ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 七章 二十一節
『印は名を褒めず、ただ次に開く扉を重くする。』
後方接続点に戻ると、火の匂いがした。
炊事の火ではない。濡れた布を乾かすための小さな火だ。煙は低く、天幕の端をなぞって流れている。そこに泥と薬莢の金属臭が混じると、食堂ではなく、戦場の裏口の匂いになる。
僕は防水袋から作戦経過報告を出した。紙は折れていたが、字は読める。ゴルペホ橋梁線、主要任務達成。
第二王子側移動隊、第三中継点通過。敵追撃主力、橋梁線に固定。敵砲兵、射撃密度低下。
味方負傷者、後送完了。捕虜二名、後送。敵機甲衝撃兵一、戦闘不能。
搭乗者未確認。書けば、整う。整うほど、抜けるものがある。
橋北詰めの水音も、壊れた土嚢の砂も、戦闘室の中で灯が消えたかどうかも、ここには入らない。
「羽黒准尉」
通信兵が天幕の外から顔を出した。
「第一王城系の回線が開きます。森田文書顧問と、軍務局の書記官が入ります」
「今ですか」
「今です」
声に少し疲れが混じっていた。
僕は報告紙をそろえ、通信卓へ向かった。
✶
森田さんの声は、先に来た。
「羽黒、報告は読みました」
「まだ送ったばかりです」
「今、読み終えました」
それ以上は説明しない声だった。
通信具の向こうで、別の声が続く。書記官だ。第一王城の書記官は、息継ぎの位置まで紙の罫線に合わせているように聞こえる。
「ゴルペホ橋梁線足止め作戦における臨時任務報告、確認。現場指揮補助、観測連絡、火点撤収順決定、敵砲兵誘導、捕虜後送、以上の判断者名を、羽黒承准尉として記録しました」
「部隊名を先に」
僕は言った。
森田さんが、短く返す。
「部隊名は先にあります」
書記官が続けた。
「ただし、今後同種の作戦判断を参照するため、個別判断者名を併記します」
参照。次に使うための名前。
下士官の言葉が、また戻ってきた。理由は後からつきます。
「羽黒准尉」
書記官の声が、わずかに硬くなった。
「連合王国軍務局臨時権限により、貴官を少尉相当へ任じます。正式辞令は第一王城軍務局印章をもって後送。現時点より、ゴルペホ橋梁線作戦群から反攻準備連絡班への転属処理を開始します」
少尉。
言葉は短い。
短いのに、天幕の中の空気が一段下がった。
通信兵が僕を見る。下士官も、入口のところで動きを止めている。誰かが水筒の蓋を閉めそこね、金属が小さく鳴った。
「理由を確認してもいいですか」
「戦果、判断継続性、現場通信上の識別、次作戦における命令権整理です」
書記官は、ためらわない。
「褒賞ではありません」
森田さんが言った。
「ええ」
「あなたを褒めるためではない。次に使うためです」
その方が、まだ受け取れる。
褒められたら、たぶん口が動かなかった。
「分かりました」
「分かっただけでは足りません」
森田さんの声は、低い。
「次から、あなたの命令で動ける兵が増えます。今は数十人規模ですが、反攻準備連絡班では、もう一段上がります。あなたの判断を待つ書類も増えます。あなたの名前で通る弾薬も、あなたの名前で戻らない担架も出ます」
通信具の金属が、手の中で冷える。
「はい」
それしか言えなかった。
✶
任官の通知が終わったあと、別の紙が渡された。
転属処理。
反攻準備連絡班。
前線観測、撤収判断、補給接続、捕虜・負傷者記録の暫定責任者。
欄が増えている。増えた欄の分だけ、僕が見るものも増える。通信兵が、古い階級欄を線で消した。
准尉。その横に、少尉相当、と書き込む。字は普通だった。
僕の体だけが、その字を少し遅れて受け取った。
「おめでとうございます、と言うべきですか」
通信兵が聞いた。
「言わないでください」
「では、処理完了です」
「それでお願いします」
通信兵はうなずいた。その処理の軽さに、少し救われた。おめでとうではない。
処理。それなら、紙の上に置ける。
「羽黒少尉」
下士官が呼んだ。
呼び方だけが、もう変わっていた。
「はい」
「撤収列、全隊後方接続点へ入りました。橋梁線の残置物は、土嚢二、偽灯破片、敵機甲衝撃兵一」
「敵回収は」
撤収列の印は、作戦図の外まで下がっていた。
「まだです」
「記録は未確認のままで」
「了解」
少尉になって最初の命令が、見ないままにすることだった。
それは、たぶん正しい。
正しい命令は、胸の中を軽くしない。
✶
捕虜の一人が、救護天幕の外で座っていた。
肩を押さえていた方だ。包帯は巻かれている。水も渡されている。逃げられないように、足首には細い鎖がついていた。
僕が近づくと、護送兵が姿勢を正した。
「尋問ですか」
「違います。状態確認だけです」
捕虜の頭上には、まだ `生命` があった。
その横に `SAN` が滲む。
数字は読めない。輪郭が揺れている。薬のせいか、痛みのせいか、僕の側の疲労のせいかは分からない。
捕虜は、こちらを見上げた。
唇が乾いて、割れている。
「俺は、あいつを押しただけだ」
彼は、そう言った。
王国語は少し崩れていたが、意味は分かった。
護送兵が眉を寄せる。
「誰の話だ」
「俺は、押しただけだ。撃ったのは後ろだ。命令したのは、もっと後ろだ」
捕虜の声は、怒っていない。
むしろ、誰かに確認してほしいようだった。
「なのに、腕が痛い」
彼は包帯の巻かれていない方の腕を見た。
「あいつの腕だ。俺のじゃない」
護送兵が一歩近づこうとした。
「待ってください」
僕は止めた。
捕虜の `SAN` が一瞬だけ濃くなる。
それから、横へずれた。
ずれた先に、もう一つ、薄い反応があった。捕虜本人のものではない。近くに立っていた記録係の頭上だ。彼は何もしていない。ただ捕虜の番号を書いていただけだ。
それなのに、彼が自分の腕を押さえた。
「どうしました」
「いえ、少し」
記録係は首を振った。
「痺れただけです」
捕虜は笑わなかった。
泣きもしなかった。
「俺は、押しただけなんだ」
同じ言葉を、もう一度言った。
✶
武田哲弥は、救護天幕の影に立っていた。
いつからいたのかは分からない。彼は、こちらへ歩いて来る時も、足音をあまり立てない。
「羽黒少尉」
「まだ慣れません」
「慣れるでしょう」
「嫌な言い方ですね」
「呼ばれる回数は増えます」
哲弥は捕虜を見た。
それから、腕を押さえている記録係を見た。
「あれ、何ですか」
僕が聞くと、哲弥は少し目を細めた。
「問いです」
「能力ではなく?」
「能力でもあります。でも、先に問いです」
哲弥は、天幕の支柱に触れた。布越しに、外の火の赤が薄く透けている。
「誰かを押した人。撃った人。命令した人。番号を書いた人。水を渡した人。どこまでが同じ卵の中ですか」
「同じ卵」
「たとえ話です」
哲弥の声は平らだった。
「他人に与えたものが、どこかで返る。そういう仕組みがあれば、人は少し慎重になる。少なくとも、そう思っていました」
彼は捕虜から目を離した。
「でも、繋ぎ方を変えれば、別の使い方ができます」
「別の」
「誰かを間に挟む。距離を調整する。少し返るようにする。痛すぎないけど、逆らう気はなくなるくらいに」
言葉は静かだった。
静かな分だけ、嫌な形が見えた。
「哲弥」
「まだ、そこまで行っていません」
彼は先に言った。
「でも、行けます。行けてしまう」
救護天幕の中で、捕虜がまた腕を押さえた。記録係も、同じ場所を押さえた。ほんの少し遅れて。
僕の頭上には、何も出ない。出ないことが、かえって気持ち悪かった。
✶
夜になる前に、第一王城へ送る正式報告の控えができた。
そこには、少尉相当任官の追記が入っている。
羽黒承。ゴルペホ橋梁線。主要任務達成。
反攻準備連絡班へ転属。字は乾いている。僕は控えを読んで、折った。
外では、撤収列の最後尾が後方接続点の柵を越えていた。橋梁線は、もう見えない。水音だけが、まだ耳の奥に残っている。
少尉になった。敵を止めた。味方を戻した。誰かを殺した。
その順番で書けば報告になる。少し強くなったのかもしれない、と挟めば、たぶん別のものになる。
森田さんから、最後の通信が入った。
「羽黒少尉。反攻準備連絡班は明朝、北側作戦図の確認に入ります」
「明朝」
「ええ。休める時に休んでください」
休める時。
天幕の外で、誰かが僕の新しい階級を呼んだ。
羽黒少尉。
呼び名は、もう先に歩いている。
「はい。少尉はここにいます」
外で、短い笑いが一つだけ返った。
返事をしてから、手の中の鉛筆を見た。
やっぱり少し軽かった。
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