ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 八章 六節
『ひびの入った殻は、内側の声を外へ逃がさず、外の痛みだけを集める。』
2377- ゴルペホ後方接続点 武田哲弥視点
武田哲弥が臨時拘束区へ入った時、最初に聞こえたのは咳だった。
湿った咳ではない。
短く、喉の浅いところで止まる咳。
第三柵の内側で、捕虜の一人が膝を抱えている。外套は帝国兵のものだが、襟の縫い目がほどけ、肩章の片方がなくなっていた。年は哲弥より少し上に見える。兵隊というより、寒い日の朝礼で列から外れ損ねた生徒のように、背中だけ丸い。
柵の外には、監視員が二人。
一人は治安部隊の腕章をつけ、もう一人は軍務局の記録係だった。記録係はインク壺を胸に抱えている。零さないようにではなく、落としたら自分の責任になる物を抱える持ち方だった。
「武田さん」
軍務局の術式官が声をかけた。
昨日の銅板を持っていた男とは別人だ。髭の剃り残しがあり、袖口に薬品の染みがある。眠っていない顔、という言葉を使いたくなるが、顔より先に染みが目に入った。
「立ち会いだけです」
哲弥は言った。
「助言は?」
「しません」
術式官は、少し口を曲げた。
「森田代表からは、確認に応じるようにと言われています」
「確認ならします」
哲弥は柵の内側を見た。捕虜が腕を押さえている。右腕。
昨日の試験記録にも、右腕とだけあった。偶然かもしれない。
偶然で済ませたい。哲弥は銅板を見せるように言った。
✶
銅板は三枚あった。一枚は柵の柱に括られている。
一枚は監視員の腰箱。もう一枚は、記録係の卓の下。
どれも小さい。手のひらに収まる。だから、余計に嫌だった。人を動かす仕組みは、大きな塔や祭壇の形をしていてほしい。小さいと、日常の道具に混じる。
「今回の接続は」
哲弥が聞くと、術式官は折り畳んだ紙を広げた。
捕虜三名。監視員二名。記録係一名。
治安部隊待機四名。外部接続、試験的に拘束区外周勤務者二名。
「外周勤務者」
「第三柵の外で、配膳と門扉確認を担当した者です」
「なぜ繋いだんですか」
「命令責任と実行責任の差を見るためです」
紙の上では、差という言葉になる。
現場では、誰かの腕が痛む。
「今すぐ外してください」
「まだ閾値に達していません」
「達してからでは遅い」
声が強くなった。
監視員の一人がこちらを見る。革の手甲に古い切り傷があり、そこへ親指を当てていた。癖なのだろう。警戒すると、そこを押す。
術式官は紙を畳まなかった。
「武田さん。これは虐待の防止にも使えます。兵が捕虜に過剰な苦痛を与えれば、返りが発生する。命令者にも、記録者にも薄く返る。つまり、隠せない」
「その捕虜を受け皿にしたら、隠せます」
「受け皿という語は、正式には使っていません」
「正式名がないだけです」
柵の内側で、捕虜が咳をした。
今度は少し長い。
監視員の腕章の男が、柵越しに水筒を差し出した。捕虜はすぐには受け取らない。疑っているのか、手が上がらないのか、哲弥には分からない。
水筒は、柵の隙間ではなく、扉の受け渡し口から入れられた。
規則通り。
規則通りに、水は渡る。
✶
返りは、十六分後に出た。
まず記録係が、右手を止めた。
彼はインク壺を抱えたまま、羽根ペンを持つ指を開いたり閉じたりした。痛いとは言わない。言えば、記録に残るからだろうか。それとも、痛いと認めるほど強くないのか。
次に、監視員の腕章の男が手甲の古傷を押した。
そのあと、後方から伝令が来た。
伝令は少年に近い兵だった。泥の跳ねた靴で柵の前まで来て、紙を差し出す。
「外周勤務者二名、右腕の痺れを申告。片方は配膳担当。片方は門扉確認担当」
哲弥は紙を受け取らなかった。
術式官が受け取った。
「外部接続、成立」
術式官の声は低かった。低くなるだけ、ましなのかもしれない。
喜んではいない。でも、止めてもいない。
柵の中で捕虜が右腕を抱えた。昨日より強い。肩から手首まで、何かを押し込まれたように体を丸める。
その兵が、何をしたのかは分からない。触れた者でもないかもしれない。命じた者でもないかもしれない。
ただ、ここに置かれている。置かれているから、受ける。
「止めます」
哲弥は銅板へ手を伸ばした。
術式官が先に柱の前へ立った。
「権限がありません」
「俺の能力です」
「軍務局管理下の術式器材です」
言葉がぶつかった。能力。器材。
問い。管理。
同じものに、違う札が貼られている。哲弥は柱の銅板を見た。
細い溝に、白い光が流れている。光は途切れない。強くも弱くもならず、一定の速度で回る。
一定であることが、怖い。
人間の痛みを扱っているのに、器材はきれいに動く。
✶
森田ロハンが来たのは、その直後だった。
布手袋をしていない。
珍しい。
指先にインクがついている。何かを書いてから、そのまま来たのだろう。彼女は柵の前で止まり、捕虜、監視員、術式官、銅板の順に見た。
「停止してください」
声は大きくない。
けれど、術式官の背が少し固くなった。
「代表、軍務局の許可が」
「許可番号を」
「試験運用の範囲内です」
「許可番号を」
術式官は紙束をめくった。紙の音が続く。見つからない。
森田は待った。待つだけで、相手の時間が減っていく。
「後で確認します」
「今、確認しています」
術式官は唇を噛んだ。
血は出ない。
「停止します」
柱の銅板から光が消えた。
柵の中の捕虜が、すぐに楽になるわけではなかった。右腕を抱えたまま、しばらく動かない。監視員が受け渡し口から水筒をもう一度入れる。今度は捕虜の左手が伸びた。
記録係は、自分の右手を見ていた。
羽根ペンの先から、インクが一滴だけ落ちる。
彼はそれを拭こうとして、左手で布を取った。
右手はまだ動かない。
「武田さん」
森田が呼んだ。
哲弥は返事をした。
「これを、止められますか」
「器材なら」
「器材ではない部分は」
森田の指先のインクが、乾きかけている。哲弥は自分の掌を見た。
何も光っていない。見えない場所に、線がある。
「まだ、分かりません」
「分かったら、教えてください」
「教えたら、また使われます」
森田は、そこで少し目を伏せた。
疲れの出る動きだった。
「だから、書き方を選びます」
その言葉は正しい。
正しいけれど、十分ではない。
哲弥はそれを言わなかった。
十分ではないものでも、今ここで捕虜の腕を少し軽くした。
✶
夕方、哲弥は外周勤務の詰所へ行った。
外周勤務者の一人が、箱の上に座っていた。配膳担当だという。手首に湿布が巻かれている。湿布は救護班の簡易品で、薬草の匂いより粘土の匂いが強い。
「武田さんですか」
「はい」
「これ、俺が何かしたんですか」
彼は右手を持ち上げた。
指は動く。
けれど、握り込む時だけ遅れる。
「水と粥を運びました」
「それは、仕事です」
「はい」
「殴ったのは俺じゃない」
「はい」
粥の椀はもう空だった。底に残った白い膜だけが、揺れずに張りついている。
「でも、痛む」
哲弥は、その先を言えなかった。
言えば、理屈になる。
理屈にすると、この兵の手首は紙の上へ戻る。
「すみません」
哲弥は言った。
兵は困ったように眉を寄せた。
「謝られても。いや、謝るなら、湿布をもう一枚ください。これ、すぐ剥がれる」
哲弥は、近くの救護箱から湿布を取った。
兵に渡す。
兵は左手で受け取った。
「左で貼るの、下手なんですよ」
「手伝います」
「いいんですか」
「はい」
哲弥は湿布の紙を剥がした。薬草と粘土の匂いが強くなる。手首に巻く。
兵の皮膚は少し熱かった。人に与えた影響が返る。その原理は、間違っていない。
間違っていないものが、人を困らせる。それが一番、始末に悪い。
✶
夜、哲弥は銅板を二枚、机に置いた。
一枚は昨日預かったもの。
一枚は森田が止めさせた柱のもの。
どちらも、ただの銅板に戻っている。刻まれた溝だけが残り、光はない。
光がないと、無害に見える。無害に見えるものほど、箱に戻される。箱に戻されれば、次に誰かが開ける。
哲弥は小刀を取った。銅板を壊すのは簡単だ。簡単すぎる。
刃を当てる前に、外で柵番の呼び笛が鳴った。
「第三柵、夜間確認! 外周勤務、二名交代!」
声が天幕を抜けた。誰かが鍵を持つ。誰かが運ぶ。
誰かが記録する。誰かが、少し痛む。哲弥は小刀を置いた。
二枚の銅板を別々の布で包み、同じ箱には戻さなかった。
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