ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 八章 二十一節
『砂に残る足跡は、歩いた者より追う者を先に疲れさせる。』
午後の泥は、朝より少し軽かった。
乾ききったわけではない。靴底にまとわりつく重さが、一枚だけ剥がれたくらいだ。それでも兵士の歩き方は変わる。足を引き抜く音が浅くなり、荷車の車輪が水を噛む回数も減った。
敵も、それを見る。こちらが残した跡を、あちらも読む。
白札一を見せてから、一時間と少し。南低地の敵は、動かなかった。
動かないまま、推定観測手だけが二度、位置を変えた。
「青杭四番を見ています」
通信兵が言う。
「はい」
「撃ちますか」
「まだです」
僕は地図の青杭四番へ鉛筆を置いた。
そこに本物の結界班はいない。
正確には、さっきまでいた。三秒だけ白い面を見せた。敵に見せるために、そこへ一度だけ立った。
いま結界班は、水車小屋線の後ろへ下げている。残量板と水袋も一緒だ。
「結界班、白札三へ移動済みですか」
「移動済み。残量板、二枚とも八割以上」
「助かります。班長に、僕があとでちゃんと褒めると伝えてください」
「今伝えますか」
「いえ。今伝えると、たぶん嫌な顔をされます」
通信兵が符号板へ向かいかけて、やめた。
「今の、送らなくていいですか」
「送らなくていいです」
「了解。送信しません」
変な復唱だった。でも、指揮所の空気が少し緩む。僕はそれを見てから、次の札を動かした。
白札二。出さなかった札。敵から見れば、こちらが温存した札。
こちらから見れば、ただの紙片。その紙片を、青杭六番の横へ置く。
「工兵下士官へ。青杭六番の南、土嚢を一つ倒してください。わざとです。戻しません」
「倒すだけですか」
「はい。敵に、そこを慌てて直したい場所だと思わせます」
下士官は倒す土嚢を、指先で一度確かめた。
「本当に直さなくていいんですか」
「直したいです」
「なら直しましょう」
「直すと、本物になります」
通信兵が復唱に詰まった。
「直すと、本物」
「はい。面倒な言い方ですみません」
「もう慣れました」
「慣れないでください」
「難しいです」
そう言って、通信兵は符号を送る。
部下と呼ぶには、僕の方がまだ呼ばれ慣れていない。
でも、彼はもう僕の言葉の変なところを知っている。短く言えば足りない部分を、少し待ってくれる。
それが、怖い。便利だからだ。便利な人間関係は、戦場でよく使われる。
僕は鉛筆の先を削った。折れていないのに、削る。削る音が細い。
✶
敵が動いたのは、土嚢を倒してから十二分後だった。
南低地の左側。歩兵十二。
重機関銃一。結界補助具二。
推定観測手は、青杭四番を見たまま動かない。
「来ました」
「はい。来ます」
「撃ちますか」
「まだ。土嚢の手前までは発砲禁止」
通信兵が復唱する。
「土嚢の手前まで発砲禁止」
「結界班は」
「白札三、待機」
結界班の白札は、裏返されたまま並んでいる。
「出さないでください。出すのは、敵が倒れた土嚢を踏んだ後です」
「踏ませるんですか」
「はい。足元を見てもらいます」
敵歩兵の先頭が、倒した土嚢へ近づく。
彼らは、青杭六番の意味を読もうとしている。
戻る線か。結界線か。偽火点か。
どれでもいい。考えてくれれば、それでいい。
「山崎さんへ。南低地左、土嚢の奥二十。榴弾ではなく、空砲に近い低装薬。土を上げてください」
「山崎才我より。空砲に近いってなんだよ」
通信兵が僕を見る。
「土を上げるだけです。人へ当てない」
「了解。怒られそうな撃ち方な」
「怒られたら僕のせいにしてください」
「もうしてる」
少し、喉の奥が軽くなった。
山崎くんの軽口は、こういう時にずるい。
教室でも、彼は先生に怒られる前に自分で笑っていた。笑った後で、周りが怒られにくい位置へ半歩ずれる。その半歩を、昔はただの調子の良さだと思っていた。
今は、違うものに見える。砲声。低い。
土嚢の奥で泥が跳ねる。敵歩兵の先頭が伏せる。
重機関銃の脚が止まる。結界補助具二が、反射的に前へ出た。
「白札三、今。薄く、斜め。三秒」
白い面が出る。
敵の結界補助具が、そちらへ向く。
重機関銃も、そちらへ向く。
青杭四番を見ていた推定観測手の値が、遅れて揺れた。
遅い。
「小銃班、推定観測手の下、枝。撃たないで枝を落とす」
「枝?」
「はい。本人ではなく、見ている場所を落とします」
小銃が二発。枝が落ちる。推定観測手の前に、葉と泥が落ちた。
たぶん、本人には当たっていない。値は低くならない。けれど、視界は消えた。
「砲兵線、維持。重機関銃には撃たない。足元の泥をもう一回」
「山崎より。今度は当てたくなるけど」
「我慢してください」
「お前に言われるの、変な感じだな」
「僕も変です」
軽口を挟みながらでも狙いは外さない山崎さんの調子と、その軽さに一瞬だけ救われている自分がいることに、少し引っかかりを覚えながら、それでも次の号令を出す指は止まらなかった。
二発目。
泥が上がる。
敵重機関銃の脚が沈む。
結界補助具の白い面が、そこで無駄に濁った。弾を受けていない。泥と爆風で、面全体が容量を使った。
補助具の脇に、負荷らしき字が一瞬浮いた。結界HPとは別の数字らしいが、確かめる前に山崎さんの次弾が来た。
結界HPは、弾だけで削れるわけではない。
爆風と打撃は、面で受ける。
敵の結界が、そこで三秒、弱くなる。
「第一小銃班、補助具の固定枠。徹甲ではなく通常弾」
「通常弾?」
「はい。壊すより、嫌がらせです」
通常弾が跳ぶ。固定枠に当たり、金具が鳴った。壊れない。
壊れなくていい。補助具を持つ兵が、半歩下がる。
その半歩で、重機関銃の射線が味方の歩兵に重なった。
敵は撃てない。
「ここで終わりです。追わない」
「追わない」
「白札三、下げて。残量板確認」
「下げます」
白い面が消える。敵はまだ混乱している。撃てる。
撃てるけれど、撃たない。ここで撃つと、本物になる。敵が損害を数える戦闘になる。
僕が今作りたいのは、敵が間違えた線を数える戦闘だ。
敵歩兵十二、後退。重機関銃一、射撃なし。結界補助具二、容量消費。
推定観測手、視界喪失。味方損害なし。味方発砲、小銃四、砲二。
結界HP消費、軽微。戦果としては、小さい。
でも、指揮所の中で、地図の見え方が変わった。
南低地が、少しこちらのものになる。
✶
夕方前、師団司令部から二度目の連絡が来た。
今度は伝令ではなく、符号だった。短い。南低地誘導、確認。
青杭枝線運用、追認。戦域調整権限、継続。次の一文で、通信兵の手が止まった。
「読み上げてください」
「はい」
通信兵は符号板へ目を落とした。
「羽黒少尉を、反攻準備連絡班の戦術調整担当として扱う」
指揮所の中で、鉛筆の音が止まった。僕は水筒を持った。空だった。
さっき渡して、戻ってきた水筒。中身を足すのを忘れていた。
「水を足します」
「少尉、返答は」
「受領。職務範囲、書面要求。あと、水を一本」
通信兵は返答欄まで書き終えた。
「水も送りますか」
「送らないでください」
「了解」
通信兵の返事が、少し早かった。僕は空の水筒を箱へ戻す。
戦術調整担当。また、名前ではないものが増えた。
それはたぶん、僕のためではなく、周りが僕を使いやすくするための言葉だ。
使いやすくなれば、命令も撤収も早く決まるようになる。
そのぶん、誰かの死が決まるのも早くなる。
左手の読みにくい二つの表示が、同時に濃くなった。
状態と敵味方、その二つの字も、地図の隅で細く点滅していた。全部は読み切れない。読み切る前に、次の命令を出す方が早かった。
見ないふりはできた。
でも、見ないふりをすると、次の線を間違える。
僕は手袋を直し、地図へ戻った。
「南低地、次の探りは夜です。灯りを増やさない。音の線だけ残します」
通信兵が復唱する。
「灯りを増やさない。音の線だけ」
「結界班は白札を二枚だけ。三枚目は予備。山崎さんへ、低装薬の残弾確認。救護班へ、旧水路の鈴を二つ増やせるか確認」
「はい」
通信兵が三つの確認先へ印をつけた。
「あと、工兵下士官へ」
「はい」
「さっき反対しなかったことを、まだ怒っているなら、次は先に言ってください」
通信兵が、ほんの少し遅れて復唱した。
「次は先に言ってください」
通信兵の鉛筆が一度止まり、それから返答欄へ「次は先に」と書いた。
外では、乾きかけた泥の上に、新しい足跡が残り始めていた。
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