ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 八章 二節
『進む矢印を描く者は、帰る線を消した時から敗れている。』
反攻図は、赤い線だけではできていなかった。
赤は進む線。青は戻る線。
黒は補給。黄色は医療。
白い細線は、まだ誰も責任を持ちたがらない道だった。
机に広げられた北側作戦図は、昨日のゴルペホ橋梁線より大きい。地図の端が天幕の杭に触れていて、風が入るたびに小さく浮く。通信兵が四隅に薬莢を置き、地図を押さえた。
薬莢は空だった。
それでも、地図を押さえるには足りる。
「反攻主軸は北東ではありません」
森田さんの声が通信具から来た。
「北東へ見せます。実際に押すのは、ノエホ旧街道の外側です」
書記官が地図の写しを読み上げる。
「第一梯団、ノエホ旧街道外縁。第二梯団、第三中継点北。砲兵支援は後方六から八キロ。補給集積所は二十六キロ後方に仮置き」
数字が並ぶ。
距離だけなら、昨日より遠い。
でも、昨日より見えやすい。
昨日は、敵の火点と橋と人を同時に見ていた。今日は、線が先にある。線がある分だけ、何を失うかも先に見える。
「羽黒少尉」
「はい」
「この図で、先に見たい場所は」
森田さんが聞いた。試されているのではない。使われている。
僕は赤い進路を見た。北東へ伸びる囮の線。外縁を回る主軸。
砲兵の射程円。補給集積所。黄色の医療線。
「戻る線です」
返事は、早く出た。
「主軸ではなく?」
「主軸は、押せば見えます。戻る線は、先に描かないと消えます」
通信具の向こうで、紙が一枚めくられた。
森田さんは何も言わない。
書記官が代わりに、短く記録した。
「羽黒少尉、撤退線確認を優先」
「撤退ではなく、戻る線でお願いします」
「戻る線」
「はい」
撤退と言えば、負けた時の線に見える。
戻る線と言えば、行く前から必要な線になる。
言葉の違いだけかもしれない。
でも、言葉が違えば、書類の置き場所が変わる。
✶
希望が置いた赤い紐は、三本に増えていた。
南東路脇の休止者は、伝令が確認した。足をひねっていただけで、水を飲ませ、外套をかけて、後続の荷車に乗せたらしい。
助かった、と言える。
ただ、それを言うと次も助けられる気がしてしまう。
だから、僕は記録だけを見た。休止者一、後送。水一袋使用。
外套一枚貸与。荷車遅延、四分。
四分。助けた時間にも、値段がつく。
「先輩」
希望が、赤い紐を地図の北側へ置いた。
「ここ、少し前に人が多かったです。今は分からないです。でも、動きが詰まってました」
沢渡が横から補足する。
「旧街道の曲がり角です。荷車が二台並べない幅ですね」
「距離は」
「第三中継点から北へ三・二キロ。補給集積予定地からは二十二キロ弱」
僕の視界に、薄い数字が混じる。人の数字ではない。
詰まり。候補。
数えられるかどうかも曖昧な、嫌な引っかかりだ。
字の隅に「負荷」らしい一文字が滲んだ気がしたが、瞬きの間に消えた。荷車の軸か、道そのものか、どちらの値かは分からない。
「そこは、第一梯団の戻る線と補給線が重なります」
僕は黒い鉛筆で、曲がり角を丸く囲んだ。
「補給連絡へ。旧街道北曲がり、荷車二台並走不可。第一梯団の後送線と補給線を同時に通さないでください」
通信兵が復唱する。
「後送線と補給線、同時通行禁止」
「医療線は」
「医療線は先です。空荷の補給車は待たせてください。中身のない車より、戻す人を先に」
言ってから、昨日も似たことを言ったと気づいた。
壊れた短杭より、人。空荷の車より、人。順番は同じだ。
ただ、今回は地図の距離が長い。同じ判断でも、届く範囲が違う。
✶
砲兵連絡の声は、少し苛立っていた。
「砲兵陣地を六キロ後方に置くなら、主軸の奥へ届きません」
「八キロに下げれば、なお届かないでしょう」
「しかし、前へ出すと発見されます」
書記官の声は淡々としている。
淡々としている分、砲兵連絡の息が荒く聞こえた。
僕は砲兵の射程円を見た。
円は、地図の上ではきれいだ。
でも、現地には丘がある。林がある。濡れた地面がある。砲を引く馬もいる。魔導冷却液の残りもある。
「砲兵は、主軸を全部支えなくていいと思います」
僕が言うと、通信具の向こうが少し静かになった。
「理由を」
「主軸の奥を撃つより、敵の再集結点を撃つ方が必要です。第一梯団が押したあと、敵が戻ろうとする場所を止める」
地図に、赤い線ではなく、敵側の黒い点を置く。
旧街道の東。乾いた高地。
荷車が回れる広さ。水場から少し離れている。
「敵はここで立て直します。たぶん、砲兵を前に出さずに済む場所です」
「根拠は」
「昨日、敵砲兵は水車小屋跡を見直す前に、弾薬馬車を先に下げました。砲より弾薬を守る癖があります。ここなら馬車を下げやすい」
昨日の敵の動きが、今日の地図に重なる。
戦った相手が、線になる。
それも嫌だった。
「砲兵連絡、どうです」
森田さんが聞く。
少し間があった。
「その点なら、六キロ後方から届きます。観測が通れば」
「観測は」
森田さんの声がこちらへ戻る。
僕は希望を見た。
希望は小さく首を振った。
「今は見えません。友好的な相手じゃないので」
「敵は見えない」
「はい」
僕は地図の別の場所を指した。
「敵ではなく、味方観測班の少し前なら見えます。希望には観測班の移動遅れを見てもらいます。敵再集結点そのものは、現地の推定観測手と砲兵の修正で」
味方観測班の頭上には、薄い反応がちゃんと味方の色で出ている。ただ、その並びの端に、色の薄い揺れがもう一つ混じっていた。敵かどうかは判じられない。数が増えるほど、判じ切れない揺れも増える。
万能ではない。
でも、穴を一つ減らせる。
砲兵連絡が短く答えた。
「それなら組めます」
組める。
その言葉が出た瞬間、地図の上で砲兵陣地が少し現実になった。
✶
昼過ぎに、反攻図の第一版がまとまった。赤い線は二本。囮の北東線と、旧街道外縁の主軸。
青い戻る線は三本。負傷者、補給車、捕虜と伝令。
黒い補給線は、途中で一度だけ折れている。曲がり角で詰まらないように、時間差を入れたからだ。
黄色の医療線は、赤より先に引かれていた。
それを見て、森田さんが言った。
「らしい図ですね」
「褒めていますか」
「分類しています」
「なら、受け取れます」
森田さんは通信の向こうで、少し息を吐いた。
「あなたは、勝つ線より先に戻す線を描く」
「勝つ線も要ります」
「ええ。だから次は、勝つ線を描く人間と同じ机に座ります」
前線に近い、もっと大きな指揮所に呼ばれるということだ。
第一王城の机ではない。
そこではたぶん、戻す線だけを見ていればいいとは言われない。
「羽黒少尉」
「はい」
「明日、師団規模の移動確認に入ります」
師団。言葉だけで、地図の縮尺が一つ変わる。僕は机の端に置いた薬莢を見た。
空の薬莢は、まだ地図を押さえている。空でも役に立つ。
空になった理由を考えなければ、そう言える。
「了解しました」
返事は、また早く出た。
早く出るたびに、僕の中のどこかが少しずつ作戦図に慣れていく。
それを止める方法は、まだ見つからない。
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