ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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八章二十七話 温い椀

《王録》 八章 二十七節

『冷えた器を温める手は、火の名を知らなくてもよい。』

 

 救護分室へ行く前に、報告書を一部だけ写した。戦果表、敵配置図、砲撃推定線は持っていかない。何を見せてよいかの区別に自信がなく、書記官にも確認してもらった。

 

「これを患者に見せるのですか」

 

「患者、というより桜華さんに」

 

「同じです」

 

「はい」

 

 書記官は写しを読んだ。

 

 写しには、中止、反対、残存榴弾、結界容量、待機担架、敵砲撃二発の誘導、人的損害なしと並んでいる。

 

 彼は最後まで目を通し、赤鉛筆で二箇所を消した。

 

 敵推定観測手、観測不能化。

 

 敵結界補助具、残量低下。

 

「ここは不要です」

 

「理由は」

 

「患者に敵の弱り方を読ませる必要はありません」

 

「はい」

 

「それと」

 

 書記官は、僕の手元を見た。

 

 左手の手袋には、書記官から見えるものは何もない。表示が見えるのは僕だけだ。

 

「少尉が、これを見せたい理由は何ですか」

 

「撃たなかったものを、戦果として残せたので」

 

「それを、褒めてもらいたい」

 

 その言葉は、思ったより効いた。息を吸うと、まだ少し引っかかる感じがした。

 

「違います」

 

 すぐに答えた。

 

 早すぎた。

 

 書記官は、赤鉛筆の芯を削った。

 

「違うなら結構です」

 

「いえ」

 

 僕は写しを受け取る。

 

 写しの角が、指の汗で少し柔らかい。

 

「少しは、そうです」

 

 書記官は何も書かなかった。

 

 それが、返事だった。

 

 

 救護分室は前より人が増え、担架が一つ、椅子が二つ置かれていた。薬湯の桶は入口から見て右側に寄せられている。

 

 酒精と包帯の匂いに、温い麦粥の匂いが混じっていた。

 

 食べ物の匂いが混じると、救護分室の酒精臭がいくらか遠のいた。

 

 桜華さんは、上体を少し起こしていた。背中に畳んだ毛布を二枚入れている。髪は前より短く結ばれていた。

 

 医療班が切ったのだろう。

 

 左側だけ、結び損ねた髪が頬にかかっている。

 

「少尉」

 

「やめてください」

 

「じゃあ、処理上の少尉」

 

「もっとやめてください」

 

 桜華さんは、温い椀を両手で持っていた。湯気はほとんどない。熱いものはまだ飲ませないのだろう。

 

 指は細い。でも、椀を落とさない。

 

「何持ってるの」

 

「報告書の写しです」

 

「私に?」

 

「はい。見せていい範囲だけ」

 

 報告書は薄い。薄いのに、板の上へ置くと音が重かった。

 

「見せていいって、誰が決めたの」

 

「書記官です」

 

「羽黒くんじゃないんだ」

 

「僕だけだと、たぶん余計なものを入れます」

 

「それはありそう」

 

 薬湯の匂いが、椀の湯気に混じっている。桜華さんの細い指が、椀の縁を押さえていた。

 

 桜華さんは椀に口をつけた。一口飲んで間を置き、もう一口。喉が動く。前に見た時より、動きが分かりやすい。

 

 生きている証に見える。

 

 でも、桜華さんの前で、その言い方はしない。

 

 僕は写しを、寝台の横の小さな板に置いた。

 

 桜華さんはすぐには読まなかった。

 

 椀を置く場所を探し、医療班が手を伸ばす前に、自分で板の端へ寄せた。

 

 椀の底に、薄い輪が残る。

 

 桜華さんが、並んだ三語を読んだ。

 

「撃たなかった弾、張らなかった結界、出さなかった担架」

 

「はい」

 

 報告書のその列だけ、墨が薄い。書記官が迷って筆圧を落としたのかもしれない。

 

「変な戦果」

 

「かなり変です」

 

「でも、嫌いじゃない」

 

 桜華さんは、そう言ってから紙をもう少し引き寄せた。

 

 指先に力が入る。

 

 紙が少し鳴る。

 

「撃たなかった弾も、張らなかった結界も、出さなかった担架も数えられるんだ」

 

「数えることにしました」

 

 桜華さんは、紙から目を離した。頬にかかった髪を、指で直そうとする。その指が途中で止まった。

 

 僕は手を伸ばしかけ、やめた。医療班も動かない。

 

 桜華さんは、少し時間をかけて、自分で髪を耳へかけた。

 

「それ、三郷くんに見せたかった?」

 

 椀の底に残った麦粥の匂いが、急に濃くなった。

 

 たぶん、鼻がそこだけ拾った。

 

「はい」

 

 声は出た。

 

 掠れなかった。

 

 そこが少し嫌だった。

 

「見せたかったです」

 

「怒るかな」

 

「たぶん、最初は笑います」

 

 桜華さんは、椀の縁へ親指を沿わせた。

 

「うん」

 

「それから、すごいじゃんって言うと思います」

 

「言いそう」

 

 三郷の声をまねたつもりはなかった。けれど、言葉の最後が自分の普段より高くなった。

 

「そのあと、でも俺には分かんねえから説明しろって言います」

 

 桜華さんの口元が少し動いた。

 

 今度は笑っていた。

 

 弱いけれど、無理に作った形ではなかった。

 

「言うね」

 

「はい」

 

「それで、羽黒くんは説明する」

 

「たぶん、長くなります」

 

 桜華さんは椀を両手で包んだ。もう湯気はほとんど残っていない。

 

「三郷くん、途中で分かったふりする」

 

「します」

 

「それも分かる」

 

 会話が一瞬だけ教室へ戻り、温い椀の匂いが昼休みに近づいた。

 

 購買のパン。三郷が半分残して忘れる紙袋を、桐谷さんが机の端へ寄せる手。忘れたならもらうぞと言って、本当に食べかける佐々木の声。

 

 あの日の細かいものが、一度に来た。

 

 僕は目を伏せなかった。

 

 伏せると、たぶん紙の上へ落ちる。

 

 

「羽黒くん」

 

 桜華さんが、写しを板へ戻した。

 

「これ、嬉しい?」

 

「分かりません」

 

「また、それ」

 

「すみません」

 

「謝るほどじゃない」

 

 桜華さんは椀をもう一度持った。

 

 中はほとんど空だ。

 

 それでも、両手で持つ。

 

「たぶん、嬉しくて、嫌なんだと思う」

 

 医療班の人が包帯の箱を閉じた。

 

 金具の音が、小さく鳴る。

 

「誰も死ななかったのは嬉しい。でも、それを自分の手柄にすると嫌。そういうの」

 

「僕が言うと、言い訳になります」

 

「私が言ったから、私の言葉」

 

 桜華さんは、少し得意そうに椀を置いた。得意そう、というより、わざと胸を張った。寝台の上だから、ほんの少ししか張れない。

 

 それでも、昔の桜華さんの癖だった。

 

 体育の準備運動で、背筋だけ妙にきれいに伸ばす。

 

 先生に褒められても、本人は涼しい顔をする。

 

 その時、隣の女子が小さく拍手して、桜華さんが耳だけ赤くしていた。

 

 そういう記憶が、今の細い肩に重なる。重なって、ずれた。

 

 同じ人のはずなのに、あの頃の場所には、もう戻っていない。

 

「私、今日、椀を自分で持てた。戦果欄に書く?」

 

「書いていいなら」

 

「だめ」

 

 椀の中身は、もう半分もない。少し前なら、それだけで看護係が二人寄ってきた。

 

「でも、誰かには覚えておいて」

 

「覚えます」

 

「紙に書かないで」

 

「はい」

 

 桜華さんは、そこで息を整えた。

 

 息を整える間に、生命の表示がさっきより薄くなる。ゼロではないが、目を凝らしたくなる薄さだった。

 

 僕の目が数字を探す前に、医療班が水差しを動かした。

 

 桜華さんの口元へ、濡らした布を当てる。

 

 手順が先に動く。

 

 僕が数字を読み切る前に、医療班の手が動いていた。

 

 

 通信天幕から呼び出しが来たのは、桜華さんが眠りに落ちる少し前だった。

 

 師団司令部からの再照会。青杭六番で残した資源を、戦果の横へ記す根拠について。

 

 中止権者の権限範囲。返答が必要だ。桜華さんは、目を閉じたまま言った。

 

「行くの。行きたい?」

 

「行きたくはありません。でも、行きます」

 

 桜華さんのまぶたは閉じたままだった。寝台の布だけが、呼吸に合わせて小さく上下する。

 

「今のは、違い分かってる声」

 

 僕は、寝台の横で小さく頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

「少尉っぽい」

 

「それは困ります」

 

「じゃあ、羽黒くんっぽい」

 

 桜華さんの声は、最後だけ少し遠かった。眠りの端にかかっている。僕は写しを回収しようとして、手を止めた。

 

 桜華さんの指が、写しの上に残っていた。力は弱くても、紙から離していない。

 

「置いていって」

 

「敵の情報は消してあります。ここへ置きます」

 

 写しは置いていく。

 

 撃たなかった弾と、張らなかった結界と、出さなかった担架。その残量表が桜華さんの寝台の横に残る。

 

 戦果表としてではなく、今日、誰かが椀を落とさず持てた日の紙として。

 

 外へ出ると、火薬の匂いが戻った。

 

 通信天幕から、僕を呼ぶ声が重なる。

 

 羽黒少尉、少尉殿。そこへ、さっきの「処理上の少尉」が混じる。最後の呼び方だけは、桜華さんの声でしか鳴らない。

 

 僕は一度息を吐き、歩いた。

 

 温い椀の輪が、まだ指に残っている気がした。

 

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