ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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八章十二話 灯を移す窓

《王録》 八章 十二節

『窓を閉ざす者は、外の夜より先に内の灯を数える。』

 

 左手は、しばらく地図の下に置いたままだった。

 

 紙越しに指を動かすと、地図の繊維が手袋へ引っかかる。乾いた紙ではない。湿気を吸った紙だ。折り目のところだけが少し厚く、押すと戻りが遅い。

 

 僕の手も、戻りが遅い。

 

「少尉、北東丘の敵、後退完了」

 

 通信兵が報告する。

 

「確認しました。火点三、死んだふり解除。演技、お疲れさまでした」

 

「火点三より、死人扱いは不服とのことです」

 

「では、休憩中扱いで」

 

「それなら通るそうです」

 

 通信台の周りで、小さく笑いが広がった。僕は左手を地図の下から出す。手袋には何もない。

 

 文字もない。さっき見えたものは消えている。消えているなら、仕事はできる。

 

「北東丘の後退路を追わない。代わりに、丘裏へ偽の弾薬箱を二つ。徹甲弾の空箱ではなく、通常弾の空箱を使ってください」

 

「なぜ通常弾ですか」

 

 書記官が聞く。

 

「徹甲弾を隠したいなら、徹甲弾の空箱を見せるのは丁寧すぎます。通常弾の箱だけが前にある方が、徹甲弾を後ろへ下げたように見えます」

 

「外れた場合は、少尉の判断として記録します」

 

「当たったら、現地小隊長の演技力も入れてください」

 

 書記官は、今度は声を出さずに笑った。

 

 ペン先だけが少し揺れる。

 

 僕はそれを見ないようにして、次の札を取った。

 

 

 敵は、こちらを試す場所を変えた。

 

 北東丘ではない。

 

 南の低地。

 

 旧水路の出口からさらに西、葦の倒れた帯の向こう。

 

 距離、一・八キロ。

 

 値、二十六。

 

 歩兵十六、結界補助具四、機関銃らしき重い値が二つ。残り四つは薄い。観測か、魔術か、まだ分からない。

 

 そのうち一つだけ、奥の表示が見えた。

 

 先ほどの英雄級ほど硬くない。

 

 けれど、群れを前へ出す力だった。

 

「南低地、新規接近。敵二十六。結界補助具四、重機関銃相当二。推定観測または魔術四。指揮核、一」

 

 通信兵が復唱する。

 

 別の符号が重なった。

 

「第二梯団、低地縁通過後、左側で渋滞。荷車二、泥へ沈みかけています」

 

「医療線、担架一、旧水路枝線を通過中」

 

「工兵班、青杭五番を倒しました。敵からは折損に見えるとのこと」

 

「北方連隊観測所より中継。北東稜線の敵主力、連隊規模で展開中。当方の視界には入りません」

 

 北方連隊。

 

 地図の外側で、もっと大きなものが動いている。目の前の二十六人は、そのほんの先端でしかない。遠くで、途切れない砲声が重なり合っているのが、天幕の布越しにも分かった。一つひとつの発射音ではなく、束になった低い震えだった。

 

 二十六の値のどれが敵で、どれが後退中の味方観測班か、境目の色が一瞬滲んで消えた。全部を同時には読めない。

 

 南、北東、旧水路。荷車と担架。全部が同じ紙の上に乗る。

 

 僕は地図の端へ、一・八、七百、三百と小さく書いた。

 

 数字が並ぶと、少し呼吸が戻る。

 

 人ではなく、距離なら数えられる。

 

「南低地の敵は、荷車の渋滞を狙っています。戻送線ではなく、補給線です。目的は青杭ではない」

 

「どちらが危険ですか」

 

 書記官が聞いた。すぐには答えられない。担架を守るか。

 

 荷車を守るか。どちらも、戻るための線だ。

 

「今は、荷車です」

 

 言った瞬間、喉が狭くなる。

 

 担架一の報告が、通信具の奥で小さく鳴っている。

 

 それでも、荷車を選ぶ。

 

 補給線が詰まれば、明日の担架が増える。

 

「医療線へ。担架一、速度維持。護衛を増やさない。荷車側へ護衛二を回してください」

 

「担架護衛を減らしますか」

 

 井上さんの声だった。

 

 いつもより低い。

 

「減らします。青杭四番までは射線が通っています。そこを越えたら、旧水路の壁を使ってください」

 

「分かりました」

 

 返事は短く、すぐに通信具の雑音が戻った。納得した声には聞こえない。僕自身も、納得を求められる判断だとは思っていなかった。

 

 担架一の符号の脇に、一瞬だけ薄い字が浮いた。状態、出血。読み切る前に消える。運ばれている兵のものか、それとも別の誰かのものか、判別する前に文字はもう無くなっていた。

 

「井上さん」

 

「はい」

 

「戻ったら、文句を受け付けます」

 

「長くなります」

 

 井上さんの息が、少し揺れた。

 

「聞きます。まず戻ってください」

 

「では、戻ります」

 

「お願いします」

 

 通信が切れる。

 

 僕は南低地へ赤い札を置いた。

 

 

 南低地の敵は、よく訓練されていた。

 

 結界補助具四つが、前に出すぎない。板状の結界を重ねず、少しずつずらして進む。面は途切れない。ただ、面の重なり方でこちらの射線を迷わせる。

 

 重機関銃二つは、撃たない。撃たずに、こちらの荷車へ向きを合わせる。撃たれていない荷車が止まる。

 

 馬が首を振る。車輪が泥へ沈む。

 

「南低地、荷車二停止」

 

「工兵、牽引準備」

 

「敵重機関銃、発射姿勢」

 

 通信が速くなる。

 

 僕は南低地の端に鉛筆を置いた。

 

「結界班、荷車前へドーム状障壁。完全に覆わないでください。上を少し低く。馬が暴れます」

 

「荷車前、低いドーム。馬の頭は外へ出します」

 

 復唱と同時に、結界班の二人が荷車の左右へ分かれた。

 

「射手長、結界補助具の前面ではなく、左から二枚目の地面。泥を跳ねさせる。敵の結界面を汚してください」

 

「左二枚目の地面。泥を上げる」

 

 射手長が照準を結界面から下へ移した。

 

「山崎さん、南低地、敵後列のさらに後ろ。距離、二百。直接狙わず、土煙を壁にしてください」

 

「敵の後ろへ一発。土を上げる」

 

 砲声。着弾。南低地の後ろで、泥と土が高く上がった。

 

 敵の重機関銃が、一瞬だけ見えなくなる。その一瞬で、工兵が荷車の前へ走った。走るな、と言いたくなる。

 

 でも、今は走らないと間に合わない。僕は口を閉じる。言わない命令も、命令になる。

 

 工兵二名が荷車の前へ入り、牽引用の鎖をかける。

 

 僕は息を止めていたことに、鎖の音で気づいた。吐く。喉の奥が少し軋んだ。

 

 土煙の上を、双発機が一機だけ低く抜けた。機銃座の脇へ短く撃ち込み、そのまま荷車の上を跨いで稜線側へ抜ける。

 

 長くは留まらない。撃たれる前に抜けるための速さだと分かった。

 

 敵重機関銃の値が揺れた。

 

 撃つ。

 

「結界班、今」

 

 ドーム状の結界が低く張られる。光は薄い。馬の頭だけが外に出ている。

 

 弾が来た。音は、布を裂くより重い。

 

 結界面に白い波が走る。面は途切れない。波は端まで行き、泥へ散った。

 

 荷車の横板が割れる。

 

 人は倒れない。

 

「荷車損傷。人員損害なし」

 

「牽引、続行」

 

 通信兵が読む。

 

 その声に、少し熱が入った。

 

 僕は赤鉛筆を握る。

 

 敵の指揮核の、奥の表示が一瞬だけこちらへ傾いた。

 

 こちらの指揮所を探す動き。まただ。

 

 僕は地図の外側を見る。天幕、通信台、書記官、青い爪の通信兵。僕がいる場所。

 

「通信台、予備符号へ切り替え。現在の発信間隔を三分の二へ。僕の声は中継一を通してください」

 

「指揮所を隠しますか」

 

「発信間隔だけ変えます。大きく変えると、かえって探されます」

 

 通信兵は頷き、符号板を入れ替えた。青い爪が、白い板の上で動く。僕はそれを見て、左手を握った。

 

 何も表示されない。まだ。

 

 

 南低地の接触は、十二分続いた。数字にすると短い。

 

 その間に、荷車二が泥から抜け、担架一が旧水路を抜けた。

 

 敵重機関銃は二度撃ち、こちらの結界は二度受けた。荷車の横板が一枚割れ、工兵一名の袖が裂けた。

 

 袖だけで済んだ。戦果表には、そう書ける。

 

「敵二十六、前進停止。重機関銃二、射撃二。味方荷車一損傷。人員損害なし。補給線、維持」

 

 書記官が読み上げる。

 

「医療線は」

 

「担架一、後送継続」

 

「先に入れてください」

 

「補給線より先ですか」

 

 書記官が聞く。

 

「はい。今回は、僕が後ろに回したので」

 

 優先順位の判断も、いつか誰かに預けるべき仕事なのだろう。今日もまだ、預けることはできなかった。

 

 書記官は、何も言わずに行を入れ替えた。担架一、後送継続。補給線、維持。

 

 味方人員損害なし。その順番になった。僕は頷く。

 

 頷いた時、左手の手袋の上にまた文字が出た。

 

 左手の古い表示。

 

 今度は、消えるまでに少し時間があった。

 

 隣に、細い目盛りが見える。数字ではなく、線が一本増えたように見えた。

 

 次に奥の表示。こちらは、前より濃い。

 

 僕は手を机の下へ下げなかった。

 

 通信兵も書記官も見ているが、誰も何も言わない。見えているのは僕だけなのに、隠す必要がある気がした。

 

 通信兵が次の報告を読んだ。

 

「南低地、敵後退。北東丘、動きなし。旧水路、通行可。工兵班より、荷車の横板はあとで直せる、とのことです」

 

「工兵班へ、横板より先に袖の交換申請を。濡れた袖で次の牽引はさせないでください」

 

 通信兵は損害欄の袖という字を見直してから、符号を送った。

 

 僕は左手を見た。

 

 文字はもうない。

 

 手袋の留め具に指をかける。曲げた指が、見えない目盛りの一本目で止まるような感覚だけが残っていた。

 

 通信台から次の符号が鳴り、僕は留め具から手を離した。

 

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