ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

165 / 167
八章二十八話 銅板の線

《王録》 八章 二十八節

『錠前を作った者は、閉じた部屋の眠りまで選べない。』

 

2377- ゴルペホ後方接続点 武田哲弥視点

 

 銅板を壊さないまま、朝になった。

 

 武田哲弥は、机の前で寝ていない。

 

 寝ていないのに、眠った時のような痕が腕に残っている。

 

 木目の線、銅板の角、小刀の鞘。それらが、皮膚に細く写っていた。天幕の外で、朝の点呼が始まる。

 

 人の名前が呼ばれる。返事がある。返事がない名前には、少し間が空く。

 

 その間を、哲弥は嫌いになり始めていた。

 

 間そのものではない。そこに意味を乗せたくなる自分の頭が、嫌だった。

 

「武田さん」

 

 森田・ロハン・イケ于が、入口の布を少し開けた。

 

 昨日より目の下が薄く黒い。

 

 それでも、髪は結い直されている。

 

 結い目が乱れていないことで、かえって徹夜が分かることがある。

 

「入りますよ」

 

「どうぞ」

 

 森田は机の銅板を見た。

 

「壊していませんね」

 

「壊せませんでした」

 

「壊したかった」

 

「はい」

 

 銅板の縁は、ほんの少し曲がっている。指をかければ分かる程度の歪みだった。

 

「止めたかった」

 

「はい」

 

「同じではありません」

 

 森田は椅子を引かなかった。立ったまま、懐から折り畳んだ紙を出す。紙は四つ折り。

 

 角が揃っていない。急いで畳んだものだ。

 

「第三柵の試験報告ではありません」

 

「では」

 

「市街区の試験です」

 

 哲弥は紙を受け取った。

 

 市街区。市場前広場。監視線。拘束施設。代理接続。

 

 その四語だけで、喉が狭くなった。

 

 

 報告書は、淡々としていた。

 

 淡々としている報告ほど、読み手に仕事をさせる。

 

 市場前広場に銅板を三枚。広場の外周に監視員を四名。拘束施設に、受け皿と呼ばれていない受け皿を一名。

 

 接続距離、密度、閾値。

 

 言葉は整っている。整いすぎている。

 

「デモですか」

 

「名目は価格抗議です」

 

「価格」

 

「粉と魔導冷却油の値上がりです」

 

 補給不足は前線だけではない。

 

 街の鍋にも届く。

 

 パンの厚みが減り、灯りの時間が短くなる。

 

 それを言いに集まった人たちへ、銅板が置かれた。

 

「結果は」

 

「広場中央の密度が上がった時点で、軽度の頭痛、吐き気、手足の痺れを申告する者が増加。解散は自然に進行」

 

「自然」

 

 哲弥の口から、その二文字だけが出た。森田は訂正しない。報告書は続く。

 

 監視員の負荷は軽微。治安部隊の介入なし。

 

 拘束施設側の被接続者に、一時的な呼吸不整、悪夢、左耳の出血。

 

 死亡なし。

 

 その言葉だけ、二度読んだ。

 

 生きていればいい、とも読めるし、生きているのだから大した問題ではない、とも読める。どちらつかずの書き方だった。

 

 哲弥は、紙を机に置いた。

 

 指が、すぐには離れなかった。

 

「これは俺の試験ではない。俺は許可していない。それでも、できた」

 

「できました」

 

 森田の声は、少し低い。

 

「能力の原理そのものは、壊れていません」

 

「壊れていた方が、まだよかった」

 

 哲弥は、自分で言った後、その言葉の軽さに気づいた。

 

 壊れていたら、被接続者は死んでいたかもしれない。

 

 広場の人たちは、もっと強い痛みを受けていたかもしれない。

 

 壊れていなかったから、被害は軽く済んだ。だが壊れていないということは、まだ使えるということでもある。

 

 使えるのに、報告書の数字はこんなに小さい。

 

 死者ゼロ。治安部隊負傷ゼロ。抗議行動解散。

 

 報告書の上では、きれいな成功だった。

 

 

 市街区へ行くことになった。

 

 森田は同行しない。

 

 行けないのではなく、別の机に残る必要がある。

 

 許可番号。停止命令。回収手続き。

 

 そういう紙を、彼女は集める。哲弥は、治安部隊の古い車両に乗った。窓は小さい。

 

 座席は固い。油と布の匂いが、ずっと鼻の奥に残る。

 

 向かいに座った兵は、昨日の配膳担当ではない。

 

 年は近い。

 

 頬に剃り残しがある。

 

 靴紐の片方だけ、新しい。

 

「武田さんって、あれの人ですよね」

 

「あれ」

 

「痛みが返るやつ」

 

「そう呼ばれているんですか」

 

「上では違う名前みたいです。兵の間だと、あれです」

 

 兵は自分の膝を叩いた。

 

 軽い音。

 

「俺、正直、少し助かると思ってました」

 

「助かる」

 

「捕虜を殴る奴、いますから。味方でも。痛みが返るなら、やめるかなって」

 

「はい」

 

 兵は膝に置いた手を開いた。手のひらには、革手袋の縫い目が赤く写っている。

 

「でも、昨日の外周勤務の話を聞いて、嫌になりました」

 

「なぜですか」

 

「殴ってない奴の手が痛むなら、殴る奴は殴った方が得かもしれない」

 

 車輪が石を踏んだ。車体が小さく跳ねる。哲弥の膝が座席の板に当たった。

 

 兵は笑わなかった。

 

「すみません。変なこと言いました」

 

「いいえ」

 

 変ではない。

 

 むしろ、そこへすぐ行けるのが怖い。

 

 現場は早い。

 

 哲弥が、まだ言葉を選んでいる間に、兵は抜け道を見つける。

 

 

 市場前広場は、片付いていた。店は開いている。粉袋が積まれている。

 

 ただし、袋は小さい。前に見た大きさを哲弥は知らない。知らないのに、小さく見えた。

 

 人は少ない。

 

 少ないというより、広場の中心を避けて歩いている。

 

 中央の石畳だけ、乾き方が違う。雨は降っていない。水を撒いた跡だろう。

 

 嘔吐物を流したのかもしれない。哲弥はその中央へ歩いた。兵が止める。

 

「そこ、まだ嫌がりますよ」

 

「誰が」

 

「みんな」

 

 みんな。

 

 大きすぎる言葉だ。

 

 でも、店先の女が鍋を持ったままこちらを見ている。

 

 子供が、母親の後ろへ隠れる。

 

 老人が、広場を横切らずに遠回りする。

 

 みんな、という言葉が、一人ずつの足で形になる。

 

 哲弥は、中央へ入った。何も起きない。頭痛もない。

 

 吐き気もない。接続は止まっている。止まっているのに、誰も中央を通らない。

 

 銅板はもうない。痛みだけが、場所に残っている。店先の女が言った。

 

「また置くんですか」

 

 声は大きくない。でも、広場に通った。哲弥は振り向いた。

 

 女は鍋を胸の前に持っている。鍋の縁に、小麦粉が白くついていた。

 

「置きません」

 

「昨日も、誰も置くとは言わなかった」

 

 返せなかった。哲弥は、腰の袋から銅板を一枚取り出した。女の顔がこわばる。

 

 兵が半歩動く。哲弥は銅板を地面に置かなかった。両手で持ち、力を入れる。

 

 銅は硬い。

 

 小刀で傷をつけておいた溝へ、親指を押し込む。

 

 爪の下が痛む。曲がらない。もう一度。

 

 手のひらの皮が擦れる。銅板が、少し曲がった。溝が歪む。

 

 光はない。でも、これで器材としては使いにくい。

 

「これだけでは、止まりません」

 

 哲弥は言った。

 

 女ではなく、自分へ言った気がした。

 

「でも、これは戻しません」

 

 女はしばらく見ていた。

 

 それから、鍋を少し下ろした。

 

「粉、買うなら並んでください」

 

「買いません」

 

「じゃあ、邪魔です」

 

「すみません」

 

 哲弥は広場の中央から出た。店の前に人が二人戻った。それだけだった。

 

 それだけでも、銅板を曲げた手が熱かった。

 

 

 帰りの車内で、兵が言った。

 

「あれも報告しますか。器材破損で、怒られますよ」

 

「それでも報告します」

 

 車内の床に、銅板を包んでいた布が置かれている。まだ少し熱を持っていた。

 

「でも、少しすっとしました」

 

 兵は窓の外を見た。

 

 言ったあとで、自分の口が軽すぎたと思ったのかもしれない。

 

 哲弥は曲げた銅板を膝の上に置いた。歪んだ溝は、もうきれいな円を作らない。原理は消えていない。

 

 哲弥の中にも、まだある。問いは残る。痛みは返る。

 

 人は配置される。言葉は上書きされる。それでも、道具の形を一つ壊した。

 

 小さい。小さすぎる。けれど、最初から大きい否定など作れない。

 

 哲弥は、曲がった銅板を袋へ戻した。袋の底で、金属が鈍く鳴った。

 

――――――――

 

面白かったら、下記のリンクから評価やレビューをいただけると嬉しいです。

https://kakuyomu.jp/works/822139841314440520/reviews

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。