ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 七章 二十二節
『痛みを返す秤は、誰の手に載せるかで罰にも檻にもなる。』
2376- ゴルペホ後方接続点 武田哲弥視点
武田哲弥は、救護天幕の外に出た。
煙が低い。
湿った布を乾かす火の煙だ。肉を焼く匂いではない。それでも、戦場の後では似た場所に届く。鼻の奥がそれを間違えかけて、哲弥は息を浅くした。
捕虜の声は、まだ耳に残っている。俺は、押しただけだ。撃ったのは後ろだ。
命令したのは、もっと後ろだ。それは言い訳だった。同時に、言い訳だけでもなかった。
戦場では、ひとつの加害に手が多すぎる。押した者、撃った者、命じた者、弾を運んだ者、番号を書いた者、水を渡した者。誰かひとりだけを指せば、残りの手が見えなくなる。
だから哲弥は、問いを形にした。
他者に与えた痛みは、どこまで自分へ返るべきか。
返らなければ、人は簡単に踏む。返りすぎれば、人は動けない。その間に、線を置く。
防衛のための線だった。少なくとも、最初は。
✶
軍務局の術式官が、仮設卓の前に座っていた。
名前は聞いていない。聞かなくていい。彼は名前より先に、木箱を開けた。中には小さな銅板が三枚入っている。銅板には細い溝が刻まれていて、魔導線を通すための穴が左右にある。
銅板の一枚は、すでに泥で汚れていた。
新品ではない。
使われた後だった。
「武田殿」
「殿は要りません」
「では、武田さん。先ほどの現象ですが、距離による減衰はありますか」
術式官は、紙に円を描いた。中心に捕虜。その外側に護送兵。
さらに外側に記録係。円は綺麗だった。綺麗な円ほど、嫌な予感がする。
「あります」
「関係性による差は」
「あります」
「閾値は」
哲弥は、そこで術式官を見た。
術式官の指は止まらない。円の外へ、もう一本線を引く。
「痛みが常時返るなら、兵は動けません。しかし、一定以上の影響を与えた時だけ返るなら、制御できます」
「制御」
「ええ。尋問の過剰抑制、虐待の防止、暴動時の相互加害抑止。用途は多い」
言葉は正しかった。
正しい言葉は、時々、刃の柄に布を巻く。
「それは、人を守る使い方ですか」
「もちろんです」
術式官はすぐに答えた。
すぐ答えられることが、哲弥には少し怖かった。
「ただ、配置は要ります。密集地では返りが強く、通常生活区域では弱く。そうしなければ都市は回りません」
密集地。
通常生活区域。
彼の紙の上で、人間が場所になっていく。
「作ったんですか」
術式官の指が止まった。
止まったあとで、別の紙を出した。
そこには、臨時拘束区、第三柵内、試験配置、と書かれていた。
「治安維持の試験です」
「いつ」
「先ほどです」
哲弥の舌に、鉄の味がした。先ほど。捕虜が腕を押さえた時。
記録係が、同じ場所を押さえた時。あれは、偶然ではなかった。もう試されていた。
「集まると苦しくなる場所を作ったんですか」
「暴動を防げます」
「集会も防げます」
術式官は、欄外に小さく印を足した。用途を後から分類する手つきだった。
「そこは、法で定義します」
哲弥の舌に、鉄の味がした。法で定義する。反体制行動は、他者への影響。
統治への協力は、社会への貢献。そう書けば、装置はそれに従う。
原理は変わっていない。だからこそ、逃げ道がない。
✶
別の術式官が、銅板を二枚並べた。
「中継すれば、どうなります」
「中継」
「市民、監視員、治安部隊、被拘束者。こう繋いだ場合です」
哲弥は黙った。術式官は、銅板の穴に細い線を通す。市民A。
監視員。治安部隊。
被拘束者。紙に書かれた四つの点が、線で結ばれる。
「直接の加害者に返る負荷は軽くなります。ですが、総体としての苦痛は発生する」
「これも試したんですか」
別の術式官は、木箱の底から薄い紙束を出した。
拘束区記録。監視員二名。治安兵四名。
被拘束者一名。負荷分散、良好。
良好。その文字だけ、インクが濃かった。
「短時間です」
「誰も、自分がやったと言わなくて済みますね」
哲弥が言うと、術式官は少し考えた。
「責任の分散とも言えます」
「責任の消去です」
「言い方の問題でしょう」
「いいえ」
哲弥は、卓の上の銅板を見た。
銅は鈍く光っている。小さい。手のひらに乗る。こんなものが、人間を繋ぐ道具になる。
「痛みが返るなら、人は加害をやめる。そういう仕組みでした」
「はい」
「でも、もう誰かを挟んだ。自分は少ししか痛くない。最後に受ける人間を決めれば、他の人は生活できる」
術式官は答えない。答えないことが、答えだった。代理接続。
受け皿。囚人。異端者。
敵性協力者。言葉はいくらでも作れる。
痛みを背負わせる相手にも、きっと名前がつく。
名前がつけば、制度になる。
✶
哲弥は、水桶の前で手を洗った。
泥は落ちた。
爪の間の黒さは少し残った。
救護天幕の中で、捕虜がまた腕を押さえている。記録係は、もう腕を押さえていなかった。代わりに、手首を回しながら何度も紙を見ている。
薄く返る。薄いから、働ける。薄いから、文句を言えない。
致命的ではない。耐えられる。だから、逆らう理由が弱くなる。
それは、加害を止める仕組みではなかった。加害の形を、扱いやすくする仕組みだった。
「武田」
羽黒の声がした。
少尉になったばかりの声だ。まだ呼び方の方が、本人より先に歩いている。
「大丈夫ですか」
羽黒が聞いた。
哲弥は濡れた手を振った。
「大丈夫ではないですね」
「何が見えました」
「使われた跡です」
羽黒はそこで口を閉じた。急かさない。
それが、今はありがたくなかった。急かされれば、怒れた。
急かされなければ、自分で言わなければならない。
「僕は、防ぐために考えたんです」
哲弥は言った。
「誰かを殴れば、少しは自分に返る。だから、人は殴る前に止まる。そういう仕組みなら、戦場の外で役に立つかもしれない」
「はい」
「でも、置き方を変えたら、もう逆になっていました」
水桶の表面に、天幕の火が揺れている。
「集まれば苦しい。従えば楽。無関心なら安全。誰も強制されていないように見える。なのに、誰も逆らえない」
羽黒は、すぐには答えなかった。
その間に、救護天幕の中で捕虜が短く呻いた。
哲弥の腕には、何も返ってこない。
それがさらに嫌だった。
✶
夜の後方接続点で、哲弥は銅板を一枚だけ預かった。
術式官は渋ったが、森田の名が出ると引いた。森田はこういう時、紙より先に人を動かす。
銅板は軽い。軽いから、持ち運べる。
持ち運べるから、広がる。哲弥はそれを布で包んだ。
壊すのは簡単だ。踏めば曲がる。火に入れれば歪む。川に捨てれば、しばらくは使えない。
でも、原理は消えない。自分の中にある。問いとして。
能力として。呪いとして。だから、止めるなら銅板ではない。
自分の側だ。まだ止められない。止め方も分からない。
けれど、もう誰かが、この問いを柵の中に置いた。
都市の形にする前に、止めなければならない。
哲弥は布の結び目を強くした。
同じ卵の内側にいるのなら、外側へ苦痛を捨てることはできない。
それを証明したかった。
今は、その証明が、外側を作る道具として使われ始めている。
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