ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 九章 一節
『足りぬ箱は、空の箱より先に数え手の眠りを削る。』
前線の指揮天幕。中尉と呼ばれて二日目の朝も、僕は返事がわずかに遅れる。呼ばれる。
返事をする。
その短い間に、襟元の階級章が少し冷える。
正式品はまだ届いていない。
反攻終盤に付けた仮の階級章を、そのまま使っている。
線が一本多い。
それだけで、人の目が少し変わる。
変わってしまう。
「羽黒中尉」
補給係が帳簿を持って入ってきた。昨日より髪が乱れている。耳の後ろの汗疹は赤みが増していた。
薬を塗る時間がないのだろう。言うべきか迷って、言わない。
言うなら、医療班へ回す仕組みを作ってからだ。
「帳簿の前に、薬を回しますか」
補給係が眉を上げた。
「何の薬です」
「汗疹です。補給係が倒れると、箱より先にこちらが詰まります」
「中尉、それは口説き文句としては最悪です」
「補給文句です」
補給係は少し笑い、帳簿を開いた。今日の仕事は、足りない箱を嘆くことではない。残った箱を、必要な線へ間に合わせることだった。
「魔導冷却液、到着二本。追加分、未達」
補給係は、帳簿の下に挟んでいた薄い伝票を抜いた。
赤い線が、北街道の欄だけに引かれている。
「理由は、北街道ですか」
「北街道便、第三整備場へ直行」
「帰り荷があるんですね」
「砲尾部品と、装甲車用歯車軸です」
歯車軸。それは要る。魔導冷却液も要る。
どちらか片方が無駄なら、まだ楽だった。両方要るから、帳簿は痛くなる。
「冒険者組合の護衛割り当ては、昨日からどう変わりましたか」
「北街道が二から三、こちらは一のままです」
「こちらは増えず、向こうだけ増えていますね」
補給係は頷かなかった。
帳簿の背を親指で押して、まだ開いたままにする。
補給係は、そこで帳簿を少し閉じた。
閉じきらない。
指が挟まっている。
「冒険者側の言い分は、北街道の危険手当が高く、帰り荷と食事も確定していること。こちらは復路回収補助が試行中で、支払いが遅いことです」
「こちらに都合のいい嘘が一つもない。正しいですね」
正しい。
だから困る。
間違っているなら、直せばいい。
正しいものが並んで、必要な箱だけが遅れる。
「会計担当は、もう怒っていますか」
「朝一番、朝食より先に」
「健康的ですね」
補給係が一瞬だけ口元を緩めた。
その後、すぐに帳簿へ戻る。
「復路回収補助の支払い前倒しを確認中です。できない理由なら三つ聞きました」
「では、できる理由を一つ探してください」
「これから探します」
その返事は、少し強かった。
僕は頷く。
「お願いします」
「はい」
補給係は出ていく。背中に、帳簿の角が当たっている。痛そうだ。
それでも、抱え方は昨日よりましだった。
✶
足りない箱の表を作る。魔導冷却液。十ミリ弾部品。
結界発生器の小型導線。橋梁線用の乾いた縄。救護用の清潔な布。
どれも、前線に出る前はただの名詞だった。今は違う。冷却液が足りないと、砲兵の間隔が伸びる。
十ミリ部品が足りないと、水車小屋線の射撃が短くなる。
導線が足りないと、結界HPを張れる班が一つ減る。
乾いた縄が足りないと、旧水路の戻送が遅れる。
清潔な布が足りないと、救護兵が自分の袖を見始める。
袖は、最後に切るものだ。
最初に切らせてはいけない。
「中尉」
通信兵が言った。
まだ少し、呼ぶ側も慣れていない。
「水車小屋線より、十ミリ機関部の交換予定確認」
「在庫を見てください。予備があるなら、予定通りで構いません」
「交換部品一。予備なし」
「射撃予定を半分へ。撃てるから撃つ、は今日はやめます」
通信兵は、半分、という言葉をそのまま書きかけた。
そこで一度止まる。
「敵が結界補助具を出すまでは撃たない。歩兵だけなら小銃班へ回してください」
「了解。水車小屋線、十ミリ射撃制限」
「山崎さんへ。砲撃で代替できるか確認」
符号機の針が短く鳴った。
「送ります」
「ただし、冷却液二本なので、砲撃で全部を埋めない」
「砲撃で全部を埋めない。冷却液二本、優先射だけ」
通信兵が符号を打つ。こういう時、戦術は華やかではない。削る。
減らす。待つ。それでも、敵は待ってくれない。
待たせるために、別の線を動かす。
「旧水路戻送路の、乾いた縄の不足分は」
「二十七歩ぶんです」
短い。
短いのに、担架を持つ人間には長い。
「乾いた縄は曲がり角へ。直線は湿った縄で代用してください。結び目を増やさない」
「曲がり角優先、直線は湿った縄」
「救護班へ、滑る場所に布を撒かないでください。布は止血優先」
「布は止血優先」
命令が、どんどん貧しくなる。
豪華な命令というものがあるなら見てみたい。
たぶん、嫌いになる。
✶
昼前、冒険者組合の連絡員が来た。
以前、西詰所で見たことのある男だった。
名前はラドではない。
でも、ラドと同じように、靴の泥を入口で落としてから入る。
礼儀ではなく、習慣だ。
現場を歩く人の習慣。
短く刈った髪の根元に、白い粉がついている。
粉袋を運んだのだろう。
「羽黒中尉、組合からです。北街道へ護衛が流れている件で」
「責めるためには呼んでいません」
「それは助かります。責められると、うちの連中は余計に来ません」
「でしょうね」
連絡員の指から、粉袋の白い粉が机へ落ちた。
「分かってる返事ですね」
「分かっている途中です」
「それなら話が早い」
彼は折り畳んだ紙を出した。依頼一覧。北街道護衛。
危険手当。帰り荷。食事。
組合評価。こちらの復路回収補助。試行。
支払い未確定。食事、薄い。最後の一行で、通信兵が僕を見た。
「食事、薄い」
「書いてあります」
「書かれていますね」
連絡員は真面目だった。
「味も腹に入る量も大事です。戦地の護衛は報酬だけでは来ません。帰ってから倒れる依頼は割が悪い」
「倒れた人数は」
「昨日二人、今日は今のところ一人です」
彼は淡々と言う。
淡々としているが、軽くはない。
「冒険者は戦争の兵ではありません。死ぬなら、自分で選んだ依頼で死にたい。割の合わない帳尻合わせでは死にたくない」
「昨日二人、今日一人。こちらの便へ戻す条件を教えてください」
僕が聞くと、連絡員は依頼一覧の食事欄を爪で叩いた。
「では、条件を変えます」
「どのくらい」
「復路回収補助の支払いを前倒し。食事は濃くします。帰り荷は空薬莢、修理済み部品、使用済み結界導線。組合評価に救護協力を加算」
連絡員はそこで一度、帳簿の行を指で数えた。北街道の欄だけ、すでに三つ埋まっている。
「危険手当は」
「上げられません」
「なら、北街道には勝てません」
「勝たなくていいです」
連絡員の羽ペンが、帳簿の上で止まった。北街道と書かれた行だけ、先に黒く埋まっている。
「一部だけ戻してください」
「一部」
「こちらの線は、全部を取られると困ります。でも、全部は要りません。必要な箱に必要な護衛だけ」
天幕の外で荷馬が鼻を鳴らした。こちらの線に残っている便は、その鳴き声より少ない。
「軍人らしくないですね」
「処理上の軍人です」
「それ、流行ってるんですか」
「一部で」
通信兵が、横で口元を袖で隠した。笑いを飲み込むには、天幕の中が静かすぎる。
笑っている。
連絡員も、少し笑った。
「一便、戻します。二便目は飯次第です」
「食堂班へ、味を濃くするよう伝えます」
「本当に伝えるなら、一便」
連絡員は紙を畳んだ。帰り際、入口で靴の泥をもう一度落とす。ついた泥は少ない。
それでも落とす。そういう人なら、また来るかもしれない。
✶
午後、敵は軽く押してきた。軽く。そう報告された。
実際には、軽い攻撃などない。南低地の林縁から歩兵十二。推定観測手一。
重機関銃なし。結界補助具一。こちらの十ミリは、交換部品一。
撃てる。でも、撃つと次がない。
通信板の端で、希望さんの観測札が更新された。南低地へ出した連絡員は、少し前まで予定線上。林縁へ寄せた救護兵は停止。沢渡さんの計算では、停止から三分。負傷者を拾っただけなら長い。
希望さんが渡した少し前の景色では、停止位置の外側に十二の反応が薄く重なっていた。千里眼の中でも数字は見える。敵歩兵の報告数と合う。見えていない現在地は、地図の上で円になった。
「位置」
「南低地二番林縁。前線まで一・六キロ」
「意図」
通信兵が待つ。僕は地図を見る。敵の歩幅。
結界補助具の位置。推定観測手の棒状器具。重機関銃がない。
ないことを見せている。
「威力偵察です。こちらの十ミリがまだ撃てるか探していますが、撃ちません」
「小銃班、土手の手前まで発砲禁止。山崎さんは低装薬一発で、林縁右の枝を落としてください。敵に十ミリが沈黙している理由を考えさせます」
「敵ではなく枝。了解」
砲声。枝が落ちる。敵歩兵が止まる。
推定観測手の棒状器具が、落ちた枝へ向く。十ミリは撃たない。結界班も出さない。
小銃班も待つ。待つことが、今日は戦闘になる。
「敵は停止。前進再開なし」
「水車小屋線、偽装布を一枚だけずらし、十ミリの銃口ではなく影だけ見せてください」
「撃てるかもしれない、と思わせる影だけ」
影が動く。敵の結界補助具が、白く薄くなる。面は途切れない。
ただ、張るかどうか迷っている。迷いも残量を使う。六秒。
さらに六秒。白が薄くなる。
「敵、後退開始」
「追わないでください」
「追わない」
「戦果」
通信兵が、少し早くこちらを見る。
もう、聞かれる前に欄を探している。
「敵威力偵察、後退。味方弾薬消費は低装薬一。十ミリと小銃は全数残存、結界容量も維持」
「未発砲まで入れると、補助欄がまた太りますね」
「僕より先に太ります」
通信兵が笑った。
その笑いを聞きながら、僕は左手を見る。
今日は誰も殺していない。それでも、左手の表示は薄くならない。撃たなかったことで、敵を下げた。
死者の数だけで濃くなるのではない。撃つ、撃たない、戻す。その判断で誰かの次の行動が変わるたび、読めない線が僕へ戻ってくる。今は、そう見えた。
それも戦果になる。
戦果が増えるほど、それは僕の名前に結びついていく。
階級章の線は一本増えただけなのに、机の上の書類はどんどん増えていった。
✶
夜、冒険者組合から一便が戻った。荷台には、空薬莢の袋。使用済み結界導線。
修理済みの小型歯車。
そして、食堂班が作った濃いめの豆スープの鍋。
連絡員は、鍋の蓋を開けて匂いを確かめた。
「昨日よりましです」
「食堂班へ伝えます」
「それは伝えていいです」
「はい」
荷台の冒険者が一人、こちらへ手を振った。眠そうな顔。昨日の人とは違う。
でも、同じように割の合う方へ動く人だ。
「次も来ますか」
僕が聞くと、彼は肩をすくめた。
「飯と帰り荷次第です」
「では、両方用意します」
「中尉さん、変な軍人だな。処理上ってやつか」
彼は笑った。馬の背を叩き、荷台から降りる。空薬莢の袋が、二つ地面へ下ろされた。
金属の音がする。使った弾の残り。戻ってきた金属。
足りない箱の中に、戻る箱が一つ混じる。それだけで戦線は救われない。でも、一日だけ持つ。
一日持てば、明日の判断ができる。僕は補給表に書いた。復路回収補助、一便成立。
魔導冷却液、未達四。十ミリ部品、予備なし。救護布、要追加。
空薬莢、回収二袋。食事、改善余地あり。
最後の一行は、補給係に見つかったら笑われるかもしれない。
でも、消さない。食事の味で、人は道を選ぶ。それも補給だった。
補給表の末尾には、食事、改善余地あり、の一行が残った。
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