ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 八章 二十六節
『踏まれなかった草は、翌朝になってから道の名を得る。』
翌朝、敵は青杭六番の少し後ろを撃った。昨日、工兵下士官が風を理由に白札を止め、代わりに土嚢を起こした場所だ。
そこへ、七十五ミリ級の榴弾が二つ落ちた。
地面が持ち上がり、湿った土と草が天幕の入口まで飛んできた。
通信兵の頬に泥がついた。
彼は袖で拭こうとして、手元の符号板を先に押さえた。
頬より符号板を先に守った。感心している場合ではない。
「青杭六番、被弾」
「確認中。白札なし。結界班は待機位置のまま、容量消費と負傷なし。工兵一名、土砂で転倒」
「救護線を開けてください。担架ではなく徒歩誘導で」
「水車小屋方面、まだ撃たないでください。敵は白札が出る場所を探しています」
通信兵が復唱する。
僕は地図の青杭六番に、赤鉛筆で小さく丸をつけた。
昨日、予定どおり白札を出していれば、結界班はそこで板状結界を二秒見せていた。七十五ミリ二発を結界HPで受けられたかどうかは計算できる。数字が出るぶんだけ、腹の中が冷えた。
でも、受けた結界は六秒で残量を半分に落とし、再展開する結界班の手首に疲労を残す。
次の一発で、誰かの指が動かなくなる。
そういう戦いだ。
「敵推定観測手、南低地二番林縁。距離一・九キロ。白布なし、棒状器具あり。歩兵八、重機関銃一、結界補助具二」
「車両は」
「なし」
「ありがとうございます」
僕は息を細く吐いた。
報告の数字の奥に、薄い色が滲んでいた。敵の焦り、とだけ読めた気がした。断定はできない。読み違えれば、人を動かす。
「敵は昨日、白札が出なかった場所を予備位置と見ています。もう一度、同じ場所を撃たせます」
「同じ場所ですか」
「はい。ですが、人は置きません」
通信兵が復唱する前に、書記官が顔を上げた。
「中止権者は、今回も工兵下士官ですか」
「今回こそ、工兵下士官のままです」
天幕の布が揺れる。
外の空気に、火薬と濡れた土の匂いが混ざっていた。
朝なのに、舌の上だけ夜みたいだった。
✶
青杭六番の再使用案に、工兵下士官はすぐ反対した。
「反対。二発の着弾で地面が緩い。白札を出すと、杭ごと倒れる可能性あり」
通信兵が続けて代案を読む。
「了解です。白札は出しません」
「代案あり。青杭四番の古い杭を抜いて、六番の後ろへ投げる」
通信兵の眉が動いた。古杭を投げる、という工兵らしい文面に笑いかけたらしい。
「採用します。青杭四番の古杭一本を六番後方へ。人は二十歩以内に残さない。水車小屋線は笛一つで作業音を隠してください」
「古杭一本、六番後方。二十歩以内に人を残さず、笛一つ」
「結界班は白札なし。残量板だけ準備。撃たれてから張らない。張るなら救護線だけです」
「はい。今日は結界を見せません」
結界を見せない。
その言い方だけなら、なんだか簡単に聞こえる。
結界班の一人が、指の包帯を歯で押さえて結び直していた。
昨日の再展開で擦れた場所だ。彼は僕の方を見て、短く手を上げた。僕も上げ返す。
少尉らしい返し方ではない。でも、こういう時に敬礼だけだと硬すぎる。
「今日は温存です」
僕は少し声を明るくした。
「さぼりではありません。かなり高級な温存です」
結界班の誰かが、鼻で笑った。
それで十分だった。
青杭四番の古い杭を抜くと、泥が吸いつく音を立てた。工兵二人は細い木を抱えて低く走る。速さより、転ばないことを優先した走り方だった。
六番の後ろへ投げ込まれた古杭は、乾いた音も立てず泥へ鈍く沈んだ。
「投擲完了」
「全員二十歩外へ」
「離脱中」
敵の推定観測手の値が動き、棒状器具が青杭六番へ向いた。白札も結界もなく、泥に沈んだ古杭一本しかない。
「敵砲、来ます」
希望の声が通信に入った。
後輩の声は、薄い紙を透かすように震えることがある。
でも、数は外さない。
「着弾まで、十、いえ、九秒」
「全線伏せ。救護線は止めたまま、水車小屋の笛を停止。山崎さんも待機してください」
九秒の間、鉛筆の先が地図の青杭六番、その後ろの古杭を示したまま止まる。
そこへ、榴弾が落ちた。
一発目で泥が噴き、二発目で古杭が消えた。
土嚢の欠片が、雨みたいに降ってきた。
人も結界も置いていない。消費欄には何も入らない。
「青杭六番、再被弾。敵砲撃二発を誘導。人員損害、結界HP消費ともになし」
通信兵の声が、いつもより半音高かった。
「よし」
誰かが言った。
僕ではない。
その声を、すぐに飲み込ませる。
「まだです。敵推定観測手は南低地二番林縁から動かず。重機関銃は構えたまま、歩兵八の前進なし」
敵は着弾の結果を見ている。人を置かなかったことも、白札が出なかった理由も、まだ判断できていない。その観測を止める。
「山崎さん、榴弾ではなく低装薬で。二番林縁の手前、推定観測手の足元ではなく、器具の前の湿った土だけを上げてください。殺さず、見えなくします」
「了解。足じゃなく、道具の前」
山崎が笑った気配がした。
砲声。
大きすぎない。
でも、胸の中の水を一度揺らすには十分だった。
二番林縁の手前で、土が上がる。
推定観測手の棒状器具に、泥がかかった。
敵歩兵のうち二人が器具を拭き、観測手を守るため前へ出た。その瞬間、重機関銃の横が空いた。
「水車小屋線、十ミリ一連。重機関銃の脚だけを狙い、人の胴は外してください。徹甲小銃班は結界補助具二へAP各一。補助具を抜ければ下がります」
「十ミリ一連は脚、AP各一は補助具」
「結界班は救護線だけ。重機関銃側には出しません」
十ミリの低い音と、徹甲小銃の乾いた撃発音が重なる。
敵の結界が白く濁る。
面は途切れないまま、補助具の残量だけが落ちる。
六秒もたたずに、白が薄くなる。重機関銃の脚が跳ねた。銃身が、少し上を向く。
撃たれた弾が、空へ散った。
「敵重機関銃、射線逸れ。結界補助具一は残量低下、もう一つは後退」
「追わないでください。こちらが林縁へ出ることになります」
「了解。追撃なし」
敵歩兵八のうち、二人が重機関銃を引く。
推定観測手は器具を抱えたまま、泥を払えずに下がる。
撃つことも殺すこともできたが、今日の欄へ入れるのはそこではない。
僕は表へ記入する。
敵砲撃二発を誘導し、青杭六番の人的損害と結界HP消費はなし。敵推定観測手は観測不能、重機関銃は射線逸脱、結界補助具一は残量低下。敵は後退した。
味方の消費は十ミリ一連、徹甲小銃AP二、低装薬砲弾一。
撃たなかった弾の欄も、隣に置く。
隣の欄には、残った榴弾、結界容量、待機中の担架を書く。殺傷数の横へ、次に使えるものを置いた。
地図の端では、まだ読めない値がいくつか点滅していた。「負荷」。「状態」。今日は追いきれない。追いきれない分だけ、明日も同じ場所を見るしかない。
✶
昼前、工兵下士官が泥だらけの古杭の欠片を持ってきた。
半分しか残っていない。
先が黒く焦げている。
「これ、記念にどうです」
「置く場所がありません。僕の机は紙だけで十分危ないので」
「杭も燃えましたからね」
工兵下士官が口の端を上げた。彼の前歯に、土がついていた。指摘するか迷って、やめた。
たぶん、今はいらない。
「反対欄、残りますか。上に削られたら」
「削った版と、削る前の版を両方残します。書記官はもう朱線用のペンを出しています」
「準備がいいのか、怖いのか分かりませんね」
工兵下士官が、今度はちゃんと笑った。
僕も笑い返した。うまくできたかは分からない。
けれど、天幕の中にいた結界班の一人が、残量板の端を指で叩いた。
こつ、と乾いた音がした。
まだ戦場に戻れる音だった。
夕方、師団司令部へ送る報告書には、いつもの戦果欄の横に新しい欄を置いた。
中止と反対。その結果として残った三つの資源。
その欄を見て、書記官が言った。
「撃っていないものまで、戦果にするんですか」
「はい。上は首を傾げるでしょうけど、読んでもらいます」
書記官がこちらを見たので、僕は言い直した。
「今の言い方は悪かったです。すみません」
彼は書いた。
書記官は榴弾、結界、担架の残数を書き終え、報告書の端でペン先を拭った。
机の隅では、焦げた古杭から泥が一粒落ちた。
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