ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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八章十七話 ほどけない結び目

《王録》 八章 十七節

『結び目を解く指は、ときに縄そのものを失う。』

 

 捕縛した敵英雄級は、死んでいなかった。戦果欄には、敵英雄級一、捕縛。その下に、先に倒した敵英雄級一、死亡とある。

 

 その順番で書かれた二つの行を、書記官は何度も見直していた。

 

 捕縛。死亡。

 

 同じ英雄級でも、紙の上ではまるで別の物になる。

 

 僕は、捕縛の行だけを先に見た。

 

 捕縛の行を見ている間だけ、呼吸が浅くならずに済んだ。

 

 通信兵が捕虜用処置の進行を読む。

 

「完了まで二分。結界拘束は低出力で維持中。肩と脚の損傷が大きく、立てません。医療処置は止血のみで、敵捕虜用の医療班が到着しています」

 

 僕は頷いた。

 

 頷くだけで済むなら、そうしたい。

 

 南低地の火は小さくなった。

 

 白かった煙は灰色へ戻り、雨に押されて低く流れている。装甲戦闘輸送車三両は、まだ泥の中に残っている。一両目の駆動覆いは割れ、二両目は黒い煙を吐き、三両目は砲塔を斜めにしたまま沈黙していた。

 

 派手だった戦場が、急に片づけ前の工房みたいになる。

 

 割れた板、転がった薬莢、濡れた布、動かない車両。

 

 その中に、人がいる。

 

 敵も味方も。

 

「少尉」

 

 通信兵が言った。

 

 声が少し変わっていた。

 

「捕縛中の敵英雄級、値が上がっています」

 

「上がっている?」

 

「はい。医療班から、体温上昇。呼吸増加。結界拘束に反応あり」

 

 状態、という字が、捕虜の値の脇に一瞬だけ浮いた。中身は読めない。麻痺でも興奮でもない、見たことのない並びだった。

 

 僕は左手を見た。

 

 手袋の下の読みにくい二つの表示はまだある。

 

 でも、今見るべきものは自分ではない。敵捕虜の方へ意識を向ける。距離、百二十。低い板状結界の中。

 

 捕縛帯。肩、脚、横腹。HPは低い。それなのに、奥の表示が太くなっている。

 

 細く折れかけていたはずの線が、内側から熱を持つように濃くなる。

 

 おかしい。

 

「医療班は敵捕虜から離脱。結界班は押さえず、距離を取って面を広げてください。拘束を厚くすると、たぶん返ります」

 

「医療班離脱。結界は低出力のまま拡張」

 

 何が返るのかは分からない。

 

 分からないが、数字がそう見えていた。

 

 敵捕虜の奥の表示が、拘束の形を読み始めている。

 

 結界の圧力、捕縛帯の方向、医療班の位置、味方の心配。

 

 全部を、次の一撃の材料にしている。

 

「捕虜が、まだ戦闘を続けています」

 

 書記官が顔を上げた。

 

「縛られているのに、ですか」

 

「はい」

 

 僕は赤鉛筆を取った。捕虜の周囲に、小さな丸を描く。その丸の外側に、味方の値が三つ。

 

 医療班二。結界班一。少し離れて、通信線の中継兵。

 

 青杭枝線は、そのさらに後ろ。

 

「中継兵は通信具を置いてから下がってください。持って走ると、手がふさがって遅れます」

 

「通信具を残置して離脱」

 

 通信兵が符号を送る。その瞬間、敵捕虜の奥の表示が跳ねた。拘束帯が、内側から膨らむ。

 

 魔法。アクセラップではない。

 

 体を動かす魔法ではなく、残った魔力を一点に集める動き。

 

 自爆ではない。もっと狭い。

 

 捕縛帯の内側だけを壊し、剣の代わりに自分の骨を使うような、嫌な起動。

 

「結界班、面を下げて!」

 

 叫ぶ。

 

 間に合わない。

 

 敵英雄級の肩が、砕けたまま動いた。

 

 壊れた左腕が、泥の中に落ちていた機関銃へ伸びる。

 

 肩は撃ち砕いた。

 

 それでも、動く。

 

 何かが、肉体の残りを無理に引っ張っている。

 

 捕縛帯が切れたわけではない。

 

 体の方が、帯の中で壊れながらずれた。

 

「医療班、伏せて!」

 

 通信兵が叫ぶ。敵の指が機関銃の基部に触れた。壊れているはずの銃。

 

 それでも、一発なら撃てるかもしれない。一発で、医療班は死ぬ。中継兵も死ぬ。

 

 青杭枝線の担架も止まる。僕は立ち上がっていた。

 

 GR-370-1080-Aは、手元にない。

 

 さっき捨てた銃は、泥の中だ。

 

 通信兵が拾った予備弾倉はある。

 

 銃はない。

 

 僕の腰に残っているのは、短杭一本と、小型拳銃だけ。

 

 護身用。

 

 使わない方がいいもの。

 

 僕はそれを抜いた。

 

「少尉」

 

 通信兵の声。止める声ではない。分かってしまった声だ。

 

 敵捕虜のHPは低い。左腕は壊れている。脚も壊れている。

 

 それでも、奥の表示がまだ動かしている。撃てば、死ぬ。撃たなければ、誰かが死ぬ。

 

 捕縛は、もう成立していない。僕は走った。距離、百二十。泥が重い。

 

 白い結界面が左右に開く。結界班が、道を作ってしまった。僕のために。

 

 やめろ、と言う余裕はない。敵の壊れた機関銃が上がる。医療班の一人が、まだ伏せきれていない。

 

 僕は短杭を投げた。機関銃の基部ではなく、敵の左手首。白い輪が開き、魔力の流れが乱れる。

 

 銃口が少し下がる。それでも、指は引き金に近い。拳銃を両手で構える。

 

 距離、二十。十五。十。胸ではない。頭でもない。首元。結界具ではない。人間の急所。

 

 迷う余地を作ると、間に合わない。僕は撃った。

 

 迷えば誰かが死ぬと分かっていて、それでも指を動かす前のほんの一瞬だけ、これで三人目なのか四人目なのか、数え間違えていないかを確かめようとしている自分がいて、そんなことを確かめてどうするのか、自分でも分からなかった。

 

 音は、GR-370-1080-Aより小さい。

 

 小さいのに、近い。一発目。敵英雄級の首元で血が跳ねる。

 

 まだ動く。二発目。HPが落ちる。

 

 三発目。奥の表示が揺れる。四発目。

 

 0。機関銃の銃口が泥へ落ちた。敵英雄級の体が、捕縛帯の内側で沈む。

 

 今度は、もう動かない。

 

 

 音が戻るのに、時間がかかった。実際には、すぐだったのだと思う。通信兵が叫んでいる。

 

 医療班が伏せたまま返事をしている。結界班が面を閉じ直している。

 

 誰かが、僕の名前ではなく階級を呼んでいる。

 

 少尉。

 

 少尉。

 

 少尉。

 

 それが、自分のことだと分かるまで、少し遅れた。

 

「敵英雄級」

 

 僕は言った。

 

 口の中が乾いている。

 

「死亡。僕が撃ちました」

 

 二度目だ。

 

 二度目は、一度目より言いやすい。

 

 言いやすいことが、嫌だった。

 

「味方損害。医療班、中継兵、青杭枝線」

 

「医療班と中継兵は無事。青杭枝線、通行維持」

 

「では、記録を」

 

 通信兵の声は荒く、すぐには符号板へ戻らなかった。

 

「少尉」

 

「記録をお願いします」

 

 僕は繰り返した。

 

 繰り返さないと、次に何をすればいいか分からなくなる。

 

 書記官が、遅れて駆け寄ってくる。紙を持っていない。両手が空いている。

 

 それでいい。今は、紙より人を見てほしい。

 

「医療班は味方から確認し、伏せた時の負傷を見てください。結界班は捕縛帯に触れず、敵遺体の周囲へ面だけ張る。機関銃は暴発するので蹴らないでください」

 

「通信兵は指揮所へ戻り、青杭枝線と南低地を接続。少尉も戻ってください」

 

「僕はここにいます」

 

「駄目です」

 

 通信兵が、初めて命令みたいに言った。僕は返事をしようとして、できなかった。左手が熱い。

 

 手袋の下ではない。手袋の上に、文字が出ている。左手の古い表示。

 

 濃い。目盛りが増えている。奥の表示。

 

 こちらも濃い。それだけではない。

 

 その下に、まだ読めない文字が一瞬だけ出た。

 

 すぐ消える。

 

 けれど、形だけは残った。

 

 まるで、上の階へ続く段の影みたいに。

 

 通信兵が、それを見たかどうかは分からない。

 

 ただ、彼は僕の左手ではなく、顔を見ていた。

 

「戻ってください」

 

 今度は、少し低い声だった。

 

「命令ですか」

 

「お願いです」

 

 お願い。

 

 その言葉で、足が動いた。

 

 

 指揮所に戻ると、南低地の戦闘はまだ終わっていなかった。

 

 終わっていないのに、僕の中では一つ終わっていた。

 

 敵英雄級一、捕縛。その行は消える。敵英雄級一、死亡。

 

 そう書き換わる。

 

 最初から死亡だった一人と、捕縛後に死亡した一人。

 

 経緯はまるで違うのに、戦果欄に書けば似たような字面になってしまう。

 

 槍で道を割ろうとした敵。

 

 剣と機関銃で、こちらの目を潰そうとした敵。

 

 紙の上では、どちらも英雄級一になる。

 

「敵英雄級一、捕縛後に再戦闘行動。味方医療班への危険に対し、羽黒少尉が拳銃四発で射殺、と書きます」

 

 射殺。

 

 その言葉は、戦場の紙に似合いすぎていた。

 

「そのまま記録してください」

 

「よろしいですか」

 

「よくはありません。でも、変えないでください」

 

「了解」

 

 ペンが動く。射殺。四発。

 

 味方損害なし。青杭枝線、維持。医療班、無事。

 

 それらが同じ紙に並ぶ。僕は左手を机の上に置いた。隠さなかった。

 

 文字はまだある。誰にも見えていないかもしれない。それでも、隠さなかった。

 

「通信兵」

 

「はい」

 

「森田さんへ、私信ではなく、戦闘後報告で送ってください。表示が濃くなりました。捕縛後の射殺で、さらに」

 

 最後の言葉が出ない。さらに。何だ。

 

 強くなった。その言葉だけは、口にしたくなかった。

 

「表示が、段階を進めました」

 

 そう言い換える。

 

 通信兵は頷いた。

 

「送ります」

 

 僕が医療班への水を頼むと、通信兵はこちらを見た。

 

「少尉も今、飲んでください」

 

 通信兵は水筒を差し出した。僕は受け取る。水はぬるい。

 

 金属の味がした。

 

 通信兵は符号板を抱えたまま、僕が飲むのを待っている。

 

「怒るのは、水を飲んだ後にします」

 

「それは助かります」

 

「助けているつもりはありません」

 

 そう言いながら、通信兵は僕の拳銃から少し離れた場所に、空の弾倉を二つ並べた。叱る前に、数を揃えている。そういう怒り方だった。

 

 四発撃った小型拳銃は、机の端に置かれている。GR-370-1080-Aで撃った時より、銃と倒れた人間の距離が近かった。

 

 僕は水を飲み込む。喉が動く。まだ生きている体の動きだった。

 

 敵は、もう動かない。その差が、左手の文字をまた濃くした。

 

 戦果表では、水車小屋前も南低地も英雄級一、死亡と並ぶ。それでも、捕縛後に四発撃った時だけ、左手へ読めない段の影が出た。

 

 SANらしき字も、一瞬だけその段の下に見えた気がした。確かめる前に、僕は次の報告を受けていた。

 

 僕は四発の記録の横に、原因未確定、と書いた。

 

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