ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 八章 三節
『大軍は一つの獣ではなく、帰り道を探す無数の足である。』
師団は、音で先に来た。
地面の下を、低い振動が通る。履帯の音、車輪の音、馬の蹄、荷車の軸、金具の触れ合う音。ひとつずつなら聞き分けられるはずの音が、距離をまたぐと大きな布みたいに重なる。
地図の上で見た赤い線が、外で動いている。
そのことが、少し遅れて腹に来た。
「第一梯団、旧街道外縁へ移動開始」
通信兵が読み上げる。
「第二梯団、第三中継点北で待機」
「補給車列、黒線一に沿って進行」
「医療班、黄色線を先行」
「観測班より。北方稜線の上空、飛行艦影一。高度、速度とも不明」
誰も、それについてはすぐ復唱しなかった。歩兵や荷車の数なら扱える。空の上のものは、まだ地図の欄に慣れていない。
昨日まで線だったものに、声がつく。
声がつくと、人になる。
人になると、間違えられなくなる。
「羽黒少尉、確認を」
前線連絡将校が言った。
将校は地図の反対側に立っている。袖の階級章は僕より上だ。けれど、この地図の一部については、僕に確認を求めている。
そういう配置になった。
僕が望んだからではない。
昨日の報告が、そういう配置を作った。
「第一梯団の後送線と補給線、旧街道北曲がりで重ねないでください」
「時間差は入れています」
「確認します。希望」
井上希望は、赤い紐を握ったまま目を閉じた。
天幕の中で、誰も彼女を急かさない。沢渡が隣で、古い懐中時計を見ている。三十呼吸。四十呼吸。希望の能力は今ではない。少し前だ。
少し前の現実を、今の判断へ繋ぐ。
希望が赤い紐を握ると、僕の視界へ旧街道の曲がり角が重なった。少し前の歩兵、担架、荷車。その頭上に、僕の数字が浮く。遠くても、希望の千里眼に入ったものなら読めた。
歩兵の値は揺れている。担架を持つ二人は低い。荷車の馬は数字の位置だけが前へ傾いていた。止まる直前の並びだ。
地図の端には三つの欄を作ってある。見えた時刻。そこから動ける範囲。地形と報告を重ねた確度。希望の線を現在地の印として置かないための欄だった。
沢渡が時刻から円を引き、僕が円の中に出る数字と、通信で届いた人数を照合する。三つが合えば赤札。二つなら黄札。一つだけなら、まだ動かさない。
「曲がり角、詰まりかけています」
希望が言った。
「荷車じゃなくて、人です。たぶん、担架を避けようとして、歩兵が端へ寄ってます」
「たぶん、じゃなくて、そうです」
希望が言い直した。目はまだ閉じたままだった。少し前の光景を見ている途中でも、断定できることは断定したいらしい。先輩の判断材料を、もう一段確かなものにしたい。そういう声だった。
沢渡が地図に細い印を置く。
見えた時刻から四十呼吸。歩兵の速度なら、曲がり角をまだ抜けていない。黄札が赤へ変わった。
「ここ、道幅が荷車一台半です。歩兵が端へ寄ると、車輪が逃げ場を失います」
「伝令へ。旧街道北曲がり、歩兵を右手の畑跡へ二列退避。担架を先に通してください。補給車は曲がり角手前で停止。車輪を斜めに入れない」
通信兵が復唱する。
「歩兵二列退避。担架先行。補給車、曲がり角手前で停止」
外の音は変わらない。
けれど、通信板の上で、詰まりを示す黒い小札が横へずれた。
師団は動き続ける。
止まらなかった。
✶
摩擦は、敵より先に出た。
砲兵連絡が、補給連絡に声を荒げる。
「冷却液が届かなければ、予定射撃数を落とすしかない」
「魔導冷却液は七本しかない。砲兵だけに渡せば、装甲車の結界回路が止まる」
「装甲車が前へ出なければ、歩兵が撃たれる」
「砲が撃てなければ、そもそも前へ出られない」
どちらも間違っていない。
間違っていない言葉がぶつかると、机の上で物が増える。冷却液の瓶、砲弾、装甲車、歩兵、結界、撤収、負傷者。
全部、必要だ。
全部、足りない。
「冷却液七本のうち、三本を砲兵。二本を装甲車。一本を医療用冷却箱。一本は保留」
僕が言うと、二人の声が止まった。
止まったあとで、砲兵連絡が先に反応する。
「三本では予定射撃に足りません」
「予定射撃を全部撃たないでください。再集結点への妨害射撃を優先。主軸の奥は撃たない」
「装甲車二本では、前進時間が短い」
「前進ではなく、歩兵の死角を埋める時間だけ動かします。長く居座らない」
補給連絡が、保留の一本を見る。
「保留は」
「誤読した時に使います」
言ってから、少し胸が冷えた。
誤読。
自分でその言葉を置ける程度には、僕はこの机に慣れ始めている。
「誤読前提ですか」
砲兵連絡が聞く。
「はい。戦場なので」
通信卓の鉛筆が止まった。
「僕が読み違えた時の一本です。瓶を恨む時は、僕の名前でお願いします」
森田さんの通信は開いている。
何も言わない。
黙認ではない。たぶん、記録している。
「記録。魔導冷却液配分、砲兵三、装甲車二、医療一、保留一」
通信兵が書き込む。
保留一。
それは、僕が間違えるための一本だった。
✶
装甲車列が動いた。
B.I.G-ACFV-65が二両、旧街道外縁の低い土手に沿って出る。車体前部の小型砲塔が左右へ振れ、二十ミリ連装機銃の銃口が林端を撫でた。撃たない。撃たないまま、歩兵の死角に車体を置く。
初期型常時展開結界が、車体の表面で薄く白む。
弾を弾くためというより、破片と小口径弾の姿勢を乱すための膜だ。面は途切れない。車体を包むように薄く続いている。走るたびに、歯車の熱と魔力の匂いが後ろへ流れる。
「装甲車一、土手手前で停止」
「装甲車二、歩兵列の左を塞ぎます」
報告が来る。
希望が目を閉じた。
「二両目、少し前に、止まりかけてます。音が変でした」
沢渡がすぐに言う。
「ACFV-65は後退が遅いです。止まると逃げにくい」
「装甲車二へ。前進停止。右側駆動カバーを確認。歩兵は車体の左を通さない。後退ではなく、その場で斜めに向きを変えてください」
通信兵が復唱する。
返事は少し遅れた。
「装甲車二、右側駆動カバーに泥噛み。停止します」
間に合ったのか、遅かったのか。
通信だけでは分からない。
でも、次の報告が来た。
「歩兵列、車体左を避けました。担架通過」
地図の上で、黄色の線が一つ進む。大きな戦果ではない。誰も歓声を上げない。
ただ、担架が止まらなかった。それだけで、地図の色が少し変わる。
✶
昼を過ぎる頃、敵の小偵察が林端に出た。数は五。
距離、一・九キロ。主力ではない。
こちらの師団移動の速度と、装甲車の位置を見に来ている。
「撃ちますか」
前線連絡将校が聞いた。
「撃たないでください」
「理由を」
「威力偵察ではありません。数を数えに来ています。こちらが撃てば、火点と装甲車の位置を渡します」
敵の五人は、林端から深く出ない。
足元の草が揺れる。ひとりが筒を構えかけ、すぐ下げた。
推定観測手ではない。
ただの目だ。
「偽火点一、灯りを一段。装甲車二は動かない。歩兵は見せないでください」
通信兵が復唱する。偽火点が薄く光る。
敵の五人のうち二人が、そちらを見る。残り三人は、まだ装甲車の方を探している。
「灯り、二段目」
「二段目」
敵の筒が、偽火点へ向いた。
「記録。敵小偵察、偽火点へ誘導。こちら火点露出なし」
前線連絡将校が僕を見る。
「少尉、追わせますか」
「追いません。戻るまで見ます」
「逃がす?」
「帰らせます。帰った先が、敵の報告先です」
敵五人は、しばらくして林へ戻った。希望には見えない。
僕にも、林の奥は見えない。でも、敵が帰る方向は見えた。
砲兵の再集結点候補と、ほとんど同じだった。
「砲兵連絡へ。再集結点候補、確度を上げます。修正点、東へ二百」
砲兵連絡の返事は早かった。
「了解。観測班へ回します」
早い。早く回る。
僕の言葉が、遠くの砲兵陣地へ行く。そして、たぶん誰かを撃つ準備になる。
✶
夕方、師団移動の第一段階が終わった。
第一梯団は旧街道外縁へ入った。
第二梯団は第三中継点北で崩れずに待機。
補給車列は曲がり角で二度止まったが、詰まらなかった。
医療線は、担架三、休止者二を後送。
装甲車二は右側駆動カバーを外して清掃中。
砲兵はまだ撃っていない。
撃っていないのに、敵の再集結点候補がひとつ狭まった。
報告だけなら、うまくいっている。僕は机に両手を置いた。手のひらに地図の紙のざらつきがある。
朝から立っているのに、まだ膝が落ちない。それが、また嫌だった。
「羽黒少尉」
森田さんの声が入る。
「はい」
「師団移動第一段階、成功です」
「成功と記録するには早いです」
「では、第一段階完了」
「それなら」
通信具の向こうで、森田さんが紙を閉じた。
「明日は、動いた師団を戦わせます」
地図の赤い線が、まだ乾いていないように見えた。
動かすだけでは終わらない。動かしたものは、戦う。戦えば、戻る人と戻らない人が出る。
僕は青い線を見た。戻る線は、まだ消えていない。消さないために、明日も命令を出す。
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