ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 八章 十八節
『名を呼ぶ声が増えるほど、門の影は長くなる。』
森田さんへの報告は、すぐには返ってこなかった。回線が混んでいる。それだけなら、通信兵はそう言うはずだった。
報告の中身が重い。たぶん、返事の遅さにはそちらも混じっている。
僕は水筒を机の端へ置き、拳銃から弾倉を抜いた。残りはない。四発撃って、四発とも使った。小さな銃は、弾がなくなると急に玩具みたいに軽くなる。
玩具なんかじゃない。さっき、これで人を殺した。
「少尉」
通信兵が呼ぶ。
「はい」
「南低地、敵後退。ですが、後退しながら旗を上げています」
「旗」
「赤地に白線。現地班では意味不明」
僕は地図から顔を上げた。
敵が後退中に上げた旗なら、降伏でも撤退合図でもない。こちらに見せるための旗だ。
「旗の位置は」
「停止した一両目の後ろ。歩兵三が支えています」
「見せ先は、こちらの指揮所ですか」
「恐らく」
旗を支える歩兵三の値だけ、敵の赤でも見慣れた青でもない、薄い灰色に見えた。敵味方の境目が、旗の下でだけぼやけている。
敵は、僕を呼んでいる。そう考えるのが一番早く、そう考えられてしまうのが嫌だった。
「撃たないでください。旗を撃つと、意味が相手のものになります」
「撃たない」
通信兵は同じ命令を受話管へ返した。
「助かります。旗相手に撃ち合いは、さすがにこちらの負けです」
「旗に負けますか」
「口で勝てる気がしません」
通信兵の口元の片側が緩んだ。すぐに受話管へ戻る。その戻り方が早かったので、僕も地図へ目を落とせた。
「山崎さんへ。砲兵、南低地には照準だけ。発砲禁止。ただし北東丘の砲兵へは反撃準備」
「了解。旗、気味悪いな」
「はい」
回線の向こうで、山崎くんが息を吸った。
「意味分かる?」
「分かりたくない方です」
「それは分かってるやつの言い方だ」
山崎くんがそう言って、通信が切れる。
僕は左手を開いた。手袋の上には、まだ文字がある。
左手の奥に、読みにくい二つの表示が残っている。その下の読めない影はもう出ていないが、何かが入る場所だけを先に作ったような空白がある。
「少尉、師団司令部から呼び出しです」
別の通信兵が言った。
「今ですか」
「今です。南低地戦闘の件で、指揮所を一時司令部回線へ」
書記官が眉を動かした。
僕は、机の上の拳銃を見た。
「つないでください」
✶
師団司令部の声は、三人分あった。
一人は参謀。
一人は砲兵連絡。
一人は、階級が上の人だ。声の出し方で分かる。怒鳴らないのに、周囲が黙る声。
「羽黒少尉」
「はい」
「南低地戦闘の戦果を確認した。敵英雄級二。一名射殺、一名捕縛後射殺。敵装甲戦闘輸送車三、行動不能二、閉塞一。敵重機関銃射線二、逸脱。二十ミリ火点一、沈黙。敵後続突入予備、展開停止。敵歩兵死者、確認五十八、推定九十以上。車両乗員死亡推定九。味方重傷なし。青杭枝線維持。なお、隣接する第九、第十一中隊正面でも同時刻に連隊規模の交戦が継続中とのことだ。間違いないか」
僕は空の弾倉を机の端へ押した。
「はい。ただ、二人目は捕縛後、再戦闘行動に入りました」
「記録にある」
記録にある。その言い方で、僕一人の言い分ではなくなった。
五十八。九十以上。九。敵の死者は、数字になると少し乾く。乾いた数字の方が、紙には乗りやすい。
「質問する。敵は君を狙ったか」
「はい」
「理由は」
受話管を握る指に汗がにじんだ。
「こちらの指揮所機能を止めるためです」
「君個人ではなく」
「最初は、そうです」
回線の奥で、紙が動く。
「最初は」
「水車小屋前のあと、敵は私を指揮所機能の一部ではなく、指揮所そのものとして扱い始めました」
言ってから、口の中が乾いた。言いすぎたかもしれないが、言わなければ次が遅れる。
「根拠は」
「敵英雄級の進路変更。旗の掲示。南西湿地からのアクセラップ突入。三両目の二十ミリ旋回角。どれも青杭枝線そのものではなく、私が出る場所へ合わせています」
回線の奥で、誰かがその四項目を書き取っている。
「君が出なければ」
「青杭枝線か医療線へ入られました」
「その場合の損害見込みは」
「担架四、通信線一本、弾薬箱二列。最低でも、その程度は失います」
言いながら、数字が口の中で硬くなった。
助けた人数ではない。
失わずに済んだものを、あとから数えているだけだ。
「君が出たから、敵は君へ寄った」
「はい」
そこは否定できない。否定しても、地図が残っている。
少しの間、回線がざらついた。
上官の声が戻る。
「以後、君を独立指揮点として扱う」
通信台の周りが止まる。
僕は返事を少し遅らせた。
「それは、どういう意味でしょうか」
「君が移動すれば、敵の攻撃線も動く。こちらもそれを使う」
使う。分かっていた言葉なのに、声に出されると別の物になった。
「囮ですか」
「囮ではない。誘導点だ」
言い換えだ。けれど、完全な嘘ではない。僕が動けば敵が動き、その間に味方を逃がせる。青杭枝線を守り、担架を戻せる。
「了解しました」
通信兵がこちらを見る。
書記官も、ペンを止めている。
「ただし、条件があります」
僕は続けた。
「私を誘導点として扱う場合、医療線と補給線の優先順位を事前に明文化してください。私が現場で選ぶと、後で誰も疑えません」
「疑われたいのか」
「疑える形にしたいです」
回線の向こうで、短い息が入った。
「森田文書顧問の影響か」
「たぶん」
「よろしい。書記官、条件を記録」
こちらの書記官ではない。
司令部側の誰かが、紙をめくる音。
「羽黒少尉」
「はい」
「君の戦果は、もう単独の小隊指揮官のものではない。理解しているか」
左手の文字が熱を持つ。
「STR」らしき字が、握った拳の甲に一瞬滲んだ。力の入れ方まで数字にされる感覚に、僕は返事を探す間だけ気を取られた。
理解している。したくない。どちらも、ここで返す答えにはならない。
「理解する途中です」
僕は言った。
上官は、返事まで一呼吸置いた。
「それでよい。途中で止まるな」
回線が切れた。
✶
指揮所の中に、雨の音が戻った。
最初に動いたのは、通信兵だった。
符号板の位置を少しずらし、僕の前の地図板へ空きを作る。
「独立指揮点、だそうです」
通信兵が言った。
「やめてください。正式名にしないでください」
「略称は」
通信兵が符号板の空いた隅へ目をやった。
「もっと駄目です」
「では、少尉のままで」
「それが一番助かります」
そのやり取りのあと、天幕の端で誰かが鼻から息を吐いた。
「少尉も、長いですけど」
「それ以上短くすると、僕の逃げ場がなくなります」
「では、少尉で固定します。昇進したら直します」
「たぶん、その時は僕より周りが困ります」
誰かが小さく咳をした。笑いを隠した咳だった。
書記官はまだペンを止めていた。
「羽黒少尉」
「はい」
「誘導点として扱う場合の優先順位表を作ります」
「お願いします」
書記官は新しい紙を一枚引き出した。
「医療線、補給線、通信線、砲兵線、撤収線。並べますか」
「並べます。ただし固定しすぎないでください。天候と敵砲兵で変わります」
机上の地図には、雨で滲んだ青線が一本残っている。昨日の水路だ。
「欄を空けます」
「空欄が多い表ですね」
「あなた向けです」
ペン先が、欄外で止まった。
「褒めてますか」
「半分」
書記官が、ようやくペンを動かした。
僕は拳銃を布で拭く。
拭いても、撃った事実は落ちない。でも泥は落ちる。泥が残ると、次に撃つ時に詰まる。
次に撃つ時。
その言葉を考えた時、左手の奥の表示が濃くなった。僕は布を滑らせる手を止めない。止めれば、四発撃ったところまで戻りそうだった。
✶
南低地の赤地に白線の旗は、三十分ほどで下げられた。
その間、敵は撃たず、こちらも撃たなかった。
旗が下がると、敵歩兵が三両目の後ろから遺体を引き始める。
水車小屋前で死んだ英雄のものでも、捕縛後に射殺した英雄のものでもない。南低地で、車両と一緒に倒れた歩兵たちだ。
「敵、遺体回収」
通信兵が言う。
「撃たないでください」
「復唱済みです」
「ありがとうございます」
敵は、こちらを見ている。こちらも、敵を見ている。
その間に、担架二が旧水路を抜け、荷車一が後ろへ戻った。結界班の再展開疲労者が水を飲む。
旗を挟んで睨み合っている間だけ、そういう作業が進んだ。
僕は優先順位表の最初の欄、医療線に丸をつけた。次に補給線、通信線、砲兵線、撤収線。
その横に、書記官が小さく新しい欄を足した。誘導点。
僕はそれを見た。
「その欄、消せますか」
「必要です」
「では、せめて名前を変えてください」
「何に」
鉛筆の先を見ながら考えたが、いい名前は浮かばない。
「呼ばれた場所」
口にしてから、後悔した。
書記官は、そのまま書いた。
呼ばれた場所。
僕の名前ではない。それなら、名前を直接書かれるよりはましだった。
左手の文字は、まだ消えない。
左手の奥には、読みにくい二つの表示が残っている。その下の空白は、前より広い。
敵は旗を上げて僕を呼び、味方は表の欄に印をつけて僕を呼ぶ。次にその欄へ印がつけば、僕は指定された場所へ出る。
手袋の中で左手を握った。指先に爪が当たっても、熱は引かなかった。
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