ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 七章 二十節
『橋を落とさぬ者は、渡らせた足と、渡らせなかった足を同じ帳に記す。』
撤収は、前進より遅い。
進む時は、先に置いたものを踏んでいけばいい。短杭、土嚢、白布、偽灯、火点。ひとつずつ置けば、戦場は少しずつこちらの形になる。
戻る時は、その逆をしなければならない。
しかも、敵に逆順を見せてはいけない。
「負傷者一、搬送開始」
「弾薬箱二、坂横から後送」
「捕虜二名、拘束確認。歩行可能」
報告が続く。
僕は略図の上で、黒い線を一本ずつ消した。消した場所に、まだ誰かがいるように見える。水車小屋跡、坂横、橋北詰め。そこに置いた札を取るだけで、戦場が軽くなるわけではない。
「坂横、十ミリはまだ残してください。弾箱だけ先に戻します」
「坂横、了解」
「捕虜は橋側を通さないでください。水車小屋跡の後ろから回して、担架列と混ぜない」
「捕虜、別路」
「短杭は最後です。壊れたものも拾えるなら拾います。ただし、人が戻るより先に拾わないでください」
通信兵が復唱する。
僕の声は、まだ普通に出ていた。
普通に出ることが、少し嫌だった。
第三中継点を通したあとでも、僕の口は撤収順を並べられる。戦闘室の灯が消えたあとでも、鉛筆は紙の上で止まらない。
止まったら、戻れない人が出る。
だから止めない。
それだけの話にしたかった。
✶
橋北詰めには、敵砲弾の跡が残っていた。
石畳が二枚割れ、泥水がその下からにじんでいる。欄干は半分だけ欠けていたが、車輪は通れる。人も通れる。馬は少し嫌がるかもしれない。
橋は落ちていない。
その事実だけで、工兵の一人が小さく息を吐いた。
「直せます」
片耳の工兵だった。声は掠れているが、目は橋の継ぎ目を追っている。
「どれくらいで」
「仮なら半日。荷車を通すだけなら、夜までに板を渡せます」
「正式修理は」
「王都の石工と、通行権の紙次第です」
戦争中でも、紙は残る。
橋を落とせば早かった。
落とさなかったから、誰かが後で紙を書く。
それを面倒だと言えるほど、僕はこの橋を知らない。
「橋側、土嚢二つを残してください。壊れたものだけでいいです。新しいものは戻します」
「敵に見せる用ですか」
「はい。ここにまだ意味があるように見せます」
工兵はうなずき、壊れた土嚢を二つ、橋の北詰めへ置いた。濡れた麻袋から砂がこぼれ、泥と混じる。
意味のある残骸。
中身のない火点。
人のいない場所を、人がいた場所として残す。
そういう嘘なら、もういくつもついた。
✶
捕虜二名は、黙って歩いた。
一人は肩を押さえている。もう一人は、左足を引きずっていた。
肩を押さえる方の爪には、黒い油が残っている。
左足を引きずる方は、腰の工具袋をまだ外していない。
制服の泥と血がなければ、どこかの工房帰りにも見えた。
年齢は、僕たちと大きく変わらない。片方の頭上に、ラベルが滲んだ。生命。
まだゼロではない。その横に、細い線が重なる。SAN。
数字は読めない。文字だけが、煙に混じった傷のように見えた。
捕虜は僕を見ていない。前だけを見ている。彼の口元が少し動いたが、言葉にはならなかった。
「止めますか」
護送兵が聞いた。
「いいえ。歩けるうちに下げてください。水は、後方接続点で」
「了解」
水を運ばせた。戦闘室の中の人は、もう欲しがらないだろう。
それでも、運ばせた。
捕虜が通り過ぎたあと、地面に小さな血の点が残った。雨はまだ降っていない。点はしばらく残る。
後で、誰かが踏む。
✶
機甲衝撃兵は、まだ坂に沈んでいた。
敵の回収班は来ない。
来られないのか、来ないと決めたのかは分からない。二体目は林の奥へ下がったまま、盾だけをこちらへ向けている。結界の面は薄く白い。無理に近づけば、また砲兵の理由になる。
「搭乗者確認、まだ保留で」
僕は言った。
「保留、継続」
通信兵が書く。
未確認。
保留。
言葉は便利だ。見ていないものを、見ていないまま紙に置ける。
その便利さに、今日は助けられた。
同時に、少し嫌な気分にもなった。
「坂横火点、十ミリ撤収できます」
「弾帯は」
「残弾、二十七。回収済み」
「では、十ミリを下げてください。銃架は壊さず。布をかけて、二人で運ぶ」
「二人で足りますか」
下士官が聞いた。
「足りなければ四人で」
「羽黒准尉、少し休んでください」
「撤収が終わったら。休む順番表があるなら、後で見せてください」
「それ、終わらない人の言い方です」
下士官の口調は軽い。けれど、目は略図を見ている。こちらの顔ではなく、僕の手元だ。
僕は鉛筆を持つ手を見た。
指は震えていなかった。
朝から眠っていない。食事も、乾いた保存パンを半分だけだ。それなのに、指は動く。鉛筆も軽い。さっき持ち上げた空ではない弾箱も、予想した重さより少し早く肩から離れた。
濡れた鉄板に、自分のヘルメットがぼんやり映った。
頭上のあたりに、文字の欠けが見えた。STR。数字はない。
すぐに消えた。水滴が落ち、映りが崩れる。
「羽黒准尉?」
「何でもありません」
口の中が冷たかった。
見間違いで片づけたかった。
でも、見間違いなら、なぜ胸の奥だけが遅れて重くなるのか。
✶
最後に戻したのは、壊れた短杭だった。
マギブレイクの青い光はもうない。泥を噛んだ木片と、曲がった金具だけが残っている。工兵が一本ずつ袋へ入れる。使えないものも、数える。壊れたものを数えなければ、次に何本作るか分からない。
「短杭、回収四。損耗二」
「記録。短杭回収四、損耗二」
「偽灯、回収一。破損二」
「偽灯、回収一、破損二」
「負傷者、全員後送」
通信兵の声が、そこだけ少し明るくなった。
「記録。負傷者、全員後送」
全員。こちら側の全員。その条件をつけないと、嘘になる。
僕は紙に、味方負傷者後送完了、と書いた。敵負傷者二名拘束。敵機甲衝撃兵一、戦闘不能。
搭乗者未確認。橋本体、通行可能。火点、撤収済み。
書いていくと、戦場が薄くなった。薄くなっただけで、消えたわけではない。
✶
下士官は、最後の弾箱に腰を下ろしていた。
撤収列はもう動き始めている。後方接続点へ向かう道に、車輪の跡が二本伸びていた。橋梁線の上には、壊れた土嚢と、砲弾の跡と、敵の機甲衝撃兵だけが残っている。
「昔から、そう言う奴がいます」
下士官が急に言った。
「何をですか」
「英雄は、血の後に強くなるって話です」
僕は返事をしなかった。
下士官は、こちらを見ずに続ける。
「本当かは知りません。酒場の与太かもしれないし、古い騎士の自慢話かもしれない。ただ、生き残った強い奴は、たいてい多く殺してる」
風が川の方から吹いた。
湿った石と、火薬と、泥の匂いが混じる。
「それは、経験の話では」
「そうかもしれません」
下士官は手袋の縁を引いた。火傷の跡のある右手が、少し遅れて動く。
「ただ、戦場じゃ、経験と別のものを分ける暇はありません。強くなった奴は、強くなったと扱われる」
「扱われる」
「はい。理由は後からつきます」
僕は濡れた鉄板を見ないようにした。STR。欠けた文字。
軽くなった鉛筆。戦闘室の灯。
それらが同じ紙の上に置かれるのは、嫌だった。
「僕は、英雄ではありません」
「今は、そう言えるでしょうね」
下士官の声には、からかいがなかった。
「でも、上がそう呼び始めたら、呼び名の方が先に歩きます」
撤収列の先で、誰かが僕の名前を呼んだ。羽黒。
准尉ではなく、名前だった。僕は立ち上がった。
膝に力を入れると、思ったよりまっすぐ立てた。それが、少し気味悪かった。
「後方接続点へ戻ります」
「了解」
下士官が弾箱から腰を上げる。橋は落ちていない。火点は消えた。
敵は追えなかった。こちらは戻る。それだけなら、良い報告になる。
僕は作戦経過報告を胸元の防水袋へ入れた。袋の中で、紙が一度だけ折れる音を立てた。
そこには、僕の名前がある。戦果の欄にも、たぶんもうすぐ入る。
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