ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 八章 一節
『階を一つ上がる者の靴から、泥だけが先に落ちることはない。』
ゴルペホ橋梁線後方の指揮天幕で、朝は地図の上から始まった。
眠った時間は分からない。天幕の柱にもたれて目を閉じ、次に開けた時には、外の火が消えていた。濡れた布の匂いだけが残り、代わりに温い湯の入った杯が机の端に置かれていた。
誰が置いたのかは分からない。
礼を言う相手がいない湯は、少し飲みにくい。
「羽黒少尉」
通信兵が入口で呼んだ。
少尉。
まだ、別の誰かを呼ぶ言葉に聞こえる。
「はい」
「北側作戦図の確認が始まります。森田文書顧問、軍務局書記官、砲兵連絡、工兵連絡、補給連絡が入ります」
「多いですね」
通信台の周りで、椅子を引く音が続いた。
「少尉が見る範囲です」
「では、朝から広いですね」
「広いです」
「狭いよりは、迷子が少なくて済むことにしましょう」
通信兵が、ほんの少し息を抜いた。
僕もそこで止めた。
机の上には、昨日より大きな地図が広げられていた。ゴルペホ橋梁線だけではない。南東路、第三中継点、その先の補給集積所、さらに北側へ張り出す敵主力の推定線まで入っている。見る範囲が広がっても、やることは同じだ。味方が戻れる線を残す。
地図の端に、僕の名前があった。
反攻準備連絡班。
羽黒承少尉相当。
相当、という二文字が、少し逃げ道に見えた。
けれど、紙の上では逃げ道も欄の中に入る。
✶
森田さんは、通信の向こうで最初に言った。
「昨日までのあなたは、橋梁線の中で判断していました」
「はい」
「今日からは、橋梁線の外も見ます」
地図の上で、森田さんの言葉が広がる。ゴルペホ橋梁線。南東路。
第三中継点。北側作戦域。補給集積所。
砲兵陣地。負傷者収容線。見れば見るほど、戻す場所が増える。
「反攻作戦は、まだ発令ではありません」
軍務局書記官が続けた。
「準備段階です。ですが、敵追撃主力を橋梁線に固定したことで、北側の圧力が一時的に下がりました。この隙に、こちらは部隊を組み直します」
「再編ですか」
「はい」
再編。その欄の下には、転移者班、残存、医療保留、行方確認中と並んでいた。
名前を全部並べる前に、僕は地図の端を見た。そこには、転移者班、残存、医療保留、行方確認中、という欄がある。
僕は三郷たちの名前を探し、見つけた順に鉛筆で印をつけた。四人目で芯が折れた。
「羽黒少尉」
森田さんが呼んだ。
「聞いています」
「あなたには、転移者班再編の観測側確認にも入ってもらいます」
「僕が」
「あなたの数字は、死傷確認だけではありません。疲労、恐慌、戦闘継続の可否。全部ではなくても、候補を出せる」
候補。確定ではない。外した時に謝る相手は、紙ではなく人になる。
「万能ではありません」
「知っています」
「誤読します」
「だから、現物と第三者確認を入れます」
森田さんは、こちらが言う前に道を塞いでいく。
塞ぐというより、逃げ道まで仕事に変えていく。
「井上希望と沢渡澄人を、補助線に入れます」
その名前で、少し息が変わった。
後輩。
王城でも、戦場でもない場所の記憶を持っている名前。
「希望の能力は、少し前の位置しか見えません」
「だから使います。現在位置そのものを断定しない。あなたの数字と、井上の少し前の位置と、沢渡の現場確認を合わせる」
地図の上に、三つの線が引かれた。今見えている数字。少し前の位置。
現物確認。三本とも、一本では足りない。足りないから、組む。
✶
補給連絡の下士官が、箱の数を読み上げた。
「徹甲小銃弾、残り二十七箱。十ミリ通常弾、四十一箱。二十ミリ、十二箱。魔導冷却液、七本。マギブレイク短杭、使用可能十八、修理待ち九」
数字が並ぶ。弾薬の数字は、まだ楽だった。使えば減る。
運べば増える。間違えれば、誰かが撃てなくなる。分かりやすい残酷さだ。
「負傷者は」
「軽傷二十一。中等症七。重傷三。搬送中一」
そこで、地図の端が少し滲んだ。生命。
精神。それぞれの欄の横に、薄い数字が混じる。
重傷三のうち一つだけ、`HP` の輪郭が見えた。
数字は読めない。
読めないのに、低いことだけは分かる。
喉の奥が乾いた。
「重傷三のうち、一名は搬送順を上げてください」
補給下士官が紙を見る。
「医療側では二番目です」
「一番目の人は、今すぐ動かすと危ないです。二番目を先に動かして、その間に一番目の固定を増やしてください」
言い終えてから、医療班の返事を待った。短い確認が二つ入る。骨固定。
担架変更。搬送順入れ替え。地図ではなく、人の体が動く。
「羽黒少尉の判断で記録します」
「医療班との共同判断で」
「併記します」
併記。
また名前が残る。
正しい修正をしても、名前は消えない。
✶
昼前、井上希望が天幕へ来た。
沢渡澄人も一緒だった。
希望は入口で一度だけ足を止めた。僕の階級章を見て、口を開きかけ、閉じる。中学の頃、職員室の前で先生に呼ばれた時と同じ止まり方だった。
「羽黒先輩」
「そのままでいいよ」
「少尉って呼んだ方がいいですか」
「仕事中だけで」
呼び方を試すたび、後輩の声が少し固くなる。
「それ以外で呼ばれると、僕が先に迷います」
「じゃあ、休憩中は先輩で」
「はい。そちらの方が、僕も転ばずに済みます」
希望は少し笑った。笑い方は控えめで、王城の廊下で初めて会った時より、ずっと疲れている。
それでも、後輩が笑うと、こちらの背筋が勝手に伸びる。倒れている場合ではない、というより、倒れるなら見えないところで倒れろ、という妙な見栄に近かった。
希望は少し困ったように頷いた。
沢渡は、持ってきた薄い板を机に置く。板には小さな地図と、赤い紐が三本巻かれていた。
「井上が見た少し前の位置を、紐で残します。今の位置じゃないので、線は全部、過去形です」
「助かる」
僕が言うと、沢渡は少し目を伏せた。
「助けになるなら」
希望が目を閉じた。
数秒後、赤い紐の一本が、南東路の脇へ置かれる。
「今じゃないです。少し前、たぶん三十呼吸くらい前。誰かがここで止まってました」
「味方?」
「たぶん。怖がってる感じはあります。でも、追われてる感じじゃない」
僕の視界に、薄い `SAN` が混じった。南東路の脇。疲労。
恐慌未満。離脱未満。
「伝令へ。南東路脇、第三中継点から八百歩。休止者一の確認をお願いします。急がせず、水と外套」
通信兵が復唱する。
「休止者一、確認。水と外套」
命令ではない。いや、命令だ。
ただ、人を立たせるための命令だった。希望が目を開けた。
「今の、助けられますか」
「確認してから」
「はい」
期待の返事をしない僕に、希望は少し唇を噛んで、それでも待った。僕は地図に確認待ちの丸を置いた。
「戻ってきたら、希望さんに報告します」
「僕にですか」
「はい。最初に見つけた人ですから」
「先輩、そういう言い方、ずるいです」
「覚えたので」
希望は今度、少し口を尖らせた。
それを見て、沢渡が赤い紐の端を隠すように巻き直した。僕は笑いかけて、先に通信が入った。
✶
夕方に近い頃、第一王城からの写しが届いた。
正式辞令ではない。正式辞令の前に出る、作戦上の写しだ。羽黒承。
少尉相当。反攻準備連絡班。北側作戦図確認補助。
転移者班再編観測補助。補助、という言葉が二つ並んでいる。その方が軽く見える。
でも、補助の下に、命令伝達可、と書かれていた。
軽い字ではなかった。僕は写しを折り、胸元へ入れた。昨日の作戦経過報告と、同じ場所に入る。
紙が増える。名前も増える。
戻ってきた人のことも、戻らなかった人のことも、結局その紙に書き込まれていく。
天幕の外で、誰かが新しい呼び方を練習するように言った。
羽黒少尉。僕は返事をした。
返事は、昨日より早く出た。そのことも、少し嫌だった。
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