ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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八章二十二話 音だけの線

《王録》 八章 二十二節

『夜道の鈴は、帰る者より待つ者の耳に先に届く。』

 

 夜は、早く落ちた。

 

 雲が低い。

 

 月は出ているはずなのに、泥の色が一つに潰れている。水路の縁も、倒した土嚢も、青杭の先も、近くで見なければただの黒い段差に見えた。

 

 灯りを増やさない。

 

 自分で言った命令なのに、暗くなると不安になる。

 

 当たり前だ。暗い。

 

 敵も見えない。味方も見えにくい。

 

 見えないものを、見えるふりで動かすのが一番危ない。

 

「旧水路、鈴一」

 

 救護兵の声が通信具から来た。

 

 小さく、硬い。

 

 眠気を噛んでいる声だった。彼女の前掛けは、昼よりさらに重くなっているはずだ。薬草の匂いと、水で薄まった血の匂いが、あの場所にはまだ残っている。

 

 彼女の値の脇にも、薄い字が滲んでいるはずだった。暗すぎて、状態の中身までは読めない。読めないまま、僕は次の指示を出した。

 

「聞こえます」

 

 僕は答えた。

 

 直接聞こえたわけではない。

 

 旧水路の曲がり角に置いた小石入りの紐が鳴り、その音を拾った救護兵が、通信へ乗せている。

 

 音の線。見えない戻送路。

 

 そんな言葉にすると、少し綺麗すぎる。実際には、濡れた紐と小石だ。

 

「担架一、曲がり角通過」

 

「声は出ていませんか」

 

「出ていません。鈴だけです」

 

「そのまま。灯りはつけないでください」

 

「了解」

 

 通信が切れる。

 

 指揮所の中で、誰かが湯を入れた。匂いは薄い。茶ではなく、焦げた薬草を湯に沈めただけのものだ。

 

「少尉、飲みますか」

 

 通信兵が聞く。

 

「それ、美味しいですか」

 

「まずいです」

 

「では、お願いします」

 

 通信兵は湯呑みを少しこちらへ寄せた。湯面に、黒い薬草の欠片が浮いている。

 

「まずいのに」

 

「眠れなくなりそうなので」

 

「すでに眠れないと思います」

 

「それもそうですね」

 

 湯呑みを受け取る。舌の上に苦味が残った。苦い。

 

 けれど、喉は動く。それだけで少し戻る。

 

「南低地、動きあり」

 

 別の通信兵が言った。

 

 彼は昼間からずっと同じ席にいる。左耳の後ろに、符号板の革紐が擦れた赤い跡ができていた。

 

「数は」

 

「小さいです。五、いえ六。距離、青杭四番から南へ七百歩。灯りなし」

 

「推定観測手は」

 

「不明」

 

 不明。

 

 いい言葉ではない。

 

 でも、分かったふりよりずっとましだ。

 

「水車小屋線、音を止めてください」

 

「音を」

 

「はい。旧水路の鈴だけ残す。敵が音を拾うなら、戻送路だけを聞かせます」

 

「誘導ですか」

 

「半分。もう半分は、味方が迷わないためです」

 

 通信兵が復唱する。

 

「水車小屋線、音停止。旧水路鈴のみ」

 

 指揮所の外で、短い笛が一つ鳴った。それから、静かになる。

 

 静かすぎる。人がいるのに、人の音が減る。

 

 夜の戦場で、それは安心ではなく準備だった。

 

 

 敵は、旧水路へ寄った。

 

 予想より早い。

 

 足が速いのではない。迷わず来ている。こちらが聞かせた鈴を、向こうも拾っている。

 

「敵六、旧水路外縁へ。先頭二、低姿勢。後方一、何か持っています」

 

「結界補助具ですか」

 

「反応なし。細い棒状」

 

 細い棒。観測具か。通信傍受具か。

 

 あるいは、ただの槍か。夜は、全部を似せる。

 

「灯りはつけない。結界もまだ出さない」

 

「敵が担架線へ入ります」

 

「入れません」

 

 僕は旧水路の曲がり角へ、鉛筆を置いた。鈴一。

 

 鈴二。鈴三。

 

 そこから五十歩北に、昼に倒した土嚢の予備がある。

 

「工兵下士官へ。旧水路北の予備土嚢、一つだけ落としてください。音を出していい」

 

「音を出していい」

 

「はい。敵の耳を鈴から外します」

 

 返答は早かった。

 

「工兵班、了解」

 

 少しして、低い音がした。土嚢が落ちた音。

 

 泥を叩く、鈍い音。敵の先頭二つの値が止まる。

 

「止まりました」

 

「結界班、白札二。敵の正面ではなく、旧水路の北側へ。薄く、一秒」

 

「一秒?」

 

「見せるだけです」

 

 白い面が、一瞬だけ夜に立った。

 

 すぐ消える。

 

「幻影陣形も、同じ場所へ一体」

 

「動かしますか」

 

「いえ、立たせるだけでいいです。動かない方が、あとは敵が勝手に想像します」

 

 黒い人影が、白い面の陰にひとつ現れた。動かない。

 

 動かないことが、むしろ夜には本物らしく見えた。

 

 結界HPを使ったと言えるほどではない。けれど、敵には見えた。

 

 敵六のうち、後方の一つが動いた。

 

 棒状のものを、白い面へ向ける。

 

「あれは観測具です」

 

「断定ですか」

 

「推定です。高め」

 

 口の中で苦味が戻る。

 

 僕は湯呑みを置いた。

 

「小銃班、撃たない。山崎さんへ、旧水路北、白札二のさらに北へ低装薬一。音だけ大きく」

 

「山崎より。夜に音だけは趣味悪い」

 

「すみません」

 

 回線の向こうで、装填具の金属音がした。

 

「褒めてる」

 

「たぶん褒めてません」

 

「まあ撃つけどな」

 

 砲声。低装薬でも、夜には大きい。泥と水が跳ねる。

 

 敵の棒状観測具が、そちらへ向く。担架線から外れる。

 

「旧水路、担架一は」

 

「曲がり角二、通過。声なし」

 

「鈴三を止めてください」

 

「止めると、担架二が迷います」

 

「担架二はまだ出さない。鈴を止めて、敵に戻送が終わったと思わせます」

 

 救護兵の返答が遅れた。一秒。

 

 二秒。長い。

 

「了解」

 

 鈴三が止まる。

 

 水路の音が減る。

 

 敵の先頭二つが、また迷った。

 

「今です。水車小屋線、音を戻してください。短く二つ」

 

 笛が二つ。

 

 敵の後方が振り返る。

 

 観測具を持つ値が、棒を上げたまま半歩下がった。

 

 そこへ、工兵班が落とした土嚢の音がもう一つ重なる。

 

 敵の線が割れた。撃っていない。

 

 誰も倒していない。けれど、敵六は一つの組ではなくなった。

 

「第一小銃班、警告射撃。敵と旧水路の間、地面」

 

「警告」

 

「はい。人には当てない」

 

 三発。泥が跳ねる。敵の先頭二が下がる。

 

 後方一が、観測具を抱えて伏せる。残り三は、そのまま低地側へ退いた。

 

「追わない」

 

 同じ命令が前へ送られた。

 

「白札二、残量確認」

 

「ほぼ減りなし」

 

「よし」

 

 口に出した後で、少し遅れて手が冷えた。よし。何が。

 

 敵を殺さなかったことか。担架を通したことか。敵にこちらの音を読ませたことか。

 

 全部だ。たぶん、全部。こういう時、三郷なら大きく言っただろう。

 

 よし、戻れた。そう言って、周りの息を戻した。

 

 僕は同じ声量で言えない。だから、別の言い方をする。

 

「旧水路、担架一通過。敵接触なし。小銃三。低装薬一。結界HP消費、ほぼなし」

 

 通信兵が復唱する。

 

 記録になる。

 

 声の代わりに、紙へ残る。

 

 

 担架一が戻ったのは、夜半近くだった。怪我人の名前は、僕の知らない兵士だった。

 

 知らない名前。でも、救護兵は知っていた。

 

 水路から戻った担架を見た時、彼女は一度だけ前掛けの端を握った。すぐ離した。血と薬草で重くなった布が、指の形だけ残して戻る。

 

「生きています」

 

 彼女が言った。

 

「はい」

 

 僕は頷いた。

 

「鈴、増やした方がいいです」

 

「敵も聞きます」

 

「味方も聞きます」

 

 救護兵の目の下は赤いままだった。

 

 でも、声は昼より少し前へ出ている。

 

「二つ増やせます。小石ならあります」

 

「紐は」

 

「包帯の端を裂きます」

 

「包帯は裂かないでください」

 

「では、少尉の水筒箱から」

 

 取引みたいに言われた。僕は箱を開ける。空の水筒。

 

 革紐は、もう使い切っていた。残っているのは布片が三つだけ。

 

「紐はないです。布片なら三つ」

 

「布片で二つ作れます」

 

「上手いですね」

 

「救護所は、いつも足りません」

 

 昼にも聞いた言葉だ。

 

 同じ言葉なのに、少し違って聞こえる。

 

 僕は革紐を渡した。

 

「鈴二つ。旧水路ではなく、戻った後の道に。担架が帰ってきた時に、救護所側が先に分かるように」

 

「帰りの音ですか」

 

「はい」

 

「それ、いいです」

 

 救護兵は革紐を受け取った。指先が、僕の手袋に少し触れた。

 

 指先は冷たいのに、手袋の中はまだ熱を持っていた。

 

 二つの表示は、消えずに残っている。

 

 敵味方の色も、夜はにじんで見分けにくい。今夜は、音だけを頼りに線を引くしかなかった。

 

 誰かを殺さない夜でも、線を動かせば濃くなる。

 

 僕は革紐が救護所へ運ばれていくのを見送った。

 

 外では、鈴の音が一つ増えた。

 

 小さな音だった。

 

 それでも、指揮所の中の何人かが顔を上げた。

 

 戻ってくる音だと、もう知っている。

 

 僕は戦術調整担当と書かれた紙を伏せた。

 

 布の紐に入れた小石が、暗い水路の奥で鳴る音だった。

 

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