ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 八章 二十九節
『使われなかった鍵は、扉の前で一番長く錆びる。』
師団司令部からの再照会は三枚だった。青杭六番で残した資源、結界を張らなかった根拠、現場で中止を決められる者の範囲。
どれも字がきれいだった。書いた人は、少なくとも僕より寝ていてほしい。
「少尉」
書記官が言った。
「返答を間違えると、中止権者ごと削られます」
書記官の声は昨日より荒れていた。紙の角が一枚ずれている。彼にしては大きい。
「上から見れば、現場判断で作戦停止が起きる欄です」
「現場判断で作戦失敗を避ける欄です」
「そう書くと、上が悪い判断をしたように読めます」
「では、作戦継続条件確認欄」
「反対という字を消しますか」
「消すと、反対できなくなります」
「本文に反対を残し、欄名だけ丸めます。紙は尖ると破れますから」
通信兵が横で咳をした。書記官は自分の言い回しに眉を寄せたが、赤鉛筆は止めなかった。
彼は赤鉛筆を持ち、欄名を二つ書いた。表題。作戦継続条件確認欄。
小見出し。反対有無。中止権者。
再開条件。昨日より公文書に近くなり、その分だけ現場の言葉から離れた。
「これなら通りますか」
「通る可能性が増えます」
「断言できるなら、私は今ごろ寝ています。可能性までです」
「すみません」
「謝る先が違います」
書記官は、机の横の残量板を見た。
白い線が、昨日のまま残っている。
結界班が使わなかった結界HP。
そこに、白墨で小さく『未展開』と書かれていた。
誰が書いたのかは知らない。
字は、あまり上手くない。
でも、消されていなかった。
✶
返答には数字が要る。青杭六番。七十五ミリ級榴弾二。結界班配置予定三名、実配置ゼロ。白札なし。結界HP消費ゼロ。負傷は土砂転倒一、自力復帰。救護は徒歩誘導で、担架は待機を維持。
ただ残った数だけでは、偶然と区別できない。止めた者、理由、代わりに行った処置、再開条件まで必要だった。
「工兵下士官と結界班長を呼んでください。救護班長は、休んでいるなら起こさず、起きている場合だけ来てもらいます」
「三人の状態を確認します」
通信兵が外へ出る。
布が開いた瞬間、冷えた風が入った。
土と火薬に馬の汗が混じっている。補給馬車は増えたのに、箱は足りない。紙の見出しより先に、人と道が詰まっていた。
✶
最初に来たのは、工兵下士官だった。
上着の裾が泥で硬くなっている。
右の靴紐だけ、別の紐で結び直してあった。
「呼びました?」
「はい。昨日の反対理由を、もう一度教えてください」
「地面が緩かったからです。本当に、それだけなんですけど」
「紙にするには、もう少し詳しくお願いします」
工兵下士官は、右の靴紐を見た。
別の紐で結び直した靴。
昨日の地面を、まだ靴が覚えている。
「上へ出すので、もう少し細かく」
工兵下士官は、少し考えた。考える時、彼は空を見ない。靴を見る。
自分の靴ではなく、床に落ちた泥を見る。
「一発目で土嚢の後ろが水を吸いました。二発目を待つ前に、杭の根元が浮いてました。あそこで白札を出すと、札そのものより足場が動きます」
「結界面は立っても、立っている人間の足場がずれるんですね」
「反対理由は地盤軟化、白札掲示時の人員足場不安定、とします」
「硬いですが、紙ならそれで」
工兵下士官は、机の上の三枚を見た。
「これ、上が読むんですか」
「はい」
「未使用が戦果って、怒られません?」
三枚目の表には、まだ墨の乾いていない欄があった。撃たなかった砲弾の数だけ、白いまま残っている。
「怒られる可能性はあります」
「じゃあ、俺の名前、ちょっと小さく書いてください」
「無理です」
「ですよね」
彼は笑った。今日は前歯に土がついていない。そこまで確かめてから、僕は紙へ視線を戻した。
前歯の土が消えるだけで、昨日から今日へ進んだことが分かる。
それは、たぶん必要な情報だ。
✶
結界班長は、端の毛羽立った灰色の布を手首に巻いて来た。
「残した結界容量の件ですか」
「はい」
「してください」
「理由を」
「昨日、張っていたら、今日の朝は持ちません」
「持たない」
「結界HPは面に乗ります。張った瞬間から減る。撃たれなくても、六秒で半分。張り直せば、手首と目が先に鈍ります」
結界班長は手首の布を持ち上げた。
「少尉の表は弾の消費を残します。でも、張らずに残した容量と、休ませた手首は残りませんでした」
「はい」
「残してください。使わなかったことが、次の展開分です」
「文面は変えます」
「お願いします。俺がそんな立派なことを言ったら、班の奴らに笑われます」
「結界班長申告。次回展開分の容量を温存し、再展開疲労も抑制」
「そこは入れてください。若いのが、我慢すれば張れると思っています」
若いの。結界班長は、たぶん二十代半ばだ。それでも、若いのと言う側に立っている。
戦場は、人の年齢を雑に進める。
「入れます」
僕は、次回展開可能回数の温存、再展開疲労の抑制、結界HP消費ゼロと書いた。
そこまで書いた時、左手の手袋の下が熱くなった。
手袋の下では、二つの表示が濃いままだった。
その脇に、もう一つ薄い字が浮きかけていた。「負荷」に近い形だったが、すぐ揺れて消えた。今の僕には、まだ読み切れない。
昨日、誰も死ななかった。
それなのに、そのことでかえって僕の指揮は評価されていく。
強くなっていく。
そういう場所へ来ている。
✶
救護班長は、来なかった。
寝ていた。
それでいい。
代わりに、救護兵が一人、メモを持ってきた。
髪紐を貸してくれた人だ。今日は包帯を裂いた短い布で髪をまとめている。
「班長、寝ています」
「起こさなくていいです」
「これだけ渡せと」
メモには太い字で三行あった。担架は出せば戻す人が要る。その人を出せば、別の担架が要る。待機中の担架は救護線の余力である。
「そのまま使っていいですか」
僕が聞くと、救護兵は首を横に振った。
「班長、言葉が荒いから直せって」
「十分分かります」
「本人もそう言ってました」
僕は、少し笑った。
救護兵も、少し口元を緩めた。
それから、すぐに戻る顔になった。
「少尉、出さなかった担架まで戦果に書くのは、変ですね」
「はい」
「でも、昨日は助かりました」
救護兵の前掛けは替えられている。けれど、紐の結び目だけ昨日と同じ癖で固かった。
「救護班長の判断です」
「それでも、欄がなかったら、止めにくかったです」
救護兵は目を伏せなかった。目の下に、眠っていない人の赤みがある。
「残してください」
「残します」
「名前も」
「救護班長の名前ですか」
救護兵は、胸のあたりに挟んでいたメモを抜いた。
紙は少し湿っている。
たぶん、走ってきた。
「はい。怒られるなら、本人が怒られたいそうです」
「分かりました」
「あと、私の髪紐は備品扱いですか。返却予定は」
「借用品です。返却は戦後で」
救護兵は、自分の短く結んだ髪を触った。代わりの紐は、包帯を細く裂いたものだった。
「長いですね」
「すみません」
「いいです。戻ってきたら洗います」
救護兵はそう言って、メモを置いて出ていった。
歩き方が斜めだった。右足ではなく、腰。数字が出る前に椅子を勧められる仕組みが要るが、そのための手も足りない。
✶
返答書は、夕方までに形になった。
題。
作戦継続条件確認欄の設置理由。
一、敵火力誘導時における人員配置停止の記録。
二、結界HPおよび再展開疲労温存の記録。
三、救護線余力保持の記録。
四、現場中止権者の指定と再開条件。
五、残存資源を戦果欄横へ併記する理由。
書記官が読み上げる。
通信兵が符号化する。
僕は、最後の一文を直した。
当該欄は、指揮官の判断を制限するものではなく、指揮官が現場に残る資源を把握するためのものである。
そこへ、赤を入れる。指揮官。僕。
その単語だけだと、また僕へ戻る。
「ここ、変えます」
「どう」
「当該欄は、指揮所が現場に残る資源を把握するためのものである」
書記官は読んだ。
「指揮官を消すと、責任も少し薄くなります」
「責任は、別紙の権限範囲に残します」
「なるほど」
書記官は、赤を入れ直した。指揮官ではなく、指揮所。僕一人の手から、少し遠ざける。
遠ざけても、逃げたわけではない。そう言い切れるかは、まだ分からない。でも、今日の紙には必要だった。
送信前、通信兵が聞いた。
「少尉、これが通ったら全線に広がりますか。やっぱり、そのつもりの照会ですか」
「広げるつもりで聞いてきていると思います」
「嫌ですか」
「いえ。嫌じゃないです。ただ」
通信兵は、符号板の紐を結び直した。
結び目が小さい。
「少尉の机が、また増えますね。少しは困ってる顔をしてくださいよ」
「しています」
通信兵は信じず、増設用の板を壁へ立てかけた。
僕は頬を動かした。
たぶん、変な形になった。
通信兵が、今度ははっきり笑った。
「それは困ってますね」
「でしょう」
笑いが一つあるだけで、送信前の空気が少し軽くなる。
通信兵が符号を送り、残量欄の根拠が師団司令部へ出ていく。
戻ってきた時、それはもう僕の紙ではない。制度になるかもしれない。削られるかもしれない。
別の名前をつけられるかもしれない。
それでも、昨日止めた線の先に人が残ったことだけは、書いた。
外では、補給馬車がまた一台、遅れて入ってきた。
箱は少ない。
車輪の音も、重くない。
ただ、荷車そのものが足りないわけではなかった。
遠い道には、空き馬車がある。冒険者用の装甲車もある。荷を運べる手は、まだ消えていない。
消えていないのに、必要な箱だけが遅れる。
「また護衛依頼、北街道へ流れたそうです」
通信兵が、外から戻ってきた文書を見て言った。
「理由は」
「危険手当が高いのと、帰り荷があるから、と」
割がいい。
その言葉は、誰も悪人にしない。
冒険者は死にに行くために登録しているわけではない。
荷主も、安い金で命を買えると思ってはいけない。
それでも、魔導冷却液の箱はここに来ない。
十ミリ弾の予備部品も、橋梁線の縄も、同じ棚で止まる。
輸送量ではない。
向きが合っていない。
儲かる荷と、戻すために要る荷が、別々の道を走っている。
「少尉、次の地図を見ている顔をしています」
「地図はあります」
「では、嫌な顔です」
「それは、たぶん合っています」
僕は補給欄の横に、小さく書いた。
輸送量不足ではなく、依頼配分の不整合。
字にすると冷たい。天幕の布の外では、荷台の空きがそのまま残っていた。
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