ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 八章 九節
『標の色を変えても、戻る者の足音までは変わらない。』
青杭は、昼前に最初の仕事をした。
旧街道外縁から低地縁へ抜ける細い道。そこに、青く塗り直した標識杭を六本、地面へ浅く刺す。深く刺さない。撤収時に抜けなくなるからだ。倒れない程度に立てて、遠目には目立たない角度にする。
工兵が、一本ずつ向きを合わせている。
片耳の工兵ではない。別の若い工兵だった。頬に塗料をつけたまま、杭の頭を手のひらで叩く。手袋の縫い目がほつれていて、叩くたびに糸が揺れた。
「青杭、六本設置」
通信兵が読んだ。
「戻送線、旧水路から低地縁へ接続」
地図の青線が、昨日より少し太くなる。
僕はそこへ黒い小札を置いた。
「医療線は青杭四番まで。五番から先は補給線と重なるので、担架は通さないでください」
「青杭四番まで」
通信兵が復唱する。
「五番から先、担架禁止」
「禁止というより、別の道へ回す、でお願いします」
通信兵が顔を上げた。
「記録上ですか」
「はい。禁止ばかりだと、現場が怒ります」
「怒りますか」
「僕なら怒ります」
通信兵は、少し笑ってから書き直した。青杭五番以北、担架は旧水路側へ回送。
文字は硬い。でも、禁止よりはましだ。
✶
敵が青杭を読んだのは、その三十分後だった。
南東林の奥から、値が四つ出る。
低い。
人間。距離、一・二キロ。さっきの十二より近い。動きが速い。散らばらず、二人ずつに分かれている。
「敵斥候、四。南東林内。青杭線を見ています」
僕は青杭四番の少し南に鉛筆を置いた。
「装甲なし。結界板なし。推定観測手は」
薄い表示が一つ、枝の奥で滲む。
「一。たぶん、前へ出ています」
山崎くんの声が通信具の向こうで鳴った。
「砲兵で散らす?」
「撃たないでください」
「出た。撃たないやつ」
「山崎さんの得意分野でしょう」
回線の向こうで、山崎くんが鼻を鳴らした。
「俺、撃つ方が得意なんだけど」
「知っています。だから撃たない場所も分かると思っています」
少し間が空いた。
「ずるい言い方するなあ、少尉」
「便利な少尉なので」
通信台の端で、若い兵が口元を隠した。
僕は青杭四番を見る。
敵は、そこを見ている。
青い標識が戻送線だと気づいたなら、次はそこへ撃つ。直接撃たなくてもいい。近くへ砲弾を落とすだけで、担架は止まる。担架が止まれば、第一梯団の後ろが詰まる。
「現地射手長へ。南東林、二人一組の先頭。撃たない。足元二歩前も撃たない。銃口だけ見せてください」
「銃口だけ」
通信兵が復唱する。
「結界班へ。青杭四番の北側に板状障壁を一枚。正面ではなく斜め。守るためではなく、相手の目を滑らせます」
「板状障壁、斜め」
青杭四番の札へ、結界班の印が重なった。
「山崎さんへ。砲兵連絡、南東林の出口ではなく、出口の後ろ三百を読むように。敵が下がる先を見ます」
「了解。撃たない砲兵、今日も元気に待機」
「元気なら何よりです」
「砲兵が元気かは知らん」
その声で、天幕の空気が少し緩む。
緩んだまま、命令は走った。
✶
射手長の班が銃口を見せた。
発砲はしない。
ただ、林の縁へ向けて、三つの銃口が同じ角度で上がる。敵の先頭二人が止まった。
同時に、青杭四番の北側で結界が立つ。
板状の薄い光。
面は途切れない。斜めに立てられたその面は、こちらを隠す盾ではなく、そこに何かがあると敵に思わせるための印だった。霧の中で白く歪み、青杭の色を少し鈍らせる。
敵の推定観測手が、結界へ目を取られた。
値が止まる。
「今です。青杭四番、担架通過を進めてください。急がせない」
復唱が返る。
旧水路側から、担架二が動く。
距離はある。けれど、僕の視界の端に薄い「HP」が滲んだ。片方は低い。もう片方は、数字が揺れていて読みにくい。
見えすぎる。
見えすぎるのに、全部は見えない。
「担架二、青杭三番通過」
通信兵の声。
「敵斥候、前進再開」
敵が結界の横を読もうとしている。
銃口だけでは足りない。
でも、撃てば戻送線が割れる。
僕は鉛筆の先を青杭四番から南東林の奥へ動かした。
「山崎さん」
「はいよ」
「砲兵、出口後ろ三百。煙弾一。殺傷ではなく視界遮断」
「了解。煙一。やっと撃てる」
発砲前の確認音が回線に入った。
「煙です」
「撃つには違いない」
山崎くんの声が軽い。軽いから、助かる時がある。
数秒後、砲声が遅れて届いた。着弾は林の奥。
白い煙が、枝の間から太く出る。敵の四つの値が、煙の手前で乱れた。前へ出るか、戻るか。その迷いだけで、担架二は青杭四番を越えた。
「担架二、青杭四番通過」
通信兵が読む。
「青杭五番へ入れないでください。旧水路へ回します」
「旧水路へ回送」
返答が来る。
担架は曲がった。
敵は撃てなかった。
✶
戦果表には、たぶん短く載る。敵斥候四、前進停止。煙弾一。
味方担架二、後送継続。味方損害なし。
その四行に、青杭を塗った工兵の手袋は入らない。銃口だけを見せた射手長の息も入らない。障壁を斜めに立てた結界班長の判断も、たぶん脚注になる。
桐谷さんなら、撃てる場所を先に見ただろう。
佐々木くんなら、張れる障壁の厚みを先に考えただろう。
でも、今ここにいるのは射手長と結界班長だ。
その二人が、撃たず、張りすぎず、待った。
だから担架が戻った。
「少尉」
通信兵が言った。
「戦果欄、どうしますか」
「担架二後送継続を先に」
「敵斥候停止より先ですか」
「はい」
通信兵は、もう聞き返さなかった。
青い塗料のついた手で、戦果欄の一行目を書き直す。
担架二、後送継続。
僕はその字を見た。
昨日より、少し太い字だった。
「字、読めます」
僕が言うと、通信兵が眉を上げた。
「そこを褒められるとは思いませんでした」
「大事です。字が読めると、人が迷いません」
「では、今日の戦果に入れておきます」
「それは入れなくていいです」
通信兵が笑った。
僕も、少し口元を動かした。
笑った形は作れた。
その間にも、青杭の先では煙が広がっている。
誰かが戻ってくる。
戻れなかった人の代わりを、誰かがまた引き受けている。
戦場は、そうやって進んでいく。
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