ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 八章 十九節
『水盆に残る月は、指を入れた者から先に欠ける。』
夜明け前の指揮所は、昼間より静かだった。
砲声が止まると、耳の奥だけが遅れて働く。誰かの靴音、紙をめくる音、湯気の出ないカップを置く音。全部が少し遠い。
僕は地図の端に置かれた白い札を見ていた。敵ではない。
味方でもない。結界班の再展開記録だ。
「少尉、結界班からです」
通信兵が木板を持ってきた。片手で抱えるには少し大きい。板の端には雨で膨らんだ革紐が巻かれていて、そこに白い粉が残っている。
彼の袖口は濡れていた。手袋の中まで水が入ったのか、指を曲げるたびに革が小さく鳴る。
「ありがとうございます。手、冷えてませんか」
「冷えてます」
「正直で助かります。火鉢の横、空けておきました」
「通信が先です」
「では通信の後で。順番を間違えると、森田さんに怒られます」
通信兵は、少し口の端を動かした。板を置く手の力が抜けた。
木板には、結界の張り直しが線で記されていた。
一枚目。二十ミリ三連射。残量、推定四割。六秒後、二割。再展開。
二枚目。剣接触。残量、推定六割。線状圧力、継続。斜め流し。そう書いてある。
教導長の講義で聞いた言葉が、板の上ではただの手順になっていた。
結界そのものに体力がある。
張った瞬間から減っていく。
強い一撃を受けなくても、六秒で半分になる。だから、長く張れば安全というわけではない。長く張った分だけ、次のための余地が減る。
「結界班長は」
「後方で水を飲んでいます。吐いてはいません」
「それは大事です」
「はい」
僕は板の二枚目に印をつけた。
「二十ミリを受けた班は、今日は前へ出しません」
「予備が足りません」
「足りないなら、使う場所を減らします」
「南低地は」
「見せるだけです。受けません。装甲車を前に出さず、白い面だけを斜めに置く」
言葉にすると、簡単に聞こえる。
実際には、簡単ではない。
敵がもう一度押してきたら、その白い面に弾が集まる。結界HPは減る。六秒で半分になる。再展開する者の喉が渇く。手が震える。次の板が遅れる。
それでも、前へ出さない。
「僕が説明します」
「誰にですか」
「怒る人にです」
通信兵が、今度ははっきり息を漏らした。
「多いですよ」
「でしょうね。人気者になった気分です」
「それは、違うと思います」
「はい。僕も違うと思います」
軽く言うと、軽く返ってくる。
それだけで、指揮所の中の人間が一人、肩から力を抜く。僕はそれを見て、次の欄へ丸をつけた。
補給線。砲兵線。医療線。
結界再展開線。今まで独立した欄ではなかったものだ。
戦場に白い面を置くには、人と札と魔力と水が要る。水がないと、術者は次の面を張れない。張れないなら、歩兵は弾の前に出る。
だから、水袋の数が、弾薬箱と同じ列に並ぶ。
僕はその並びを見て、喉の奥が乾いた。
水を飲む。
味はしなかった。
✶
司令部から来た伝令は、夜明けとほとんど同時だった。
泥のついた外套。左胸の封蝋。靴の紐が片方だけ新しい。歩いてきたのではなく、途中で誰かの靴紐を借りたのだろう。
伝令は、机の前で敬礼した。
「羽黒少尉。師団司令部より、戦域調整権限の臨時拡大内示です」
指揮所の中の音が、少し変わった。誰かが息を止めた。
誰かが鉛筆を落としかけた。僕は封筒を見た。
「臨時、ですか」
「はい。正式発令は後刻。現在時点では、南低地、青杭枝線、水車小屋線、旧水路戻送路の調整権限を、少尉に集約するとのことです」
「拒否権は」
伝令の眉が少し動いた。
「内示文にはありません」
「では、確認願います。拒否権がない命令なら、命令として記録してください。協力要請なら、要請として記録してください」
「今、ですか」
「今です」
封筒の紙は厚い。こういう厚い紙ほど、開けてみると中身は素っ気ない言葉一つだったりする。
そういうものを、何度か見てきた。伝令は一度だけ頷き、通信兵へ目を向けた。
「司令部へ確認を」
「はい」
通信兵が符号板へ向かう。
僕は封筒を開けなかった。
「開封しないのですか」
「確認が返ってからにします」
「中身は変わりません」
「変わらなくても、扱いは変わります」
伝令は、それ以上言わなかった。
泥のついた外套から、冷えた革の匂いがした。戦場で一晩過ごした人間の匂いだ。机の向こう側で書類だけを運んできたわけではない。
僕は封筒を机の端へ置いた。呼ばれた場所。その欄の横に、また線が増える。
南低地。青杭枝線。
水車小屋線。旧水路戻送路。
四つの場所が、僕の名前ではなく、僕の手元へ寄ってくる。
左手の奥の表示が、熱を持った。僕は手袋の上から指を握る。痛くはない。
痛みは来ない。代わりに、歯の裏が乾いた。
「少尉」
結界班長が入口に立っていた。
顔色は悪い。けれど、背筋はまっすぐだ。肩の革帯に白い粉がついている。結界札の粉だ。
彼の値の脇に、薄い字が滲んでいた。状態、疲労以上。名前まではまだ付かない。
「休んでください」
「報告だけです」
「報告も座ってできます」
「立っていた方が、寝ません」
「それは報告ではなく、危険申告です」
班長は、少し目を細めた。
「では、危険申告。次に二十ミリを受けるなら、三枚目は遅れます」
「分かりました。受けさせません」
「約束できますか」
「できません」
そこで、班長の口元が動いた。
「正直ですね」
「通信兵にも言われました」
「条件を聞きます」
僕は木板を回し、白い残量表の横へ新しい線を引いた。
「二十ミリは受けない。見せる結界と、受ける結界を分けます。受ける時は六秒以内。張りっぱなし禁止。斬撃は斜め。爆風は一枚で受けない」
「一枚で受けない」
「はい。面を重ねず、時刻をずらす。結界HPを同時に減らさない」
班長が、板を見る。
指先が白い粉で汚れていた。爪の間まで入り込んでいる。水で洗っても、しばらく残るやつだ。
「それ、うちの教範に入ります」
「やめてください。僕の名前は消して」
「消せません」
「では、小さくしてください」
「検討します」
たぶん、検討しない。
僕は水筒を班長へ渡した。
「飲んでください。これは命令ではなく、お願いです」
「命令の方が飲みやすいです」
「では命令です」
班長は水を飲んだ。
喉が動く。
その音だけが、指揮所の中で妙にはっきり聞こえた。
僕は封筒を見ない。白い残量表を見る。六秒。
半分。再展開。
班長が返した水筒は、渡した時より軽かった。
僕の左手にも、「STR」らしき影が一瞬滲んだ。誰の疲労を数えているのか、自分でも分からなくなる瞬間があった。
外では、朝の泥が少し明るくなっていた。
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