ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

156 / 161
八章十九話 白い残量

《王録》 八章 十九節

『水盆に残る月は、指を入れた者から先に欠ける。』

 

 夜明け前の指揮所は、昼間より静かだった。

 

 砲声が止まると、耳の奥だけが遅れて働く。誰かの靴音、紙をめくる音、湯気の出ないカップを置く音。全部が少し遠い。

 

 僕は地図の端に置かれた白い札を見ていた。敵ではない。

 

 味方でもない。結界班の再展開記録だ。

 

「少尉、結界班からです」

 

 通信兵が木板を持ってきた。片手で抱えるには少し大きい。板の端には雨で膨らんだ革紐が巻かれていて、そこに白い粉が残っている。

 

 彼の袖口は濡れていた。手袋の中まで水が入ったのか、指を曲げるたびに革が小さく鳴る。

 

「ありがとうございます。手、冷えてませんか」

 

「冷えてます」

 

「正直で助かります。火鉢の横、空けておきました」

 

「通信が先です」

 

「では通信の後で。順番を間違えると、森田さんに怒られます」

 

 通信兵は、少し口の端を動かした。板を置く手の力が抜けた。

 

 木板には、結界の張り直しが線で記されていた。

 

 一枚目。二十ミリ三連射。残量、推定四割。六秒後、二割。再展開。

 

 二枚目。剣接触。残量、推定六割。線状圧力、継続。斜め流し。そう書いてある。

 

 教導長の講義で聞いた言葉が、板の上ではただの手順になっていた。

 

 結界そのものに体力がある。

 

 張った瞬間から減っていく。

 

 強い一撃を受けなくても、六秒で半分になる。だから、長く張れば安全というわけではない。長く張った分だけ、次のための余地が減る。

 

「結界班長は」

 

「後方で水を飲んでいます。吐いてはいません」

 

「それは大事です」

 

「はい」

 

 僕は板の二枚目に印をつけた。

 

「二十ミリを受けた班は、今日は前へ出しません」

 

「予備が足りません」

 

「足りないなら、使う場所を減らします」

 

「南低地は」

 

「見せるだけです。受けません。装甲車を前に出さず、白い面だけを斜めに置く」

 

 言葉にすると、簡単に聞こえる。

 

 実際には、簡単ではない。

 

 敵がもう一度押してきたら、その白い面に弾が集まる。結界HPは減る。六秒で半分になる。再展開する者の喉が渇く。手が震える。次の板が遅れる。

 

 それでも、前へ出さない。

 

「僕が説明します」

 

「誰にですか」

 

「怒る人にです」

 

 通信兵が、今度ははっきり息を漏らした。

 

「多いですよ」

 

「でしょうね。人気者になった気分です」

 

「それは、違うと思います」

 

「はい。僕も違うと思います」

 

 軽く言うと、軽く返ってくる。

 

 それだけで、指揮所の中の人間が一人、肩から力を抜く。僕はそれを見て、次の欄へ丸をつけた。

 

 補給線。砲兵線。医療線。

 

 結界再展開線。今まで独立した欄ではなかったものだ。

 

 戦場に白い面を置くには、人と札と魔力と水が要る。水がないと、術者は次の面を張れない。張れないなら、歩兵は弾の前に出る。

 

 だから、水袋の数が、弾薬箱と同じ列に並ぶ。

 

 僕はその並びを見て、喉の奥が乾いた。

 

 水を飲む。

 

 味はしなかった。

 

 

 司令部から来た伝令は、夜明けとほとんど同時だった。

 

 泥のついた外套。左胸の封蝋。靴の紐が片方だけ新しい。歩いてきたのではなく、途中で誰かの靴紐を借りたのだろう。

 

 伝令は、机の前で敬礼した。

 

「羽黒少尉。師団司令部より、戦域調整権限の臨時拡大内示です」

 

 指揮所の中の音が、少し変わった。誰かが息を止めた。

 

 誰かが鉛筆を落としかけた。僕は封筒を見た。

 

「臨時、ですか」

 

「はい。正式発令は後刻。現在時点では、南低地、青杭枝線、水車小屋線、旧水路戻送路の調整権限を、少尉に集約するとのことです」

 

「拒否権は」

 

 伝令の眉が少し動いた。

 

「内示文にはありません」

 

「では、確認願います。拒否権がない命令なら、命令として記録してください。協力要請なら、要請として記録してください」

 

「今、ですか」

 

「今です」

 

 封筒の紙は厚い。こういう厚い紙ほど、開けてみると中身は素っ気ない言葉一つだったりする。

 

 そういうものを、何度か見てきた。伝令は一度だけ頷き、通信兵へ目を向けた。

 

「司令部へ確認を」

 

「はい」

 

 通信兵が符号板へ向かう。

 

 僕は封筒を開けなかった。

 

「開封しないのですか」

 

「確認が返ってからにします」

 

「中身は変わりません」

 

「変わらなくても、扱いは変わります」

 

 伝令は、それ以上言わなかった。

 

 泥のついた外套から、冷えた革の匂いがした。戦場で一晩過ごした人間の匂いだ。机の向こう側で書類だけを運んできたわけではない。

 

 僕は封筒を机の端へ置いた。呼ばれた場所。その欄の横に、また線が増える。

 

 南低地。青杭枝線。

 

 水車小屋線。旧水路戻送路。

 

 四つの場所が、僕の名前ではなく、僕の手元へ寄ってくる。

 

 左手の奥の表示が、熱を持った。僕は手袋の上から指を握る。痛くはない。

 

 痛みは来ない。代わりに、歯の裏が乾いた。

 

「少尉」

 

 結界班長が入口に立っていた。

 

 顔色は悪い。けれど、背筋はまっすぐだ。肩の革帯に白い粉がついている。結界札の粉だ。

 

 彼の値の脇に、薄い字が滲んでいた。状態、疲労以上。名前まではまだ付かない。

 

「休んでください」

 

「報告だけです」

 

「報告も座ってできます」

 

「立っていた方が、寝ません」

 

「それは報告ではなく、危険申告です」

 

 班長は、少し目を細めた。

 

「では、危険申告。次に二十ミリを受けるなら、三枚目は遅れます」

 

「分かりました。受けさせません」

 

「約束できますか」

 

「できません」

 

 そこで、班長の口元が動いた。

 

「正直ですね」

 

「通信兵にも言われました」

 

「条件を聞きます」

 

 僕は木板を回し、白い残量表の横へ新しい線を引いた。

 

「二十ミリは受けない。見せる結界と、受ける結界を分けます。受ける時は六秒以内。張りっぱなし禁止。斬撃は斜め。爆風は一枚で受けない」

 

「一枚で受けない」

 

「はい。面を重ねず、時刻をずらす。結界HPを同時に減らさない」

 

 班長が、板を見る。

 

 指先が白い粉で汚れていた。爪の間まで入り込んでいる。水で洗っても、しばらく残るやつだ。

 

「それ、うちの教範に入ります」

 

「やめてください。僕の名前は消して」

 

「消せません」

 

「では、小さくしてください」

 

「検討します」

 

 たぶん、検討しない。

 

 僕は水筒を班長へ渡した。

 

「飲んでください。これは命令ではなく、お願いです」

 

「命令の方が飲みやすいです」

 

「では命令です」

 

 班長は水を飲んだ。

 

 喉が動く。

 

 その音だけが、指揮所の中で妙にはっきり聞こえた。

 

 僕は封筒を見ない。白い残量表を見る。六秒。

 

 半分。再展開。

 

 班長が返した水筒は、渡した時より軽かった。

 

 僕の左手にも、「STR」らしき影が一瞬滲んだ。誰の疲労を数えているのか、自分でも分からなくなる瞬間があった。

 

 外では、朝の泥が少し明るくなっていた。

 

――――――――

 

面白かったら、下記のリンクから評価やレビューをいただけると嬉しいです。

https://kakuyomu.jp/works/822139841314440520/reviews

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。