ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 八章 四節
『戻った者の息は、帰還の証である前に、残された問いである。』
桜華さんのいる救護分室は、反攻図の天幕から二つ隣だった。
近い。
近いのに、足が少し重くなる。
戦場の地図なら、距離を測れる。第三中継点から八百歩。砲兵陣地から六キロ。補給集積所から二十六キロ。そういう数字なら、誰かと共有できる。
救護分室までの二つの天幕は、共有しにくい。
布の仕切りをくぐると、薬湯の匂いがした。消毒用の酒精と、湿った包帯と、魔導冷却箱の薄い金属臭も混じっている。外の土と火薬の匂いが、ここでは少し遠い。
桜華さんは、寝台にいた。
前より、顔の輪郭が戻っている。
戻っている、という言い方が正しいのかは分からない。人の顔に使う言葉ではない気がする。でも、ほかに言葉が出なかった。
頭上に、薄い表示がある。生命。
ゼロではない。HP。
数字は読めない。読ませないように、僕の目の方が逃げる。
「羽黒くん」
声は弱い。
でも、前より少し長く続いた。
「はい」
「少尉になったんだって」
「処理上は」
「処理上の少尉」
桜華さんの唇が、ほんの少し動いた。
笑おうとしたのかもしれない。
笑わなくてよかった。
笑われたら、たぶん僕の方が立っていられない。
「おめでとうって、言わない方がいいやつ?」
「できれば」
「じゃあ、言わない」
桜華さんは、天井の布を見た。
布には、魔導灯の光が丸く滲んでいる。光の輪が、呼吸に合わせて少し揺れる。いや、揺れているのは僕の目かもしれない。
「似合う?」
「階級章ですか」
「うん」
「まだ、借り物みたいです」
「そっか」
桜華さんは、布団の上で指を動かした。
一本ずつ。
ゆっくり。
それだけで、医療班の人が少し近づいた。桜華さんは目だけでその人を見て、また天井へ戻す。
「私も、まだ借り物みたい」
「体が」
「うん。体も、声も。あと、ここにいる感じも」
桜華さんは、胸元の布を見た。
「戻ったって言われるけど、戻った場所が分からない」
僕は何も言えなかった。戻った。戻らなかった。
死ねなかった。どれも、桜華さんの前では紙の言葉になる。紙は便利だ。
それでも、今は何の役にも立たなかった。
✶
医療班から、椅子を勧められた。
座ると、膝が遅れて重くなった。立っている時は、まだ動ける気がしていた。座った途端、体のあちこちが順番に自分の持ち場を思い出す。
でも、痛みは少ない。
少なすぎる。
昨日なら、もっと足に来ていたはずだ。橋梁線で立ち続け、徹夜に近いまま師団移動を見て、それでも僕の手はまだ動く。
膝の上の鉛筆が、軽い。
桜華さんが、その鉛筆を見た。
「何か、変?」
「少し」
「少しって便利だよね」
「はい」
「言わなくて済む」
桜華さんは、息を細く吐いた。
「でも、顔に出てる」
「顔ですか」
「ううん。手」
僕は自分の手を見た。
鉛筆を持つ指に、力が入りすぎている。折れるほどではない。けれど、力を抜こうとしても、少し遅れる。
「強くなった?」
桜華さんが聞いた。
軽い聞き方ではなかった。
答えを決めてから聞いた声でもない。
「分かりません」
「分からないの、怖いね」
「はい」
そこで、桜華さんは目を閉じた。
眠ったわけではない。まつ毛が動く。痛みを逃がしているのか、言葉を探しているのか、どちらでもあるのかもしれない。
「私も、分かんない」
「何がですか」
「死ねなかったことが、強いのか、弱いのか」
医療班の人が、薬湯の器を持ったまま止まった。
桜華さんは続ける。
「みんな、助かったって言うと思う。私も、助かったって言いたい。でも、死ねなかったって言葉も、同じ場所にある」
同じ場所。生命の表示。ゼロではない数字。
喜ぶべきもの。喜びだけでは済まないもの。
「羽黒くんも、同じ?」
「僕は」
そこで言葉が止まった。
僕は死ねなかったわけではない。
でも、殺したあとで、少し強くなったかもしれない。
その二つを同じにしてはいけない。
同じにしたくない。
それでも、桜華さんは同じ場所を見ていた。
「少し違います」
「うん」
「でも、近い場所にあると思います」
「そっか」
桜華さんは、それ以上聞かなかった。
聞かれないことが、少し苦しかった。
✶
外で、師団移動の報告が入った。通信兵の声が天幕越しに聞こえる。第一梯団、旧街道外縁で停止。
第二梯団、夜間行軍準備。砲兵、再集結点候補へ照準諸元仮入力。医療線、担架追加二。
言葉だけで、地図が頭に浮かぶ。赤。青。
黒。黄色。桜華さんの寝台は、そのどの色でもない。
それなのに、僕はここにいる間も、頭の中で線を引いている。
「行っていいよ」
桜華さんが言った。
「まだ」
「行きたいんじゃなくて、行かなきゃいけないんでしょ」
「似ています」
「違うよ」
弱い声なのに、そこだけはっきりしていた。
「行きたいのと、行かなきゃいけないのは、違う」
僕は返事を探した。
桜華さんは、今度は少し口角を上げた。
「それ、忘れたら危ない気がする」
「覚えておきます」
「紙に書く?」
「書かない方が残りそうです」
「じゃあ、書かないで」
医療班の人が、薬湯を桜華さんの口元へ運んだ。
桜華さんは少しずつ飲む。一口ごとに、喉が動く。飲める。
そのことを、僕は見ていた。水を飲める人。もう飲まない人。
飲めるけれど、戻った場所が分からない人。その三つが、同じ日に並ぶ。
✶
天幕を出る前に、桜華さんが呼んだ。
「羽黒くん」
「はい」
「強くなっても、料理できる?」
思っていない角度から来た言葉だった。
「料理ですか」
「うん。前、できるって言ってたから」
「できます」
「じゃあ、いいや」
それでいいのか、聞き返しかけた。でも、桜華さんは目を閉じていた。今度は眠りに近い。
僕は小さく頭を下げ、救護分室を出た。外の空気は冷たい。火薬の匂いが戻ってくる。
通信天幕から、僕を呼ぶ声がした。羽黒少尉。
僕は歩き出した。鉛筆は、まだ軽い。
でも、桜華さんの言葉が、その上に少し重さを乗せていた。
強くなっても、料理できる。それが何の確認なのか、まだ分からない。
分からないまま、僕は通信天幕へ戻った。
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