ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 八章 七節
『進む足の後ろで、返すべき荷だけが夜まで残る。』
前進再開の合図は、朝ではなく夜明け前に来た。
空はまだ黒い。
天幕の布だけが、魔導灯の明かりで内側から薄く白い。
通信台の上には、昨夜から乾かしている符号札が並んでいた。湿気を吸った札は反り、端が少し浮く。浮いた分だけ、箱へ戻す時に引っかかる。引っかかれば、次の符号が遅れる。
井上希望が、反った札を一枚ずつ裏返していた。
彼女は眠そうな目をしているのに、札の向きだけは間違えない。王城で地図を読んでいた時も、道そのものより、人が最後に曲がった場所を先に覚える人だった。
「先輩、北側の古い水路、少し前なら人が通っています」
「人数は」
「多くはないです。三、四。荷車はありません」
「敵の残置確認でしょうか」
「たぶん。戻る線を見ています」
戻る線。
僕が使う言葉が、井上さんの口にも移っている。
それでいいのか、少し迷う。
でも、別の言い方を探している時間はない。
「沢渡さん」
沢渡澄人は、地図の端で水筒の蓋を閉めていた。昨夜から同じ外套を着ている。裾の草の種は増えていた。彼は、教室なら席の下へ落とした消しゴムを拾う時、先に机の脚を見る人だった。今も地図ではなく、地図の横に置かれた泥のついた靴跡を見ている。
「旧水路、通れますか」
「通れます。ただ、担架は傾きます。二人担ぎなら足を取られます」
「四人担ぎなら」
「遅いです。でも戻せます」
戻せる。
その言葉だけ、地図に赤ではなく青で書きたくなる。
「では、旧水路は医療線に回します。第一梯団は使わない。第二梯団の荷車も入れないでください」
通信兵が復唱する。
「旧水路、医療線。第一梯団使用不可。荷車進入禁止」
僕は頷いた。
前へ進む線を一本減らした。
戻る線が一本増えた。
✶
反攻作戦の第二段階は、派手な始まり方をしなかった。
砲兵は撃たない。
装甲車は前に出ない。
歩兵は旧街道から半歩だけ外れ、濡れた低地の縁を踏む。
敵が見ている道を、そのまま進まない。敵が撃ちたい場所に、先に荷を置かない。
「北東林後方、値が六。距離二・一キロ。昨日の後退線より北です」
僕は地図へ黒い印を置いた。
「相手は、こちらの主軸を旧街道だと思っています。たぶん、砲兵を待っています」
軍務局書記官が、眼鏡を外して布で拭いた。曇りが取れきらない。彼はそれでもかけ直す。
「こちらは撃たない」
「はい。撃たないことで、相手に待たせます」
「待たせる戦果は、記録上どう書きますか」
困る質問だった。壊した敵なら書ける。
撃った弾なら書ける。待たせた時間は、少し逃げる。
「敵砲兵、射撃機会喪失。時間、二十分単位で」
「喪失、と」
「はい。こちらが奪ったとは書かないでください」
書記官のペン先が止まる。
「なぜです」
「奪ったと書くと、次も奪いに行きます。待たせた、と書いてください」
書記官は少し眉を寄せた。けれど、ペンは動いた。敵砲兵、射撃機会喪失。
待機時間、二十分。文字になると、きれいすぎる。
その二十分の中で、足を止められた敵兵もいる。砲の横で水を飲む者もいる。こちらの担架も動く。
全部は書けない。
だから、書き方を間違えると、次の人が違うものを真似る。
✶
朝の薄い光が出るころ、敵は小さく動いた。北東林の奥から、装甲車ではない影が出る。
人。七。
そのうち一つだけ、頭上の値が妙に低い。生命ではない。精神の輪郭が弱い。眠っていないのか、昨日から戻され続けているのか、あるいは別のものを背負っているのか。
僕はそこを撃たせなかった。
「北東林奥、七。距離一・八キロ。推定観測手一、護衛六。火点二、待機」
「待機」
「はい。偽火点三だけ、魔導灯を半分」
魔導灯の光は、煙の中でぼやける。そこに人がいるように見える。
昨日と同じ手は、普通なら使わない。だから、少し変える。
「装甲車一、今度は見せません。音だけください。低速で十歩、止まる」
通信兵が一瞬迷った。
「音だけ」
「はい。相手に、車体位置を誤らせます」
B.I.G-ACFV-65の駆動音は低い。歯車とフライホイールの音が混じり、湿った地面では距離がずれる。見えない場所で鳴れば、実際より近く感じる。
装甲車が十歩だけ動いた。
音が来る。
北東林の値が止まった。
推定観測手が、偽火点ではなく音の方を向く。
「今です。第一梯団、前進三百。旧街道ではなく低地縁。砲兵はまだ撃たないでください」
復唱が重なる。
赤線が動く。
青線は、その後ろを太くする。
味方が前へ出ているのに、僕の手は青を太くしている。
進軍という言葉は華々しく聞こえる。
でも実際の指揮所では、青い戻り線の方が減ると人が死ぬ。
✶
八時過ぎ、敵がやっと撃った。
砲弾は旧街道へ落ちた。
誰もいない場所だった。
白い土が上がり、遅れて石が降る。通信天幕まで、細かい砂が届いた。机の上の地図に一粒だけ落ちる。僕は払わなかった。
「敵砲撃一。旧街道中央。損害なし」
通信兵が読んだ。
若い兵の左耳の包帯は新しくなっている。右側から話すと返事が遅いままだが、符号の読みは戻ってきた。
「敵砲撃二、旧街道北曲がり。損害なし」
書記官が記録する。損害なし。
その言葉は軽い。軽いから、みんな好きになる。
でも、損害がないのは、誰かが前に出なかったからだ。誰かが荷車を止めたからだ。誰かが濡れた水路で担架を傾けながら進んだからだ。
「医療線は」
「旧水路、担架三。速度遅いですが、通過中」
「護衛は」
「二名。沢渡さんがついています」
沢渡さん。
二百歩を数えた人が、今度は担架の傾きを見ている。
彼がそこにいるなら、担架はひっくり返らない。
たぶん。
たぶんを命令の中に入れるのは嫌だ。
でも、戦場はたぶんでできている。
「旧水路護衛へ。急がず、担架優先。第一梯団は先に行かせます」
通信兵が復唱する。
その直後、井上さんが顔を上げた。
「先輩。少し前の位置で、敵が旧水路を見ています」
「数」
「二。今は、もう少し近いかもしれません」
「距離」
「八百から七百」
近い。
医療線に近い。
僕は地図の青線に指を置いた。
敵は、こちらの赤線ではなく、青線を見つけた。
「火点四、準備。撃たないでください。魔導灯を水路の反対側へ。装甲車一、音を止める。砲兵、旧水路ではなく、その北二百。諸元だけ」
通信兵が復唱する。
僕は続ける。
「沢渡さんへ。担架を止めないでください。敵は水路を見ていますが、まだ撃てる位置ではありません。火点四が目を取ります」
言い切った。言い切った後で、奥歯に力が入った。違っていたら、担架が撃たれる。
でも、止めれば水路で詰まる。詰まれば、砲撃二発目で終わる。沢渡さんから返答が来た。
「了解。担架、止めません」
声は短い。
水音が混じっていた。
✶
火点四の魔導灯が、水路の反対側で灯った。光は弱い。弱いのに、夜明けの霧ではよく見える。
敵の値が二つ、そちらへ向いた。七百。
六百五十。火点四は撃たない。
撃てば場所が割れる。撃たなければ、敵はそこに何がいるか確かめたくなる。
「火点四、灯り維持。音を出さないでください」
水路の青線が進む。
担架三。
一つは生命が薄い。
HPの文字が、地図の上ではなく、頭の端に滲む。距離があるのに、薄く見える。見えすぎる。
僕は瞬きをした。
消えない。
「医療線、あと何歩」
「旧水路出口まで、百五十」
「敵は」
「二。六百」
間に合う。
たぶん。
敵の一つが膝をついた。
推定観測手ではない。小銃。長い銃身。こちらの火点四を撃つには遠い。水路なら、角度がある。
「火点四、灯りを落としてください。今」
光が消える。
敵の銃口が迷う。
「砲兵、北二百。一発。散らすだけ」
砲声。着弾。
敵の二つが伏せる。水路側へ撃てない。沢渡さんの声が入った。
「担架、出口通過」
通信天幕の中で、誰かが息を吐いた。僕は地図の青線へ小さな丸をつけた。戻った。
戻せた。敵二、損耗不明。味方担架三、通過。
砲弾一。魔導灯一、消灯。戦果表にすると、また順番が変わる。
担架三を先に書きたい。書類は、たぶん砲弾一を先に欲しがる。
担架の一つは、旧水路の出口で一度だけ止まった。
担架手が肩を入れ直し、乗っている兵が短く何かを言った。水が欲しい、だったのか、痛い、だったのか、符号板の横までは届かない。
それでも担架は進んだ。
今日の戦果で、一番先に書きたいものはそれだった。
✶
昼前、第一梯団は予定線へ届いた。
旧街道ではなく、低地縁。
敵砲兵は二度撃ち、二度とも空を叩いた。三度目はなかった。こちらの砲兵も、三発しか使っていない。装甲車一は駆動カバーの修理を終え、まだ前へ出ていない。第二梯団は、水路の詰まりを避けて半日分の荷を残した。
進んだ。でも、全部は持って行けなかった。残した荷の中に、予備の結界板が二枚ある。
魔導冷却液の空瓶が五本。割れた符号札が七枚。
旧街道で使うはずだった赤い標識杭が十一本。
その十一本を、工兵が青く塗り直している。
「次は戻る線に使えます」
片耳の工兵が言った。
片耳の腫れは引いていない。けれど、刷毛を持つ手は乱れない。彼は命令を待たずに、赤を青へ塗り替えている。
「ありがとうございます」
「礼は、塗料が乾いてからでいいです」
僕は返事に困った。
工兵は刷毛を瓶に戻し、こちらを見ずに続ける。
「少尉案って、もう後ろで呼ばれてますよ」
「何がですか」
「旧街道を空にして、低地縁を通したやつです」
少尉案。変な名前だ。でも、こういう名前は残る。
残ると、次に誰かが使う。使われる時、僕はいないかもしれない。
「正式名にしないでください」
「俺に言われても」
「ですよね」
「ただ、青く塗る方は正式にお願いします。明日、僕が間違えるので」
工兵が少し口元を動かした。
笑いかけたのか、塗料の匂いが強かったのか、どちらでもよかった。
✶
午後、森田さんから通信が入った。音声ではない。短い符号文。
反攻第二段階、暫定成功。損耗軽微。負傷者後送、維持。
第一王城へ報告済み。最後に、別の紙片がついていた。軍務局用ではない。
森田さんの字だった。細く、急いでいるのに崩れない字。
桜華さん、昼に粥を半分。それだけ。僕はその紙片を、戦果表の横に置いた。
置き場所が分からなかった。軍務報告ではない。医療記録でもない。
でも、今日の進軍で一番確かな報告のような気がした。
「少尉」
書記官が呼んだ。
「戦闘詳報の締め、どうしますか」
「締め」
「作戦目的です。敵戦力の撃滅、戦線押し上げ、通路確保。どれで記載しますか」
どれも嘘ではない。
嘘ではない言葉が、いちばん危ない時がある。
僕は地図を見た。赤線は前へ出ている。青線は太くなっている。
黄色い医療線は、旧水路を抜けている。黒い補給線は、まだ細い。
「通路確保でお願いします」
「反攻作戦としては、弱い表現になります」
「はい」
「理由は」
僕は少し黙った。机の上に、沢渡さんが拾った薬莢がある。
昨日のものだ。まだ、捨てていない。
「敵を押すためではなく、こちらが返すために使う通路です。負傷者、荷、命令、報告。戻せるものを戻すための道です」
書記官はペンを持ったまま、僕を見た。
内心までは分からない。
ただ、彼の眼鏡の曇りは、朝より少し薄くなっていた。
「通路確保。戻送路維持を併記します」
「お願いします」
その言葉で、この反攻の戦果が一つ、紙に載った。
大きな勝利の名前ではない。
でも、今日はそれでいい。
✶
夕方、第一梯団から報告が来た。予定線到達。敵追撃なし。
負傷者三、後送済み。行方不明、なし。行方不明なし。
その五文字を、通信兵が読み上げる。天幕の中の手がいくつか止まった。誰も大きな声は出さない。
でも、地図の上で、青線が少し太く見えた。
僕は自分の手を見た。
朝から鉛筆を握っているのに、指はまだ動く。
疲れている。
疲れているのに、動く。
戦果が上がるほど、体が戦場に合わせていく。
それを喜ぶための言葉は、どこにも置きたくなかった。
「明日の予定は」
通信兵が聞いた。
僕は地図を畳まなかった。
「前進は続けます」
赤線を少し伸ばす。
その後ろに、青線を引く。
「ただし、先に戻す線を引きます」
通信兵が復唱する。
「先に、戻す線」
外で、塗り直した標識杭が乾いている。赤だったものが、青になっていく。進軍は、明日も続く。
勝つための言葉を使えば、きっと速くなる。でも、今日はその言葉を使わない。
僕は青い線をもう一本、地図の端まで引いた。
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