橋本体、通行可能」

 

「敵砲兵、装填中」

 

「記録。敵砲兵、橋側へ誘導。一発消費。火点損害なし。橋、通行可能」

 

 紙に線が増える。一発。

 

 橋の石。飛沫。

 

 その三つが、車列の後尾を押し出す時間になる。

 

 

 第三中継点からの通信は、早く来た。

 

「第二王子側移動隊、第三中継点通過。後尾通過まで確認」

 

 通信兵が読み上げたあと、声を少し落とした。

 

「負傷者車、二台含む。遅延なし」

 

 遅延なし。その言葉だけなら、きれいだった。遅れなかった。

 

 置いていかれなかった。詰まらなかった。

 

 そこに含まれる手の数を、僕は知らない。車輪を押した人。馬の口を取った人。荷箱を一度降ろして、また積んだ人。誰かの名前を呼んで、返事を聞いてから進んだ人。

 

 ここからは見えない。

 

 僕の数字にも、そこまでは出ない。

 

「第三中継点通過、確認。こちらの任務達成条件は」

 

「移動隊後尾の南東路進入、敵追撃主力の橋梁線固定、敵砲兵射撃密度低下」

 

「全部、満たしています」

 

 通信兵はそう言ってから、少し間を空けた。

 

「ゴルペホ橋梁線、主要任務達成です」

 

 達成。

 

 その言葉が机の上に置かれると、周囲の人間の肩から力が抜けていった。誰かが水筒の蓋を開ける。誰かが濡れた袖を絞る。外では、まだ敵砲兵が装填している。

 

 終わったのではない。

 

 でも、通すべきものは通った。

 

「撤収準備へ移ります。ただし、火点を全部同時に畳まないでください。敵には、まだ残っているように見せます」

 

「順番は」

 

「水車小屋跡は空のまま。坂横は十ミリだけ残して、弾箱を先に戻す。橋側は白布なし。代わりに壊れた土嚢を二つ残してください」

 

「敵に見せるためですか」

 

「はい。残骸があると、人はそこに人がいたと考えます」

 

 自分で言って、舌が動かなくなりそうになった。

 

 人がいた。機甲衝撃兵の戦闘室にも、いた。

 

 橋北詰めを撃った砲兵の後ろにも、いる。こちらの土嚢の陰にも、いる。

 

 残骸だけを見せる作業は、相手に人の影を読ませる作業だった。

 

 僕はそれを、便利に使っている。

 

「羽黒」

 

 通信具の声が変わった。

 

 森田さんだった。

 

 

 森田さんの声は、遠いのに近かった。

 

 通信の向こうで紙をめくる音がする。第一王城ではない。たぶん移動先の仮設通信室だ。声の後ろに、馬車の軸が鳴る音が混じっていた。

 

「第三中継点、通過しました」

 

「こちらでも確認しました」

 

「礼は言いません」

 

「はい」

 

「礼にすると、あなたが受け取る理由を探してしまうでしょう」

 

 何かを返そうとして、やめた。

 

 森田さんは、そういうところを外さない。

 

「ゴルペホ橋梁線の固定で、第二王子側は予定より三十二分早く南東路へ入りました。敵追撃主力は、少なくとも次の一時間、橋梁線から離れにくい」

 

「一時間」

 

「ええ。一時間です。国が動くには短い。人が死ぬには長い」

 

 通信具の金属が、指先に冷たかった。

 

「森田さん」

 

「何です」

 

「僕は、追撃を止めました」

 

「はい」

 

「でも、止めるために人を殺しています」

 

 言ったあとで、通信具の向こうが少し遠くなった気がした。

 

 その時、自分の手の甲に、精神の文字が薄く滲んだ。SANの形が半分だけ見えて、すぐに消えた。誰かに見せられるものではなかった。

 

 森田さんはすぐには答えなかった。かわりに、紙を一枚閉じる音がした。

 

「それを忘れない人間を、こちらは前に置きます」

 

「前に」

 

「次の段階の話です」

 

 次の段階。

 

 まだ正式な作戦名ではない。

 

 作戦名でもない。

 

 それでも、次の場所の輪郭だけが、通信の中で先に立った。

 

「反攻作戦の準備が進んでいます。あなたの観測、火点運用、撤収判断は、もう補助ではありません。前提になります」

 

「僕は准尉です」

 

「今は」

 

 森田さんの声は、少しも強くない。

 

 だから、逃げ道が細くなる。

 

「第一王城へ上がる報告には、羽黒承の名で入ります。ランドマール殿下も読みます」

 

「部隊名では」

 

「部隊名も入ります。ですが、判断をした者の名前を消すと、次に同じ判断を使えません」

 

 通信具を握る指に、泥が乾いて粉になっていた。

 

 僕の名前が、作戦の道具になる。

 

 名前を消したいと言えば、たぶん森田さんは別の名前をつける。識別番号でも、役職でも、観測班でもいい。けれど、紙の上から僕が消えるわけではない。

 

 消えるのは、僕が責任を取ったという形だけだ。

 

「分かりました」

 

 声は、普通に出た。

 

「ただ、戦果の書き方は、部隊を先にしてください」

 

「それはできます」

 

「あと、敵の戦闘室について」

 

 焦げた外板の報告だけが、机に残っている。

 

「見ましたか」

 

「見ていません」

 

「なら、まだ見なくていい」

 

 森田さんはそこで、ほんの少し声を落とした。

 

「見る順番を間違えると、書けるものも書けなくなります」

 

「書くために見るんですか」

 

「いいえ。戻すために書きます」

 

 その言い方は、たぶん森田さんの癖だ。

 

 でも、今回は腹が立たなかった。

 

 ただ、通信具の向こうにある紙の匂いまで届きそうで、口の中が乾いた。

 

 

 通信が切れると、外の音が戻ってきた。川の水音。遠い砲声。

 

 濡れた布を絞る音。誰かが空の弾箱を足で寄せる音。

 

「羽黒准尉」

 

 下士官が呼んだ。

 

「はい」

 

「撤収順、出してください」

 

 僕は略図を見た。水車小屋跡。坂横火点。

 

 橋側の土嚢。負傷者の担架。捕虜二名。

 

 壊れた短杭。倒れた機甲衝撃兵。

 

 倒れたままのものは、全部戻せるわけではない。

 

「まず負傷者。次に弾薬。三番目に捕虜。短杭は最後でいいです。壊れたものより、歩ける人を先に戻してください」

 

「機甲衝撃兵は」

 

「触りません。敵の回収を待ちます。こちらが近づくと、敵砲兵に理由を渡します」

 

「搭乗者確認は」

 

 鉛筆の先が、紙の上で止まった。確認。見る。

 

 書く。戻す。順番を間違えるなと、森田さんは言った。

 

「今はしません」

 

 声が少し掠れた。

 

「記録は、搭乗者未確認のまま。撤収後、敵回収の有無で判断します」

 

「了解」

 

 下士官が通信へ向き直る。

 

 僕は略図の端に、第三中継点と書かれた小さな丸を見た。

 

 そこから先は、南東路が細く伸びている。水音の先に、まだ道がある。

 

 その道へ、僕は行かない。僕がいるのは、橋梁線だ。

 

 残した火点を畳み、撃たせた橋を数え、名前のついた記録を第一王城へ送る場所だ。

 

 通信兵が新しい紙を差し出した。欄の上に、作戦経過報告、とある。その下に、もう僕の名前が書かれていた。

 

 僕は鉛筆を置き直し、最初の行を書いた。ゴルペホ橋梁線、主要任務達成。まだ誰も、帰り支度を急がせてはいけない。

 

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