ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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八章五話 一歩前、二歩後ろ

《王録》 八章 五節

『前に出る足は、退く足の場所を覚えていなければならない。』

 

 師団が動いた翌朝、地図の上の赤線は、初めて土の上の足音になった。

 

 第一梯団は旧街道の外縁を北へ。

 

 第二梯団は水路沿いの低地で待機。

 

 砲兵は、夜のうちに積んだ諸元を三度見直している。

 

 魔導冷却液の瓶は七本から五本に減った。二本は昨夜、装甲車のフライホイール冷却と砲身冷却に消えた。空瓶の内側に青白い膜が残っていて、係の兵が布で拭き取っていた。布はすぐ硬くなる。使い捨てにするには惜しい。再利用するには危ない。

 

 戦争は、そういう物が机の端に増えていく。

 

「第一梯団、前進二百。敵接触なし」

 

 通信兵が読んだ。

 

 若い兵だった。左耳の後ろに包帯があり、符号を読む時だけ声が少し速くなる。昨日の砲声で片耳をやったらしい。本人は平気なふりをしているが、右側から話しかけると返事が遅い。

 

「第二梯団、停止維持。装甲車一、右側駆動カバーに泥。整備班が外しています」

 

「外すのは今ですか」

 

 僕が聞くと、通信兵は符号板を見直した。

 

「はい。走行中に熱が上がったとのことです」

 

 B.I.G-ACFV-65の結界は走っている限り薄く更新される。車体表面を数センチだけ覆う白い膜。小銃弾や破片なら流せる。けれど駆動カバーの内側に入った泥までは止めてくれない。

 

 魔法の心臓に、歯車の骨が追いつかない。

 

 昨日、整備兵がそう言っていた。言った本人は笑っていなかった。革手袋の親指に穴が空いていて、そこから黒い爪が見えた。

 

「装甲車一は、そのまま動かさないでください。結界は落とさず、車体だけ北へ向けて」

 

「火力支援ではなく、見せるだけですか」

 

「はい。相手に、こちらがそこを守るつもりだと思わせます」

 

 通信兵が復唱する。符号が飛ぶ。

 

 天幕の外で、遠い砲声が一つ鳴った。まだ、こちらの砲ではない。

 

 

 北東林端に、値が三つ出た。

 

 距離、一・六キロ。

 

 低い。

 

 人間の高さ。車両ではない。魔物でもない。枝の間を縫う動きで、時々、値の輪郭が薄くなる。

 

「北東林端、三。距離一・六キロ。推定観測手を含みます」

 

 僕は地図の北東に鉛筆を置いた。

 

「砲兵の目でしょうか」

 

 森田さんから回された軍務局書記官が、言った。

 

 眼鏡の片側だけが曇っている。昨日から寝ていないのだろう。筆記の手は速いが、点の打ち方が少し荒い。

 

「その可能性があります。ただ、こちらの砲兵ではなく、第二梯団の曲がり角を見ています」

 

「曲がり角」

 

「はい。旧街道のここです。装甲車が止まった場所と、医療線が近い」

 

 僕は黄色い線に触れた。

 

 負傷者を戻す線。

 

 敵がそこを見るなら、砲撃ではなく、歩兵を入れる前の確認かもしれない。

 

「あれは、たぶん火力を探しているだけではありません。曲がり角の詰まりを見ています」

 

 口の中に、昨日の薬湯の匂いが戻った。桜華さんの寝台。

 

 飲み込む喉。黄色い線。

 

「水車小屋方面、待機してください。発砲はまだです」

 

 僕は通信兵へ向けて続ける。

 

「偽火点一、灯りを二段上げてください。装甲車一は前進しない。結界面だけ見せます。砲兵は北東林ではなく、林の後ろ二百。諸元だけ準備」

 

 書記官のペン先が止まった。

 

「林の中を撃たないのですか」

 

「撃てば、相手は散ります。今は、歩かせたいです」

 

「歩かせる」

 

「戻る場所を見ます」

 

 言葉が硬くなりすぎた。

 

 僕は鉛筆を持ち直す。

 

「すみません。北東林端の三名は、こちらの火力を見てから戻るはずです。その戻り方で、後ろの部隊位置が少し分かります」

 

「了解しました」

 

 書記官はそれだけ書いた。

 

 名言めいた文にはしない。

 

 記録に残るのは、北東林端三、偽火点一灯火、砲兵待機。

 

 それで足りる。

 

 

 十七分後、前方連絡壕から符号が欠けた。

 

 通信具の割れた音が、天幕の中で短く跳ねる。

 

「前方連絡壕、第三符号板、応答不良」

 

「場所」

 

「旧街道北曲がり手前、二百歩」

 

 近い。

 

 近すぎる。

 

 地図なら、指一本の幅もない。外に出れば、湿った草と泥と低い土手がある。そこへ行くには、土嚢列を抜け、浅い水路を横切り、崩れた柵の影を通る。

 

 値が一つ、遅れている。

 

 味方。

 

 生命の輪郭が薄い。

 

「僕が行きます」

 

 通信兵の返事が遅れた。

 

「少尉が、ですか」

 

「二百歩だけです。連絡壕の符号板を戻します」

 

「護衛を」

 

「沢渡さんを呼んでください。あと、短杭を二本」

 

 井上希望は天幕に残す。彼女は少し前の位置を拾える。ここから動かすと、過去の線が途切れる。

 

 沢渡澄人は、外の土の固さを知っている。

 

 しばらくして、沢渡が来た。

 

 外套の裾に草の種がついている。軍帽をかぶっているのに、王城で見た時より学生の輪郭が残っていた。教室でプリントを後ろへ回す時、彼はいつも二枚まとめて取ってしまう人だった。今は符号板と短杭を一枚ずつ数えている。

 

「先輩、行くんですか」

 

「はい。二百歩だけ」

 

「二百歩って、こういう時、だいたい増えますよ」

 

「増やさないように、あなたに数えてもらいます」

 

 沢渡は少し口を開けた。

 

 文句を言う前の形だったが、すぐ閉じた。

 

「分かりました。百九十九で襟を掴みます」

 

「できれば二百でお願いします」

 

「そこは現場判断で」

 

 軽口がある。

 

 まだ、少し人の場所にいる。

 

 

 外に出ると、湿った風が襟に入った。

 

 砲声は遠い。近いのは、装甲車の低い唸りと、駆動カバーを外す工具の音だった。金属を叩く音が二度続き、三度目で止まる。整備兵が誰かを叱った。言葉は聞こえないが、怒鳴り方に疲れが混じっている。

 

 僕の左脚の装具に、短い術式符が巻かれている。

 

 アクセラップ。

 

 連合王国では珍しくない、身体加速の補助魔法。近接装備や脚具に仕込んだ小型起動具へ魔力を送り、踏み込みに合わせて作動させる。強くなる魔法ではない。動き出しの抵抗を少し削るだけだ。

 

 少し。

 

 その少しで、死ぬ場所が一つずれる。

 

「起動します」

 

 僕が言うと、沢渡が短杭を握り直した。

 

 靴底の金具が温まる。

 

 膝が先に出た。

 

 土嚢列を抜ける。十七歩。水路手前で止まる。水は濁っているが、深さは膝下。左へ三歩で板が沈んでいる。沢渡が先に短杭を投げた。杭は水の中で白く光り、薄い術式標識を立てる。

 

「渡れます」

 

「はい」

 

 僕は板を踏む。

 

 靴底が沈む。

 

 アクセラップの残りが、体を前へ押した。速い。速すぎる。自分の足の長さを、一瞬だけ間違える。

 

 沢渡の手が外套の背に触れた。

 

 倒れずに済んだ。

 

「今の、百七」

 

「数え方が早いです」

 

「先輩の足が早いんです」

 

 笑えなかった。足が軽い。

 

 昨日より。その理由を、ここで考えると遅れる。

 

「続けます」

 

 

 前方連絡壕は、低い土手の裏にあった。

 

 符号板は泥に倒れている。通信兵が一人、壕の内側で横になっていた。右腕の袖が裂け、手袋の中に血が溜まっている。頭上の生命は細い。HPの文字が滲んだが、読み切る前に目を外した。

 

 まだ戻せる。

 

 その判断は、数字だけではない。

 

 胸が動いている。口元に泥がない。符号板を握っていた左手が、まだ放していない。

 

「沢渡さん、止血。僕が符号板を立てます」

 

「了解」

 

 沢渡が膝をつき、包帯を噛んで裂いた。

 

 僕は符号板を起こす。板の端に小さな穴が二つ。弾ではない。破片。北東から飛んだものではなく、土手の向こうで砕けた石の欠片だ。

 

 敵は、ここを直接撃っていない。

 

 ここの反応を見るために、近くへ撃った。

 

「通信、聞こえますか」

 

 携帯具の符号針を合わせる。雑音。

 

 もう一度。細い音が返った。

 

「こちら羽黒。第三符号板、復旧中。負傷一。回収要請」

 

 通信具が割れ、天幕側の声が混ざった。

 

「少尉、敵影」

 

 僕は土手の上に腹をつけた。北東林端から、値が五つに増えている。距離、一・二キロ。

 

 一つだけ、輪郭が太い。精神の横に、短い乱れ。

 

 中英雄級ほどではない。けれど、普通の歩兵でもない。結界補助具を背負っている。板状の結界が前面に立ち、雨に濡れた硝子のように薄く光っている。面は途切れない。面全体が傾き、草の水滴を白く押しのけて進む。

 

「北東林端、五。距離一・二キロ。結界補助一。前進速度、遅いです」

 

 天幕へ送る。

 

「相手は、たぶん連絡壕の復旧を待っています。僕らがここへ人を出すと読んでいます」

 

「火点許可は」

 

「まだです。土手の手前までは発砲禁止」

 

 沢渡がこちらを見た。

 

 泥が頬についている。目だけがやけに黒い。

 

「先輩、待つんですか」

 

「待ちます。撃つ場所を、こちらで決めます」

 

「向こうが撃ったら」

 

「その前に、向こうの足を止めます」

 

 僕は短杭を一本抜いた。

 

 マギブレイク用の短杭。

 

 術式を壊すというより、術式の足場を一瞬だけ揺らす小型機械。術式兵が魔力を送り、起動時機を選ぶ。強い結界を消せるほどではない。けれど、歩きながら前面結界を維持している相手には、膝を取られる程度の遅れが出る。

 

「沢渡さん、土手の左、白い草束の下へ」

 

「はい」

 

「僕は右へ置きます。二本で挟みます」

 

 沢渡さんは歩幅を止め、白い草束の位置を見直した。

 

「先輩」

 

「はい」

 

「二百歩、過ぎます」

 

 僕は足を止めた。

 

 数えていたのか。

 

 沢渡は短杭を持ったまま、負傷兵の包帯を膝で押さえている。

 

 ここで前へ出れば、三十歩増える。

 

 戻る時は、その三十歩に負傷者の重さが足される。

 

「では、右は置きません」

 

「え」

 

「左一本で足ります。足りるように撃ちます」

 

 沢渡は口を閉じ、短杭を投げた。

 

 白い草束の下で、薄い光が立つ。

 

 

「偽火点一、灯りを一段下げてください。火点三、灯りを一段上げます」

 

 通信具へ送る。

 

「装甲車一、車体を五度だけ北東へ。前進禁止。結界面を見せるだけ」

 

 返答が割れる。

 

 五度という数字が伝わったか不安になる。言い直す。

 

「車体を少し。砲は向けない。相手に、そこが火点だと思わせてください」

 

 今度は復唱が返った。

 

 北東林端の五つが止まる。

 

 結界補助具の白い面が、装甲車の方へ傾いた。

 

「見ました」

 

 沢渡が低く言った。

 

「はい。火点誤認」

 

 僕はGR-370-1080-Aを構えた。

 

 三発弾倉。

 

 徹甲小銃という分類名は、名前ほど万能ではない。正面から厚い装甲を抜く武器ではない。結界が薄くなったところ、外部装備、足元、補助具の固定具。そういう場所を狙う。

 

 引き金に指をかける。頭上の値が、また一つ増えた。別動。

 

 右の藪。距離、六百。

 

 僕らではなく、負傷兵を見ている。喉の奥に、金属の味が広がった。

 

「水路右、伏せてください」

 

 通信では間に合わない。声で出す。沢渡が負傷兵の上へ体を落とした。

 

 右の藪から小さな火花。弾は土手に刺さった。僕はそちらを撃たなかった。

 

 GR-370-1080-Aの照準を、前面結界を持つ兵の背中へ合わせる。

 

 正面ではない。

 

 結界補助具の固定枠。

 

 マギブレイク短杭の光が一度だけ強くなった。白い面が揺れ、補助具の枠が半歩遅れる。

 

 一発。

 

 反動が肩へ来る。

 

 枠が折れた。

 

 結界の面は消えない。消えないまま、傾きが乱れる。面全体が斜めに流れ、後ろの二人の足元を巻き込んだ。

 

「火点三、今です。低く、二秒」

 

 通信具に送る。十ミリ機関銃が短く鳴った。

 

 長く撃たない。二秒。

 

 草が跳ね、白い面が濁り、敵の列が横へ崩れる。

 

「砲兵、林後方二百。二発。散らすだけ」

 

 砲声。

 

 着弾は見えない。

 

 林の奥で鳥が上がった。少し遅れて、敵の値が後ろへ流れる。

 

 追えば、もっと削れる。

 

 追えば、火点が前へ出る。

 

 火点が前へ出れば、医療線の曲がり角が薄くなる。

 

「追撃しないでください」

 

 僕は言った。

 

 声が少し大きかった。

 

「火点三、停止。水車小屋方面、発砲なし。装甲車一、向き戻し。負傷者回収を優先してください」

 

 通信具の向こうで、何人かの声が重なった。勝てる時ほど、人は前へ出たくなる。

 

 僕も、今、少し出たかった。喉の金属の味が消えない。

 

 

 負傷兵は戻せた。

 

 沢渡が背中を貸し、僕が符号板と小銃を持った。二人で運ぶには荷が多い。途中で救護兵が来た。救護兵の髪は布でまとめられていたが、結び目から短い毛が何本も出ている。担架を持つ手に薬草の匂いが残っていた。

 

「こっちへ」

 

 彼女はそれだけ言い、負傷兵の手を見た。

 

 指が動いた。

 

「生きてる」

 

 沢渡が言った。

 

 僕は返事をしなかった。

 

 生きている。

 

 その一語を口にすると、別の場所で倒れた敵兵のことまで一緒に出てきそうだった。

 

 水路の向こうで、敵兵が一人、泥の上に肘をついていた。武器は手元になく、腰の水筒を探している。こちらの射線には入っていない。向こうの救護も、まだ来ていない。

 

 僕が今止めた火点は、あの兵を撃つためではなかった。

 

 でも、あの兵が水を探す時間を作ったのも、同じ命令だった。

 

 戻りの水路で、アクセラップの残りが切れた。

 

 膝が急に重くなる。けれど、倒れるほどではない。

 

 それも、前と違う。土嚢列を越え、通信天幕へ戻る。

 

 井上希望が、地図の前で立っていた。髪を耳の後ろへ入れようとして、指先が途中で止まる。王城で迷子になった時も、彼女は同じ場所で手を止めていた。道を覚えるより先に、人がどこへ行ったかを覚える人だった。

 

「先輩。敵、戻りました」

 

「位置は」

 

「少し前の位置なら、林の後ろ、北へ四百。今は、たぶんもっと奥です」

 

「ありがとうございます」

 

 僕は地図へ鉛筆を置いた。北東林端三。増援二。

 

 結界補助一、破損。敵砲撃、なし。味方負傷一、回収。

 

 敵火点誤認。敵後退方向、北。書いているうちに、手が止まった。

 

 戦果になる。今の出来事は、戦果になる。

 

 負傷者を戻したことも、敵を退かせたことも、敵の戻る道を見たことも。

 

 そして、僕が一発撃ったことも。

 

 弾倉には、残り二発。

 

 空薬莢は、沢渡が拾っていた。

 

「百九十八でした」

 

 沢渡が言った。

 

「何がですか」

 

「行きの歩数です。帰りは、負傷者を運んだので数え直しです」

 

 彼は薬莢を僕の机に置いた。

 

 薬莢は冷えかけているのに、まだ少し熱を持っていた。

 

「二百、越えてません」

 

「はい」

 

 僕は薬莢を見た。前に出た。戻った。

 

 戻れた。鉛筆を握る手は、まだ動く。

 

「記録します」

 

 僕は言った。通信兵が次の符号を読み始める。第二梯団、移動再開。

 

 医療線、通過。装甲車一、駆動カバー復旧未完。僕は赤線を一つ進め、青線を二つ太くした。

 

 二歩戻るための線が、地図の上で少し増えた。

 

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