ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 八章 二十四節
『器を似せる者は多いが、注がれた水の温度までは揃わない。』
朝の泥は、夜より正直だった。
足跡が残る。
草の倒れ方も残る。
水車小屋線南へ向かった工兵班は、日の出から十分ほどで戻った。先頭の下士官は、泥のついた布包みを片手に持っている。もう片方の手には、細い棒。敵が置いたものだ。
彼の右頬の傷は、昨日より少し乾いていた。乾いた分だけ、赤さが細くなっている。
「回収しました。位置、向き、足跡、草の倒れまで、触る前に記録済みです」
「ありがとうございます」
布包みの下に、乾いた泥が少し落ちた。夜明け前の土だ。
「助かるなら、次も夜に取りに行かせないでください。昨日は待ってくれましたけど」
「次も、明るくなるまで待ちます」
下士官は、布包みを机に置いた。
黒い紐。
中に小石が二つ。
結び目は荒い。けれど、鳴る。こちらの鈴に似た音を作るには十分だった。
問題は細い棒の方だった。木ではなく、黒い金属に近い。先端に小さな穴があり、握る部分には布が巻かれている。その布だけは乾いていて、泥を吸っていない。
「観測具ですか」
通信兵が聞く。
「音を拾う道具かもしれません」
僕は棒を直接持たない。
下士官が差し出した革片の上から、先端を見る。
穴の中には細い魔導膜がある。音そのものか、音の来た向きを拾うための膜だ。
「敵は、鈴の音だけでなく、返事を待っていた」
「返事?」
「はい。鈴を鳴らした後、こちらの救護所か警戒班が動く音です。足音、布、符号。そういうもの」
下士官は黒い紐を裏返した。
「今回は鈴だけです。次は、返事まで真似しますね」
「でしょうね」
言ってから、指先が冷えた。
昨日の手順は、もう使えない。僕は返答手順を書いた紙に横線を引いた。
「救護所へ。昨日の返答手順は破棄。今日から、鈴、布、声の三つを同じ順番で使わない」
「三つを同じ順番で使わない」
通信兵が復唱する。
「工兵班へ。黒い鈴の構造を写してください。ただし、こちらの鈴は似せない。敵が真似た音を、こちらの偽音として使います」
通信兵は「敵の偽音を、こちらの偽音に」と口の中で確かめ、符号板へ移した。
「嫌な言い方ですね」
「もう慣れました」
返事が早い。僕は続きを言わず、横線を引いた紙を裏返した。
✶
救護兵は、黒い鈴を見ても驚かなかった。
眠れていない目で、ただ一度だけ見た。
「雑ですね」
「音は似ていました」
「似ているだけです。戻ってくる人の音ではありません」
彼女はそう言って、机の上に昨夜の髪紐を置いた。小石を入れれば鈴になり、抜けばただの白い布に戻る。
「どこが違いますか」
「持つ人です」
それでは記録欄に入らない。僕が鉛筆を止めると、救護兵は黒い紐の結び目を爪で押した。
「では、結び方。救護所の鈴は、片手でほどけるようにします。敵のは、強く結びすぎです」
彼女は黒い紐を指した。
爪の先に薬草の緑が残っている。
「担架を持ちながら、これをほどく人はいません」
音ではなく、手順の違いだった。僕は帳面に、救護所は片手でほどける結び、敵の偽鈴は強く結びすぎ、と書く。
「それ、教範に入ります」
救護兵は黒い紐を指先で持ち上げた。強く結ばれた跡が、紐の腹に白く残っている。
「名前は消してください」
「そうします」
湯呑みを持つと、中身はまた苦かった。
「救護所側の規格にします。髪紐は帳簿上、借用のままにしておきます」
「返却不要です」
「紛失させないためです」
彼女は白い布を机に残したまま、救護所へ戻っていく。
薬草の匂いが後に残った。
黒い鈴と白い布は、並べれば同じ音を作れる。ただ、白い方の結び目だけは片手でほどけた。
僕は教範用紙に、結び方の欄を一つ増やした。
✶
昼前、反攻準備連絡班から最初の照会が来た。
紙には照会とある。質問の形でも、答えればそのまま次の命令の材料になる。
「青杭枝線、旧水路戻送路、水車小屋線の手順を、他の二線へ展開可能か」
通信兵が読み上げた。
左手が少し重くなった。
「可能です。ただし、そのまま写すと敵にも写されます」
通信兵が返答を書きかけたところで、「例えば」と別の声がした。
指揮所の入口に、伝令が立っていた。
昨日の外套ではない。乾いた上衣に替えている。けれど靴紐は、まだ片方だけ新しい。
「例えば、救護線は片手でほどける結び。工兵線は杭の倒す向き。通信線は返答までの間隔。結界再展開線は白札を出す秒数」
「白札を出す秒数ですか」
「一秒、三秒、六秒。六秒を越えると、結界HPは半分以下になります。見せるだけなら一秒。敵を止めるなら三秒。受けるなら、六秒以内で交代」
伝令は、そこで黒い鈴に気づいた。
「敵に真似された手順を、規格化するんですか」
「危険です。だから、規格は骨だけにします。音、布、札、杭。中身は線ごとに変える」
伝令は乾いた靴の爪先を一度引いた。
「現場で混乱します」
「します。だから、全部ではなく二線だけ試します」
「どの二線ですか」
「旧水路と青杭枝線です。救護線と結界線から先に試します」
伝令は返事をせず、新しい方の靴紐を爪先で踏み直した。靴についた泥が乾き、細かく割れて落ちる。
通信兵は符号板へ向かう前に、僕を見た。
「照会への回答で、実施命令ではない。今回も付けますか」
「付けてください」
僕は地図の端に、模倣対策、救護線、結界再展開線、試行と小さく書いた。
その横に、反対可能欄を足す。
伝令がそれを見る。
「反対可能欄まで必要ですか」
「うまくいった手順ほど、次も使えと言われます。現場で止められる欄が必要です」
言った後で、口の中が乾いた。
一度うまくいけば、次の命令書には実施済みと書かれる。まだ紙の上に反対欄を足せるうちに、足しておくしかない。
救護兵の髪紐も、黒い鈴も、一つの伝令鞄に入る。教範の写しと一緒なら、昼のうちに別の線へ届く。
✶
午後、僕の名で試行命令を出した。対象は旧水路戻送路と青杭枝線の二線だけ。救護線には片手でほどける結び、結界再展開線には白札の秒数を使う。
反対可能欄と実施前確認も付けた。読み返しても文面に引っかかるところがなく、そのまま判を押せそうで、紙を持つ指に力が入った。
工兵下士官は紙を受け取ると、下端の欄を指した。
「少尉。ここ、本当に反対していいんですよね」
「はい」
下士官は紙を僕の方へ戻し、三秒の字へ泥のついた棒先を当てた。
「青杭枝線の白札、三秒は長いです。敵が二十ミリを合わせてきたら、三秒でも結界班がきつい」
「二秒で見えますか」
「見えるように置きます」
僕は紙の白札三秒に線を引き、二秒と書き直した。
「採用します」
下士官の棒が止まった。
「早いですね。反対可能欄を作ったら、全部採用するんですか」
「全部ではありません。今回は、あなたの方が現場に近いので」
下士官は鼻で息を吐いた。
「そういうことを言うと、現場は次も止めますよ」
「そのための欄です」
下士官は符号板の空欄を見た。そこにはまだ誰の名前も入っていない。
「止めた理由も、消さないでください」
「分かりました」
通信兵が符号板を構え、救護兵は白い布の結び目を作り直している。伝令はしゃがんで、緩んだ方の靴紐を締めていた。
左手の奥の表示は重いが、今は熱くない。僕は命令文を机へ置き、改めて読み上げた。
「青杭枝線、白札二秒。旧水路戻送路、片手結び。試行開始」
通信兵が復唱し、工兵下士官は訂正した紙を脇に挟んで泥の中へ出ていく。
黒い鈴は、まだ机の上にある。
それが鳴らないことを、僕は確認した。
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