ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 八章 八節
『空いた席は声を出さない。ただ、次に座る者の背を少し低くする。』
翌朝、塗り直された標識杭はまだ乾ききっていなかった。
赤だったものが、青になっている。
塗料の匂いは強い。湿った木に染み込んだ青が、天幕の端で少し光って見える。工兵はそれを一本ずつ布で拭き、乾いた順に箱へ戻していた。
「少尉案の杭です」
片耳の工兵が、わざとらしく言った。
「正式名にしないでくださいって言いましたよね」
「だから略称です」
「余計に悪いです」
工兵は刷毛を瓶の縁でしごいた。腫れた耳の下に、乾いた泥が線になって残っている。笑っているのか、ただ口を動かしただけなのかは分からない。
「青杭一番から十二番、乾燥八割。十一本じゃ足りなかったので、一本増やしました」
「ありがとうございます。僕が昨日、十一で足りる顔をしていたら、たぶん見栄です」
「見栄でしたか」
「見栄ということにしておいてください。計算違いよりは、少し格好がつきます」
天幕の端にいた通信兵が、小さく吹き出した。
その笑いはすぐに消えた。通信台には、朝一番の一覧が届いている。
反攻第二段階、継続。第一梯団、予定線保持。第二梯団、低地縁へ前進準備。
転移者班、再編表確認。最後の行だけ、紙の上で少し重い。
✶
再編表は、白い紙ではなかった。
何度も書き直されたせいで、欄の上に薄い線が残っている。消された名前、移された名前、医療保留、行方確認中、任務停止。そこに新しい線を引くと、紙の繊維が少し毛羽立つ。
森田さんの声が、通信具の向こうから入った。
「反攻作戦への転移者班再編を確認します。これは徴用名簿ではありません。登録区分は、臨時軍属補助、医療保留、協会預かり、任務停止の四つ」
「抜け道の名前が増えましたね」
「ええ。名前を増やさないと、人を逃がせませんから」
森田さんの声は穏やかだった。けれど、語尾だけ少し乾いている。図書館で紙を扱っていた人の声ではなく、紙を盾にしている人の声だった。
僕は表の左端を見た。三郷弦。線が引かれている。
前衛指揮。士気維持。
突入判断。その三つの欄が、空いている。
文字だけなら、他の誰かの名前を入れられる。実際、表には候補が入っていた。前衛指揮は現地下士官補佐。士気維持は各小隊長。突入判断は、作戦ごとに保留。
保留。
三郷の場所に、保留と書いてある。
僕は鉛筆を持ったまま、親指の爪で木の軸を押した。
「羽黒少尉」
軍務局書記官が呼ぶ。眼鏡は昨日より曇っていない。代わりに、袖口にインクがついている。
「前衛指揮の空欄について、あなたの意見を」
「私が入る場所ではありません」
「分かっています」
分かっています、と言われると、逃げ道が一つ減る。
「前衛指揮は現地小隊長に分散。桐谷さんが見ていた射線管理は現地射手長へ。佐々木さんが補っていた結界・障壁の不足は結界班長へ。転移者側で回せるのは、山崎さんの砲兵連絡の読み合わせです」
名前を出すたび、この世界へ落ちてからの場面が一つずつ戻る。
桐谷さんは、石畳の上で髪を直すより先に周りを見ていた。僕が見ていた銃口を、僕より早く危険へつなげた。
佐々木くんは、訓練場で剣帯を先に整えた。声より手順が先に出る人だった。
山崎くんは、射撃線で軽口を言いながら、最後の二発だけ上へ逃げた弾を気にしていた。
今は、桐谷さんと佐々木くんの二つを別の誰かが引き受ける。
山崎くんだけが、砲兵連絡の欄に残っている。
変換が、早すぎる。
「観禮さんは」
「議事と連絡整理の欄は、もう別の文官へ移してください」
竹内さんの字を思い出す。
最初の会議で、竹内さんは声を少し高くしながらも、先に手を上げた。空白のままにしておけない人だった。
今は、その欄にも線が引かれている。
「羽黒少尉も同じです」
通信兵が、つい口を挟んだ。
若い兵だった。左耳の包帯が少しずれている。
「今のは、記録しないでください」
「記録しません」
「助かります。僕の欠点欄が増えると、森田さんが喜びます」
「喜びません」
森田さんの声が即座に返った。
通信台の周りで、また短い笑いが起きた。今度は、さっきより少し長い。
僕はその間に、三郷の空欄を見ないで済んだ。
✶
再編表の次は、法的区分だった。被保護者。
雇用者。臨時軍属補助。
言葉が変わると、食事の配給口も、医療の優先順位も、命令を拒否できる範囲も変わる。
森田さんは、それを一つずつ説明しない。必要なところだけを言う。
「医療保留は命令対象外。協会預かりは軍務依頼を拒否できます。臨時軍属補助は、命令伝達に従いますが、前線戦闘への強制配置は別手続きです」
「別手続き」
「ええ。面倒でしょう」
「面倒です」
「面倒にしてあります」
森田さんの声に、薄い棘があった。
面倒だから、勝手に前へ出せない。
面倒だから、書類が一枚必要になる。
面倒だから、その一枚を書く人が、ほんの少し手を止める。
戦場では、そのほんの少しが命に近い。
「羽黒少尉には、再編表の確認権限を付けます」
「確認だけですか」
「表向きは」
「裏は」
「異議申立の入口です」
書記官がペンを止めた。
通信兵も、符号板から顔を上げる。
「あなたが『この配置はおかしい』と言えば、森田ロハンの文書顧問印で一度止めます。止められる時間は長くありません。でも、一度止まれば、別の登録区分へ逃がせる人がいます」
「私が見落としたら」
「通ります」
短い答えだった。
喉の奥に、昨日の塗料とは違う苦さが残った。
僕が見る範囲が増える。
見落とせる範囲も、増える。
「では、確認します」
僕は言った。
軽く言えなかった。
だから、言い直す。
「ただ、字が汚い欄は戻します。そこは容赦しません」
「字で止めるのですか」
書記官が聞いた。
「字が読めない命令で人を動かすのは、たぶん一番もったいないです」
書記官は、自分の袖口のインクを見た。
「努力します」
「お願いします。私も努力します」
通信兵が、再編表の写しを僕の前へ置いた。
紙は重くない。
重くないのに、持つと指が沈む。
✶
昼前、再編表は戦場に変わった。旧街道外縁の第一梯団から、短い報告。敵歩兵、南東林より小規模接近。
数、十二。装甲なし。結界板、二。
推定観測手、一。距離、一・四キロ。
目的は、こちらの低地縁の進路確認。昨日、こちらが旧街道を空にしたことへの反応だ。
「第一梯団、発砲許可を求めています」
通信兵が読む。
僕は地図を見た。
第一梯団の射線は、通る。通るが、撃てば敵は林に散る。散った敵は、青杭の位置を見る。
青杭。
戻る線。
「発砲禁止。現地射手長へ射線確認を回してください。撃つのは火点三ではなく、見せるだけです」
「射手長班、射線確認」
通信兵が復唱する。
少しして、射手長の短い返答が入った。
「火点三、撃てます。でも撃つと水路が見えます」
「撃たないでください。相手には、撃てることだけ伝えます」
「どうやって」
「足元の土を撃つ。先頭から二歩前。結界板には当てない」
「了解」
数秒後、乾いた銃声が一つ。敵の先頭、その二歩前で土が跳ねた。敵の列が止まる。
結界板は揺れない。人も倒れない。止まった。止まっただけで、第一梯団の左側が進む。
「結界班へ。障壁は張らないでください。敵に、こちらが怖がっているように見せたくない」
返答は少し遅れた。
「了解。張らないのは苦手です」
「僕もです」
「では、我慢比べですね」
「はい。できれば勝ってください」
通信台の周りで、誰かが小さく笑った。その間にも、敵の十二は止まっている。推定観測手の値が、少し乱れた。
撃たれていない。でも、撃てると分かった。人は、それだけで足を止める。
「山崎さんへ。砲兵連絡、再集結点候補ではなく、南東林の出口を読むよう伝えてください。撃たない。読むだけ」
「了解。撃たない砲兵って、ストレス溜まりそうだな」
「あとで僕のせいにしてください」
「それ、便利すぎるだろ」
「便利な少尉で売っています」
山崎くんが、通信具の向こうで笑った。笑い声は、すぐに砲兵連絡の符号に変わる。撃たない。
張らない。追わない。それでも、師団は進む。
✶
敵の十二は、七分で下がった。死者なし。敵負傷、不明。
こちら損害なし。第一梯団、予定線より二百歩前進。記録だけなら、小さな接触だった。
でも、再編表の空欄が一つ動いた。射手長は撃てる場所を撃たなかった。
結界班長は張れる障壁を張らなかった。山崎くんは撃てる砲を撃たせなかった。
三郷がいない場所で、三人が別々に止まった。
それを、僕が線でつないだ。
うまくいった。
うまくいったから、嫌だった。
「少尉、戦果欄は」
書記官が聞く。
「敵小接触、発砲一、敵停止七分、味方損害なし」
「前進二百歩は」
「併記してください。ただ、先に損害なしを」
「戦果の前に、損害なし」
「はい」
書記官はペンを動かした。
通信兵が、次の紙を差し出す。
その手の甲に、青い塗料がついていた。さっき工兵の箱を運んだのだろう。
「少尉、青杭の配置図です」
「ありがとう。塗料、ついてます」
「え」
通信兵が慌てて手を引っ込める。
「大丈夫です。今日の正式色です」
通信兵が笑った。笑ったあと、すぐに符号板へ戻る。僕も地図へ戻った。
青い線が一本、また伸びている。その線の上に、三郷の名前はない。ないまま、線は動く。
僕は再編表の空欄に、保留、と書かれた文字を見た。
保留。
まだ決まっていない持ち場がある。
それでも、戦場は待たない。
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