ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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八章二十三話 返事のない鈴

《王録》 八章 二十三節

『同じ音を鳴らす者がいても、待つ手の数までは真似られない。』

 

 明け方前、鈴が二つ鳴った。

 

 旧水路ではない。

 

 戻った後の道でもない。

 

 水車小屋線の南。昨日まで何も置いていない場所。

 

 音だけなら、よく似ていた。小石が布の中で当たる音。濡れた紐が揺れて、少し遅れて鳴る音。

 

 作ろうと思えば作れる。敵も、それを知った。

 

「鈴二。水車小屋線南」

 

 通信兵が言った。

 

 声は低い。眠気ではなく、余計な音を立てないための低さだった。

 

「救護所からの返答は」

 

「なし」

 

「旧水路側は」

 

「鈴一、沈黙。鈴二、沈黙。帰り鈴二、沈黙」

 

「では、敵です」

 

 言ってから、舌の奥に苦味が戻る。敵です。

 

 簡単だ。簡単な言葉ほど、あとで人を動かす。

 

「撃ちますか」

 

「撃ちません。鳴らさせます」

 

「鳴らさせる」

 

「はい。こちらの鈴と違うところを探します」

 

 通信兵が、少し眉を寄せた。

 

 彼の左耳の後ろの赤い跡は、まだ消えていない。革紐が擦れたところへ、汗が入り込んだのだろう。

 

「音の違いですか」

 

「それもあります。でも、人の違いの方です」

 

 僕は救護所へつなぐ。

 

「救護所、こちら戦術調整。水車小屋線南の鈴に返事をしないでください」

 

「返事、なし」

 

 救護兵の声が来る。

 

 寝ていない。

 

 さっきより少し掠れている。

 

「本物の担架が戻る時は」

 

「鈴のあとに、布を二度引く」

 

 下士官は手元の紐を二度引いた。

 

「はい。昨日決めました」

 

「敵は知らない」

 

「知らないはずです」

 

「はず」

 

 救護兵が、そこで短く息を吸った。

 

「分かりました。返事なし。布二度だけ」

 

「ありがとうございます」

 

「少尉」

 

「はい」

 

 通信具の奥で、鈴が一度だけ鳴った。強い音ではない。布に触れて、小さく戻る音だった。

 

「鈴を増やしたの、よかったですね」

 

「それは、救護所の功績にしてください」

 

「嫌です。紐は少尉の水筒箱からです」

 

 通信が切れた。

 

 指揮所の中で、通信兵が僕を見た。

 

「水筒箱、また空ですね」

 

「大人気です」

 

「水筒箱が」

 

「僕より役に立っています」

 

「それは、否定しにくいです」

 

 少し笑いが漏れた。

 

 笑いと呼ぶほど長くはない。けれど、息が戻る。

 

 敵の鈴が、もう一度鳴った。今度は三つ。

 

 焦れている。こちらが返事をしないからだ。

 

「敵、鈴三」

 

「位置は」

 

「同じ。水車小屋線南。距離、指揮所から九百歩ほど」

 

「推定観測手は」

 

「薄い値、一。音の北側」

 

 やはり、いる。音を鳴らす者と、反応を見る者。

 

 敵も手順を作る。こちらの手順を真似る。

 

 だったら、真似しにくいものを使うしかない。

 

「救護所へ。布二度の合図、今だけ三度に変えます」

 

「三度」

 

「はい。旧水路内だけ。水車小屋線には伝えない」

 

「味方も混乱します」

 

「混乱させる範囲を、水路内だけにします」

 

 救護兵の返事が遅れる。

 

 また、一秒。

 

 二秒。

 

「了解。旧水路内、三度」

 

「終わったら二度へ戻す」

 

「戻します」

 

 僕は地図へ、小さく三本の線を引いた。鈴ではない。布を引く回数。

 

 見えない線。敵には聞こえない線。救護所と担架班だけが知る線。

 

「水車小屋線は」

 

「沈黙維持。こちらからは何も返さない」

 

 水車小屋線の札は、伏せたままになっている。

 

「白札は」

 

「出さない。結界を見せると、そこが本物に見えます」

 

「小銃班」

 

「撃たない。音の持ち主を知るまで待機」

 

 通信兵が復唱する。僕は湯呑みへ手を伸ばした。

 

 中身は冷えていた。苦味だけが残っている。

 

 

 敵の鈴は、四回目で止まった。返事がない。白い面も出ない。

 

 小銃も撃たない。何も返らない。何も返らないと、人は不安になる。

 

 敵も同じらしい。水車小屋線南の薄い値が、北へ寄った。

 

 推定観測手。少し前に出る。

 

 その動きは、昨日までなら撃ちたくなる動きだった。

 

 今は撃たない。

 

「山崎さんへ。砲は使いません。音もなし」

 

「山崎より。ついに俺いらない?」

 

「要ります。撃たない砲兵として」

 

「それ、褒めてる?」

 

「半分です」

 

 その軽口が、符号板を通って少し遅れて届く。

 

 教室で聞いた声より、ずっと遠い。

 

 それでも、山崎くんは山崎くんのままだった。ゲームの勝ち筋を見つけた時みたいに、嫌な役でも一度笑ってから飲み込む。

 

 僕はその声を聞いて、地図へ目を戻す。

 

「第一小銃班、銃口だけ上げる。撃たない」

 

「銃口のみ」

 

 第一小銃班の銃口が、土嚢の上へ揃った。

 

「結界班、白札なし。残量板は伏せたまま」

 

「白札なし」

 

「工兵班、水車小屋線南へ音を返さない。土嚢も落とさない」

 

「土嚢なし」

 

 敵の推定観測手が、さらに一歩出た。値が少し濃くなる。「精神」

 

 文字が一瞬だけ見えた。迷いではない。緊張。

 

 その脇に、別の文字が薄く滲んだ。「敵」か「状態」か、判別できないまま消える。

 

 こちらが反応しないことで、敵の方が自分から前へ出ている。

 

「今です。旧水路、布三度」

 

 救護所から、短い報告。

 

「担架なし。合図のみ」

 

 旧水路の奥で、布が引かれる。音は、ほとんどない。けれど、救護所側の兵だけがそれを拾う。

 

 味方の水路内警戒が、一本北へずれる。敵には見えない。

 

 敵の推定観測手は、水車小屋線南の無音をまだ見ている。

 

「第二小銃班、推定観測手の退路。地面へ二発」

 

「本人ではなく退路」

 

「はい」

 

 二発。泥が跳ねる。

 

 敵の推定観測手が、退路を一瞬失った。前へ出るしかない。

 

 そこへ、工兵下士官の仕掛けた細い縄が効いた。

 

 罠ではない。足を取るほどのものでもない。

 

 ただ、草の向きが変わる。敵が、自分の足元を見た。

 

 その一瞬で、銃口を上げていた第一小銃班が見える。

 

 撃たれていない。でも、撃たれる位置にいる。

 

 敵の推定観測手は、下がらなかった。

 

 懐から札を抜き、地面へ叩きつける。白い光が薄く膜を張った。結界だ。板ではなく、体を覆う薄い面。張った瞬間から容量が減っていくはずのそれへ、第一小銃班が一斉に撃った。

 

「面、薄い。まだ削れます」

 

 六秒。持って三度の斉射。

 

 白い面が、二射目で波打つように濁った。貫通には強い面でも、同じ場所へ連続で受ければ削れる。三射目で膜が裂け、観測手の肩から先が泥へ落ちた。

 

 撃破ではない。

 

「命中確認、肩。行動可能」

 

 通信兵の声が硬い。

 

「深追いしない。足だけ止めます。第一小銃班、腰から下」

 

 二発。膝の下の泥が跳ねる。観測手の足が折れるように沈み、そのまま這って後退へ移った。

 

 仲間が二人、暗がりから出て肩を貸す。小銃班はそれ以上撃たなかった。

 

 敵は下がった。折れた札と、鈴を残して。

 

「追わない」

 

「追わない」

 

「鈴を回収しない。触れない。敵がどんな紐を使ったかは、朝まで待つ」

 

「朝まで」

 

「はい。夜に取りに行く価値はありません」

 

 通信兵が復唱する。僕は地図へ、黒い点を一つ置いた。敵の鈴。

 

 敵がこちらの線を真似た証拠。証拠という言葉は便利すぎる。

 

 それさえあれば、人はつい納得してしまう。僕は黒い点の横に、小さく書いた。未回収。

 

 まだ確定しない。確定しないものを、確定した顔で使わない。それも、線の一つに入れておく。

 

 

 夜明け前に、救護兵がまた指揮所へ来た。

 

 前掛けは替えていた。

 

 それでも薬草の匂いは残っている。髪の端に白い糸くずがついていて、本人は気づいていない。

 

「布三度、戻しました」

 

「ありがとうございます」

 

「二度に戻っています」

 

「記録します」

 

「あと、鈴の音で起きた兵がいました」

 

 救護兵の袖には、乾いた血と薬草の粉が同じ色でついている。

 

「すみません」

 

「謝ることではありません。起きたので、担架を持てました」

 

 救護兵はそう言って、僕の机の端へ小さな布片を置いた。

 

「これは」

 

「帰り鈴の予備です」

 

「紐、足りましたか」

 

「足りません。これは私の髪紐です」

 

 薄い布だった。

 

 洗ってはいる。けれど薬草の匂いが少し染みている。

 

「それは、使えません」

 

「使えます」

 

「個人の物です」

 

「水筒箱も、個人の物では」

 

 言い返せなかった。

 

 救護兵は、ほんの少し顎を上げた。目の下の赤みが、朝の薄い光で余計に濃く見えた。

 

「戻ってくる音が増えるなら、使ってください」

 

 僕は布片を見た。布。小石。

 

 鈴の音が二度鳴れば、担架が戻る。戦術調整担当や戦域調整権限より、回数を決めた方が早い。

 

「借ります」

 

「返却不要です」

 

「記録上は借用にします」

 

「好きにしてください」

 

 救護兵は言った。声は疲れている。でも、少し強い。

 

 僕は布片を白札の横へ置いた。敵の黒い鈴と、味方の白い布が同じ机に並ぶ。

 

 左手の奥の表示が、また濃くなる。今度は熱ではなく、重さだった。

 

 重さの奥に、もう一つ細い文字が滲んだ。「負荷」に見えた。けれど、瞬きの間に薄れて消えた。読み切れないまま、僕は布片へ視線を戻した。

 

 外では夜が薄くなり始めていた。机の端から白い布が少しはみ出している。明るくなるまで、僕はそこを切らずに残した。

 

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