ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 八章 二十節
『印の向きが変わる時、机はまだ同じ場所にある。』
確認の返答は、朝の最初の砲声より早く来た。
符号板の銅線が細く鳴る。
通信兵が、濡れた袖口を拭かないまま文字を追った。革手袋の指先だけが、少し黒い。
「司令部より返答。戦域調整権限の臨時拡大は命令。ただし、部隊指揮権の移譲ではなく、線の調整権限。各隊長の指揮権は維持」
「線の調整」
「はい。医療線、補給線、通信線、結界再展開線、砲兵線、撤収線」
「誘導点は」
「少尉の裁量で設定可」
伝令が封筒へ視線を落とした。泥のついた外套の裾から、水が一滴、床板へ落ちる。
床板は鳴らない。
濡れただけだ。
「つまり、私は人に命令するのではなく、線を動かす」
「文面上は」
「文面上は、ですね」
命令は人を線の上に立たせる。
線を動かせば、人も動いてしまう。
書類は、そこを少し薄くする。
「開封します」
僕は封筒を開けた。
中には命令書が二枚。厚い紙の方に師団司令部の印。薄い紙の方に、権限の範囲。
南低地。青杭枝線。水車小屋線。
旧水路戻送路。それから、欄外に小さく書き足された一行。必要時、隣接連絡線への介入を認める。
「これ、広すぎませんか」
伝令は答えなかった。
答えられない顔ではない。答える役ではない、という立ち方だった。左肩の外套が少し重そうに下がっている。
「通信兵、司令部へ返信。受領。ただし、介入範囲は都度記録。後日検証可能な形で残す、と」
「後日検証可能」
「はい。あと、権限行使時は各隊長名も併記。私だけの判断にしない」
「それは責任分散ですか」
伝令が聞いた。
声は硬い。責めているほどではない。
「逆です」
僕は薄い紙を机に置いた。
「誰がどこで反対できたかを残します」
伝令の目が、紙から僕へ移った。
「反対を想定するのですか」
「想定します。でないと、あとで全員が頷いたことになります」
通信兵が符号板へ向き直る。
結界班長は、まだ水筒を持っていた。飲み終えた水筒を返すタイミングを見失っている。
「返してください。空でも大丈夫です」
「空です」
「それは大丈夫じゃないですね。補給線へ一本足します」
「少尉」
「冗談半分です。半分だけ」
班長は水筒を返した。
僕は受け取り、机の下の箱へ入れる。空の水筒箱。いままで弾薬箱の横に置かれていたものが、結界再展開線の欄へ移る。
箱を動かすだけで、戦場の意味が変わる。
その程度のことで。
その程度のことで、人の立つ場所が変わる。
医療線、補給線、結界線、砲兵線。四つの値が同時に地図の上で揺れている。全部を等しく読める気はしなかった。
✶
最初に動かしたのは、南低地ではなかった。
旧水路戻送路。
担架が通る道だ。
地図の上では細い青線で、実際には泥と割れた石と水草の混じった道。幅は荷車一台分。曲がり角が二つ。敵からは見えにくいが、味方からも見失いやすい。
「旧水路の二つ目の曲がり角に、灯りを置かないでください」
「暗くなります」
「はい。暗くします」
救護兵が顔を上げた。目の下が赤い。眠っていない人の赤さだ。彼女の前掛けには薬草の緑と、落ちない茶色が混ざっている。
「担架が迷います」
「迷わないように、白布ではなく鈴を使います。灯りは敵にも見える。音は、水路の中だけで拾えます」
「鈴は足りません」
「結界札の空き紐に、小石を二つ入れてください。鳴ればいい」
救護兵は、少し目を伏せた。
眠気ではない。
計算している。
「三カ所分ならできます」
「二カ所で。残りは予備」
「予備を残すんですか」
「残します。私が怖いので」
救護兵は、そこで短く息を吐いた。
「怖いなら、もっとください」
「交渉が上手い」
「救護所は、いつも足りません」
「では三カ所。予備は、私の水筒箱から紐を出します」
僕は木箱を開けた。空の水筒が二本。
革紐が一本。小さな布片が三つ。
こんなものを数えるために、命令書が一枚増えたわけではない。
たぶん、違う。
でも、いま必要なのはこれだ。
「旧水路、鈴代わり三。灯りなし。担架班へ、曲がり角で声を出さないように」
通信兵が復唱する。
「声なし、鈴三」
「はい」
救護兵が紐を取った。指先が荒れている。薬と水で皮膚が白くなり、その上に乾いた血が細く残っていた。
僕はその指を見て、次の線へ移る。
青杭枝線。
✶
青杭枝線では、工兵が杭を抜きたがっていた。
「敵に読まれています」
工兵下士官は、泥のついた棒で地図を指した。爪の間は黒い。右頬に細い傷。朝の光で、傷だけが先に見える。
「読まれているなら、変えます」
「全部抜きますか」
「抜きません」
「では、何を変えるんです」
「青杭の意味です」
僕は青杭四番から六番までの横に、白い小札を置いた。
「今まで、青杭は戻る線でした」
「はい」
「次から、敵に見える青杭は戻る線ではなく、結界再展開線にします」
下士官の棒が止まる。
「見せ札ですか」
「半分。本当に結界班はそこへ置きます。ただし、受けるためではなく、敵の射線を曲げるためです」
「敵が撃ったら」
残量板は、まだ裏返したままだ。
「六秒以内に下げる」
「遅れたら」
「その時は、私の判断ミスです」
下士官は、棒の先で青杭五番を叩いた。泥が少し飛ぶ。
「判断ミスで済む場所ではありません」
「はい」
「少尉、その返事は現場では嫌われます」
「覚えておきます」
下士官は、それ以上怒らなかった。
怒るより先に、杭をどう動かすか考えている。こういう人は、言葉より棒の先が早い。
「青杭四、五、六を残す。七を抜く。八を水路側へ倒す。白札は三枚」
「白札三」
「結界班には、残量板を持たせます。受ける結界ではなく、見せる結界。二十ミリが来たら張らない」
「張らないと、歩兵が怖がります」
「怖がってください。前へ出ない方がいい」
下士官は、そこで初めて僕を見た。
目が疲れている。
でも、鈍ってはいない。
「少尉は、明るく言うんですね」
「暗く言うと、みんなもっと嫌な顔をします」
「今でも十分嫌です」
「改善します」
「しなくていいです。分かりにくくなる」
棒がまた地図へ戻る。青い線が一本、意味を変える。戻るための印が、敵を迷わせる印になる。
僕はそれを決めた。決めてしまった。
左手の古い表示が、手袋の下で重くなる。
数字は出ない。
ただ、文字の輪郭が太る。
僕は地図の上へ、もう一つ小さな丸を書いた。
反対可能。
工兵下士官の名前を書く欄を作る。
「名前を書きます」
「なぜ」
「あなたが反対できた場所を残すためです」
「反対していません」
工兵下士官の棒は、赤い線の上で止まったままだった。革手袋の親指だけが、木の柄を押し直す。
「反対しかけました」
「それも書くんですか」
「書きます」
棒の先が地図から離れた。水路を示す青線の上に、細い泥の跡が残る。
「変な記録ですね」
「はい。私もそう思います」
通信兵が、横で小さく咳をした。
笑う代わりの咳だった。
たぶん。
✶
正午前、南低地の敵がまた動いた。大きな攻撃ではない。歩兵が七。
推定観測手が一。車両は動かない。赤地に白線の旗もない。
「探りですね」
通信兵が言う。
「はい。たぶん、私がどこまで線を動かせるか見ています」
「撃ちますか」
「撃ちません。見せます」
僕は青杭四番の横へ置いた白札を指した。
「結界班、白札一。薄く、三秒。張ったら下げる」
「三秒?」
「六秒で半分です。三秒で下げれば、まだ次が残る」
「了解」
白い面が、低地の端に立った。敵歩兵が止まる。推定観測手の値が、そちらへ寄る。
こちらの小銃班は撃たない。砲兵も撃たない。ただ、面が白く出て、すぐ薄くなる。
敵は、それを見た。見たなら、次はそこを撃ちたくなる。撃たせる場所を、こちらが決める。
「白札二、出さない。白札一だけで終わり」
「終わり?」
「はい。続けると、本物になります」
敵歩兵が、ゆっくり下がった。射撃なし。損害なし。
こちらの地図にも、線が一本増えた。指揮所の中で、誰かが長く息を吐いた。
僕は戦果欄に書く。敵偵察一、誘導。味方発砲なし。
結界HP消費、軽微。反対可能欄、工兵下士官一。書いてから、最後の一行だけ少し変えた。
敵の推定観測手の値が、味方の斥候と紛れて一瞬重なった。敵味方の判定が遅れる。判定が遅れた分だけ、紙に書く言葉も遅れた。
反対可能欄。未使用。僕はその二字の下を空けたまま、紙を裏返した。
天幕の入口には、工兵下士官の踵跡が朝から同じ場所に残っていた。
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