ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 八章 十六節
『冠を脱いだ者ほど、雨の冷たさをよく知る。』
南低地の白い火は、消えきらなかった。
装甲戦闘輸送車の二両目から上がった煙が、雨に押されて地面を這う。三両目は後退できず、止まった一両目の後ろで斜めになっている。二十ミリ連装機銃の銃身は、まだこちらを向ける角度を探していた。
車両は止めた。
でも、戦闘は終わっていない。
「敵歩兵、再集結。南低地右側、三十前後」
「北東丘、砲兵再装填中」
「南西湿地、値が薄い。数、不明」
通信兵が読むたび、地図の上に置く札が足りなくなる。
僕は使い終わった黒札を裏返し、南西湿地へ置いた。
「南西湿地を最優先。葦ではなく水面を見てください。人が動くと、揺れだけ遅れます」
「南西湿地、水面の揺れを確認」
復唱が飛ぶ。その前に、南西湿地の奥で値が立った。一つ。
強い。さっき殺した英雄級とは違う。
値の縁が太い。「HP」も、奥の表示も、輪郭が最初から濃い。結界反応は薄いのに、本人の周りだけ空気が歪む。
魔法だ。
アクセラップ。
脚部内蔵型の小型起動具。
「南西湿地、新規英雄級一。距離七百、アクセラップ反応。後続歩兵あり」
書記官が七百の札を置いた。
近い。
さっきの水車小屋よりは遠い。
でも、アクセラップを使う相手にとっては、遠くない。
「第一梯団、南西へ向ける銃口を増やさないでください。相手は銃口の数を見て走ります。結界班は板二枚を斜め後ろへ出し、退路を隠してください」
「正面を開けますか」
「はい。開いている場所を罠にします」
言いながら、胸の奥が冷える。罠。人間に対して使う言葉だ。
敵英雄級が動いた。水面が割れる。泥が跳ねる。
一歩目で、距離が百以上縮む。
濡れた草が、風を受けたみたいに一斉に倒れた。
「速い」
通信兵が言った。
「速いです。前線まで五百。こちらの仮設指揮所まで六百弱」
「砲兵」
「使います。ただし直撃は狙わない」
山崎くんへつなぐ。
「南西湿地、敵英雄級の前方五十へ榴散。跳ばせないよう、破片幕を低くしてください」
「了解。足元へ低く降らせる」
砲声。着弾は敵の前。泥と細かい破片が低く走る。
敵英雄級は止まらない。
アクセラップで、破片幕の手前を踏み、次の瞬間には横へ抜けた。体が一度沈み、ばねのように戻る。膝から下が光った。靴底具か、脚部装備か。
右手に剣。
左手に小型機関銃。
英雄級が、歩兵のような装備で来る。
「敵英雄級、破片幕回避。右手剣、左手機関銃。距離四百二十」
水車小屋前で撃った敵とは、動き方が違った。
あちらは、槍の先で道を割るように進んだ。額の古傷と、首元の金属片が最後まで残った。
今来ている敵は、剣を盾のように寝かせ、左腕の機関銃でこちらの目を押さえている。肩布に赤地の白線。足は速いのに、視線だけが先に遮蔽物を探していた。
「機関銃?」
「撃たせる前に遮ります」
左手の小型機関銃が上がった。
銃口がこちらを探す。
「結界班、今。板一、低く」
白い面が地面近くへ出る。
敵の小型機関銃が撃った。
高い連続音。
結界面に白い線が何本も走る。破れない。だが、面全体が後ろへ押される。支えている兵の値が揺れる。
教導長の講義では、結界は壁ではなく流れを変える面だと習った。
弾は強い。先端を逸らせる。貫通しようとする力ほど、向きを変えれば弱る。
爆風と打撃は違う。面全体で受けるしかない。結界そのものに体力があり、張った瞬間から残量は六秒ほどで半分になる。
斬撃はもっと面倒だった。刃は一点ではなく、線で押してくる。同じ筋へ力が残る。
「結界班は下がってください。受け続けない。射手長も、相手が弾道を見ている間は撃たないでください」
「結界を下げ、射撃待機」
敵英雄級は、機関銃を撃ちながらさらに走る。
後続歩兵が、その火線の後ろで広がる。
英雄が火を作り、歩兵が線を広げる。
これが、敵の本命だ。
こちらの歩兵も、ただ伏せているわけではなかった。
第一梯団の二名が排水溝へ身体を落とし、銃口だけを低く残す。撃つためというより、敵歩兵にそこを通りたくないと思わせるための位置だった。
別の二名は、結界班の後ろで担架の端を踏んでいる。担架を走らせる場所を決めておかないと、負傷者が出た瞬間に道が消える。
英雄一人が速く見えるのは、周りの歩兵が道を作っているからだ。
なら、こちらも道を潰す人間を置く。
✶
南低地の車両が、また動こうとした。
一両目ではない。
三両目。
詰まっていたはずの三両目が、後退ではなく左へ曲がる。二両目を捨て、一両目も捨てて、湿地側へ砲塔を向ける。
英雄級の突入に合わせて、二十ミリの火線を横から入れるつもりだ。
準備していた。英雄一人の突撃ではない。車両、歩兵、結界、機関銃、魔法。
全部が同じ時刻に重なる。
「三両目、湿地側へ砲塔旋回。二十ミリで結界班を狙っています」
「山崎さん、角度が悪ければ車体ではなく、三両目右前の泥を崩してください」
「了解。右前の地面」
砲声。泥が割れた。三両目の前輪側が沈む。
砲塔の旋回が遅れる。でも、止まらない。
「第一梯団、三両目の視察口へ通常弾。貫通不要。見えなくします」
「第一梯団、視察口」
銃声が散る。
視察口に火花が走り、車両の砲塔が一瞬だけ止まった。
その間に、敵英雄級が距離を詰める。三百。二百七十。
速い。足場が悪いのに、落ちない。水面を踏むたび、泥が遅れて跳ねる。
「井上さん、医療線を止めてください。担架を地面へ置かず、馬も目を覆ったまま動かさない。今は動いたものから撃たれます」
「止めます。怖がらせた分は、あとで怒ります」
「その時は紙を増やします」
通信が切れる。敵英雄級の奥の表示が、こちらへ刺さる。指揮所を見ている。
僕を見ている。
たぶん、さっきの敵英雄を撃った人間だと読んでいる。
それなら、僕を殺せば、敵は回復する。こちらは止まる。正しい判断だ。
敵としては。
「僕が少し前へ出ます」
通信兵が、すぐに言った。
「駄目です。言う前に止めます」
「相手は僕を見ています。僕が前へ出れば、青杭から目が外れます」
通信兵の手が符号板の上で止まった。
「それは餌です」
「はい」
僕はGR-370-1080-Aを取る。弾倉は交換済み。三発。
徹甲弾。
もう一つ、腰の小さな革袋に、マギブレイク用の短杭がある。
僕が使うために持っていたものではない。
でも、今は使う。
「結界班、僕の前に厚いものは張らないでください。相手が止まります。薄い板を左右に二枚。道を作るように」
「少尉、道を作るのですか」
「はい。来てもらいます」
「砲兵、登録点二。僕が『二』と言ったら、敵の後ろ六十へ煙幕一。破片弾は撃たないでください」
「少尉との距離が近すぎます」
「だから後ろです。退路と後続の視界だけ切ってください」
僕は土嚢の前へ出た。雨が、さっきより冷たい。敵英雄級の値が、こちらへ向く。
足裏が泥を選ぶ。沈む場所、硬い場所、次に膝を落とす場所。考えてからでは間に合わない。けれど、体は先に三つを拾っていた。
「本当に怒りますよ」
「戻ったらお願いします」
剣が上がる。機関銃が止まる。弾を温存した。
近接で使うつもりだ。距離、二百。百七十。
「山崎さん、僕の後ろ五十。煙ではなく、光弾。目を焼かない程度に」
「近すぎる。本当に撃つぞ」
「お願いします」
山崎くんの声が荒れた。
「伏せろよ」
「伏せる余裕があれば」
「ふざけんな」
砲声ではない。短い発射音。僕の後ろで、白い光が弾けた。
影が前へ伸びる。
敵英雄級の目が、一瞬だけこちらの形を失う。
光が弾ける前に、僕は短杭を抜いていた。左腕を殺し、次に脚を止める。二つだけ、順番を決める。
革袋の口を探す時間はない。親指が留め具を外し、手首が短杭の向きを直す。訓練で繰り返した動きが、雨の中でも遅れなかった。
その一瞬で、短杭を投げた。足元ではない。相手の左側。
結界と機関銃の間。短杭が泥に刺さる。
「マギブレイク、起動」
僕の声ではない。結界班の誰かが叫んだ。短杭の周りで、白い輪が潰れる。
敵英雄級の左腕の結界が乱れた。機関銃の銃口が下がる。撃てない。
でも、剣は残る。敵は止まらない。距離、八十。
六十。僕は一発目を撃った。左腕。
機関銃の基部。弾は装甲片を削り、銃身を横へ逸らした。敵の剣が振られる。
横だ。僕ひとりを斬る角度ではない。
右の結界兵二人を、板ごと払うための幅だった。
「二」
短い一語が通信具へ入る。敵の後ろで煙幕弾が割れた。砲声は一拍遅れ、灰色の幕が後続歩兵と二十ミリ車両の視界を切る。
敵英雄級は振り返らない。戻る線を失ったまま、僕と右の結界班の間へ踏み込む。
届かない。まだ。距離、四十。
敵が脚部のアクセラップ機を作動させる。泥が弾ける。一瞬で、十歩分が消える。
剣が近い。
「板を斜め。受けずに流して」
結界班の薄い板が、僕の右側へ滑り込む。剣と板が触れた。音は、鐘ではない。
厚い氷を割る前の、嫌な軋み。
継ぎ目の見えない板が曲がり、曲がったまま戻る。
結界兵の膝が二つ同時に落ちる。
斬られてはいない。
けれど、剣の圧だけで低い面ごと押し流された。
膝から下に、薄い字が浮いた。状態、麻痺に近い何か。すぐ消える。負傷ではないと、通信より先に僕の方が読んでいた。
左足が泥を半歩削った。膝を落とし、倒れる前に止める。右肩を引き、反動を腰へ逃がす。銃口はまだ相手から外れていない。
僕は二発目を撃った。胸ではない。右腿。
アクセラップの小型起動具。
弾は結界で少し逸れ、それでも脚部装備へ入った。
敵の膝が落ちる。剣が下がる。だが、まだ止まらない。
左腕の機関銃が、壊れたまま持ち上がる。至近。撃たれたら、結界班が間に合わない。
僕は三発目を胸へ向けた。今度は、人間だ。まただ。
さっきと同じ迷いをもう一度繰り返している時間はなくて、それでも指が動く前に、これで二人目だという数字だけが頭の隅を通り過ぎていって、その数字に感情がまるで追いついていないことの方が、僕には少し怖かった。
引き金に指がかかる。敵の奥の表示が、太く見えた。折れていない。
折れるつもりがない。その奥に、「HP」。まだ高い。
僕は撃った。胸ではない。左肩。
機関銃を支える肩。徹甲弾が結界を抜け、肩を砕いた。機関銃が泥へ落ちる。
敵英雄級が、膝をついた。剣はまだ握っている。こちらを見上げる。
距離、十五。十五歩ではない。十五メートルもない。
目が見える。怒りではない。恐怖でもない。
ただ、まだ戦う形をしている。剣が、泥の中で少し動いた。撃たなければ、来る。
撃てば、死ぬ。僕の弾倉は空だ。通信兵が叫んだ。
「少尉、下がって!」
下がる前に、敵が動いた。剣を投げた。僕ではない。
後ろの結界班へ。僕は銃を捨て、腰の短杭をもう一本抜いた。抜く途中で親指が起動板を押し、白い線が開く。目を落とす必要はなかった。手が勝手に動いたのではない。
動かした。短杭を剣の軌道へ投げる。
マギブレイクの輪が開き、剣にまとわりついていた魔力がほどけた。
剣は重さを取り戻し、途中で落ちる。結界班の前、泥の中。敵英雄級が、それを見た。
その一瞬。第一梯団の銃声が鳴った。一発。
誰かが撃った。敵英雄級の横腹から血が出た。僕の命令ではない。
現地射手長の判断だ。敵は倒れなかった。それでも、前へ出る力を失った。
「射手長、撃ち止め」
僕は叫んだ。
「撃ち止め。殺さない。止まっています」
敵英雄級は、膝をついたまま、泥の中で呼吸している。
「HP」は低い。
奥の表示はまだある。
僕は近づいた。
「少尉、近づかないで」
通信兵の声。
「捕縛します」
「危険です」
「だから、急ぎます」
僕は敵の剣を蹴って遠ざけた。短杭の効果がまだ残っている。結界班が遅れて走ってくる。
板状結界が敵の周囲へ低く張られた。面は途切れない。
押し潰すためではなく、動ける範囲を狭めるための面だ。
「捕縛帯。腕ではなく、胴。肩は壊れています」
「了解」
兵が二人、泥の中へ入る。敵英雄級は抵抗した。抵抗したが、立てない。
捕縛帯が胴へ回り、結界板が左右から閉じた。敵の剣は泥の外。機関銃も届かない。南低地を走っていた一人を、生きたまま止めた。
捕らえた値の色が、味方の青でも敵の赤でもない、中間の薄い色で揺れていた。敵味方の判定が、今だけ迷っている。
「捕った!」
結界兵の声が上ずった。第一梯団の銃口が一斉に別の射線へ戻り、後ろの担架線が動き出す。
その時、敵の目が僕を見た。言葉は通じない。
でも、分かるものがあった。殺せ。そういう目ではない。
まだ終わっていない。その形だった。僕はそれを見て、吐きそうになった。
吐かない。吐くと、指示が遅れる。
「敵英雄級一、捕縛。重傷。医療線へは乗せない。敵捕虜用処置へ。殺さないでください」
通信兵が復唱する。南低地の火はまだ白い。車両は止まっている。
歩兵は下がっている。こちらの結界班が、一人、膝をついた。
「結界班一、再展開限界。交代」
「医療班へ。水と布。負傷ではなく、再展開疲労」
僕は言った。
声が、ようやく戻ってきた。
✶
戦果表は、長くなった。敵英雄級一、捕縛。敵英雄級一、死亡。
敵装甲戦闘輸送車、行動停止二、渋滞一。敵歩兵、後退。敵重機関銃、後退。
味方結界班一、再展開疲労。味方人員、重傷なし。青杭枝線、維持。
担架二、後送継続。書記官が、どの順に書くか迷っている。
「担架二を先に」
僕は言った。
「次に、味方重傷なし」
「敵英雄級捕縛は」
「その後です」
「死亡の方は」
書記官が聞く。
僕は左手を見た。
手袋の下で、左手の古い表示の目盛りが増えている。
捕縛したのに。殺さなかったのに。増えている。
戦場を変えたからだ。敵を折らず、形だけ止めたからだ。たぶん、それも力になる。
嫌な仕組みだ。
「死亡は、捕縛の後に」
僕は言った。
「順番だけでも、そうしてください」
書記官は頷いた。
その横で、通信兵が空の弾倉を拾っていた。
「少尉、空の弾倉です。次から、もう一つ持ってください」
「重くなります」
「それでも持ってください」
通信兵の声は、少し怒っていた。
僕は頷く。
「持ちます」
南低地の火が、ようやく小さくなり始めた。
白かった低地が、灰色へ戻る。
その中で、捕縛された敵英雄級の奥の表示はまだ細く光っている。僕の手袋の下にも、消えない表示が残っていた。
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