ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

135 / 177
七章二十話 畳まれた橋

《王録》 七章 二十節

『橋を落とさぬ者は、渡らせた足と、渡らせなかった足を同じ帳に記す。』

 

 撤収は、前進より遅い。

 

 進む時は、先に置いたものを踏んでいけばいい。短杭、土嚢、白布、偽灯、火点。ひとつずつ置けば、戦場は少しずつこちらの形になる。

 

 戻る時は、その逆をしなければならない。

 

 しかも、敵に逆順を見せてはいけない。

 

「負傷者一、搬送開始」

 

「弾薬箱二、坂横から後送」

 

「捕虜二名、拘束確認。歩行可能」

 

 報告が続く。

 

 僕は略図の上で、黒い線を一本ずつ消した。消した場所に、まだ誰かがいるように見える。水車小屋跡、坂横、橋北詰め。そこに置いた札を取るだけで、戦場が軽くなるわけではない。

 

「坂横、十ミリはまだ残してください。弾箱だけ先に戻します」

 

「坂横、了解」

 

「捕虜は橋側を通さないでください。水車小屋跡の後ろから回して、担架列と混ぜない」

 

「捕虜、別路」

 

「短杭は最後です。壊れたものも拾えるなら拾います。ただし、人が戻るより先に拾わないでください」

 

 通信兵が復唱する。

 

 僕の声は、まだ普通に出ていた。

 

 普通に出ることが、少し嫌だった。

 

 第三中継点を通したあとでも、僕の口は撤収順を並べられる。戦闘室の灯が消えたあとでも、鉛筆は紙の上で止まらない。

 

 止まったら、戻れない人が出る。

 

 だから止めない。

 

 それだけの話にしたかった。

 

 

 橋北詰めには、敵砲弾の跡が残っていた。

 

 石畳が二枚割れ、泥水がその下からにじんでいる。欄干は半分だけ欠けていたが、車輪は通れる。人も通れる。馬は少し嫌がるかもしれない。

 

 橋は落ちていない。

 

 その事実だけで、工兵の一人が小さく息を吐いた。

 

「直せます」

 

 片耳の工兵だった。声は掠れているが、目は橋の継ぎ目を追っている。

 

「どれくらいで」

 

「仮なら半日。荷車を通すだけなら、夜までに板を渡せます」

 

「正式修理は」

 

「王都の石工と、通行権の紙次第です」

 

 戦争中でも、紙は残る。

 

 橋を落とせば早かった。

 

 落とさなかったから、誰かが後で紙を書く。

 

 それを面倒だと言えるほど、僕はこの橋を知らない。

 

「橋側、土嚢二つを残してください。壊れたものだけでいいです。新しいものは戻します」

 

「敵に見せる用ですか」

 

「はい。ここにまだ意味があるように見せます」

 

 工兵はうなずき、壊れた土嚢を二つ、橋の北詰めへ置いた。濡れた麻袋から砂がこぼれ、泥と混じる。

 

 意味のある残骸。

 

 中身のない火点。

 

 人のいない場所を、人がいた場所として残す。

 

 そういう嘘なら、もういくつもついた。

 

 

 捕虜二名は、黙って歩いた。

 

 一人は肩を押さえている。もう一人は、左足を引きずっていた。

 

 肩を押さえる方の爪には、黒い油が残っている。

 

 左足を引きずる方は、腰の工具袋をまだ外していない。

 

 制服の泥と血がなければ、どこかの工房帰りにも見えた。

 

 年齢は、僕たちと大きく変わらない。片方の頭上に、ラベルが滲んだ。生命。

 

 まだゼロではない。その横に、細い線が重なる。SAN。

 

 数字は読めない。文字だけが、煙に混じった傷のように見えた。

 

 捕虜は僕を見ていない。前だけを見ている。彼の口元が少し動いたが、言葉にはならなかった。

 

「止めますか」

 

 護送兵が聞いた。

 

「いいえ。歩けるうちに下げてください。水は、後方接続点で」

 

「了解」

 

 水を運ばせた。戦闘室の中の人は、もう欲しがらないだろう。

 

 それでも、運ばせた。

 

 捕虜が通り過ぎたあと、地面に小さな血の点が残った。雨はまだ降っていない。点はしばらく残る。

 

 後で、誰かが踏む。

 

 

 機甲衝撃兵は、まだ坂に沈んでいた。

 

 敵の回収班は来ない。

 

 来られないのか、来ないと決めたのかは分からない。二体目は林の奥へ下がったまま、盾だけをこちらへ向けている。結界の面は薄く白い。無理に近づけば、また砲兵の理由になる。

 

「搭乗者確認、まだ保留で」

 

 僕は言った。

 

「保留、継続」

 

 通信兵が書く。

 

 未確認。

 

 保留。

 

 言葉は便利だ。見ていないものを、見ていないまま紙に置ける。

 

 その便利さに、今日は助けられた。

 

 同時に、少し嫌な気分にもなった。

 

「坂横火点、十ミリ撤収できます」

 

「弾帯は」

 

「残弾、二十七。回収済み」

 

「では、十ミリを下げてください。銃架は壊さず。布をかけて、二人で運ぶ」

 

「二人で足りますか」

 

 下士官が聞いた。

 

「足りなければ四人で」

 

「羽黒准尉、少し休んでください」

 

「撤収が終わったら。休む順番表があるなら、後で見せてください」

 

「それ、終わらない人の言い方です」

 

 下士官の口調は軽い。けれど、目は略図を見ている。こちらの顔ではなく、僕の手元だ。

 

 僕は鉛筆を持つ手を見た。

 

 指は震えていなかった。

 

 朝から眠っていない。食事も、乾いた保存パンを半分だけだ。それなのに、指は動く。鉛筆も軽い。さっき持ち上げた空ではない弾箱も、予想した重さより少し早く肩から離れた。

 

 濡れた鉄板に、自分のヘルメットがぼんやり映った。

 

 頭上のあたりに、文字の欠けが見えた。STR。数字はない。

 

 すぐに消えた。水滴が落ち、映りが崩れる。

 

「羽黒准尉?」

 

「何でもありません」

 

 口の中が冷たかった。

 

 見間違いで片づけたかった。

 

 でも、見間違いなら、なぜ胸の奥だけが遅れて重くなるのか。

 

 

 最後に戻したのは、壊れた短杭だった。

 

 マギブレイクの青い光はもうない。泥を噛んだ木片と、曲がった金具だけが残っている。工兵が一本ずつ袋へ入れる。使えないものも、数える。壊れたものを数えなければ、次に何本作るか分からない。

 

「短杭、回収四。損耗二」

 

「記録。短杭回収四、損耗二」

 

「偽灯、回収一。破損二」

 

「偽灯、回収一、破損二」

 

「負傷者、全員後送」

 

 通信兵の声が、そこだけ少し明るくなった。

 

「記録。負傷者、全員後送」

 

 全員。こちら側の全員。その条件をつけないと、嘘になる。

 

 僕は紙に、味方負傷者後送完了、と書いた。敵負傷者二名拘束。敵機甲衝撃兵一、戦闘不能。

 

 搭乗者未確認。橋本体、通行可能。火点、撤収済み。

 

 書いていくと、戦場が薄くなった。薄くなっただけで、消えたわけではない。

 

 

 下士官は、最後の弾箱に腰を下ろしていた。

 

 撤収列はもう動き始めている。後方接続点へ向かう道に、車輪の跡が二本伸びていた。橋梁線の上には、壊れた土嚢と、砲弾の跡と、敵の機甲衝撃兵だけが残っている。

 

「昔から、そう言う奴がいます」

 

 下士官が急に言った。

 

「何をですか」

 

「英雄は、血の後に強くなるって話です」

 

 僕は返事をしなかった。

 

 下士官は、こちらを見ずに続ける。

 

「本当かは知りません。酒場の与太かもしれないし、古い騎士の自慢話かもしれない。ただ、生き残った強い奴は、たいてい多く殺してる」

 

 風が川の方から吹いた。

 

 湿った石と、火薬と、泥の匂いが混じる。

 

「それは、経験の話では」

 

「そうかもしれません」

 

 下士官は手袋の縁を引いた。火傷の跡のある右手が、少し遅れて動く。

 

「ただ、戦場じゃ、経験と別のものを分ける暇はありません。強くなった奴は、強くなったと扱われる」

 

「扱われる」

 

「はい。理由は後からつきます」

 

 僕は濡れた鉄板を見ないようにした。STR。欠けた文字。

 

 軽くなった鉛筆。戦闘室の灯。

 

 それらが同じ紙の上に置かれるのは、嫌だった。

 

「僕は、英雄ではありません」

 

「今は、そう言えるでしょうね」

 

 下士官の声には、からかいがなかった。

 

「でも、上がそう呼び始めたら、呼び名の方が先に歩きます」

 

 撤収列の先で、誰かが僕の名前を呼んだ。羽黒。

 

 准尉ではなく、名前だった。僕は立ち上がった。

 

 膝に力を入れると、思ったよりまっすぐ立てた。それが、少し気味悪かった。

 

「後方接続点へ戻ります」

 

「了解」

 

 下士官が弾箱から腰を上げる。橋は落ちていない。火点は消えた。

 

 敵は追えなかった。こちらは戻る。それだけなら、良い報告になる。

 

 僕は作戦経過報告を胸元の防水袋へ入れた。袋の中で、紙が一度だけ折れる音を立てた。

 

 そこには、僕の名前がある。戦果の欄にも、たぶんもうすぐ入る。

 

――――――――

 

面白かったら、下記のリンクから評価やレビューをいただけると嬉しいです。

https://kakuyomu.jp/works/822139841314440520/reviews

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。